ディーの染み抜きは十点中六点
すっかり間が空いてしまいました。やっと、仕事が一段落ついたのでまたじんわり再開していきます。
「──と云う訳でな、愚かなる長兄を弑逆し里を離れた後も、我は己が身を滅ぼす術を求め二千余の星霜を徒に流離っておる、仙人擬きなのじゃな」
〈それは……大変お辛いことを訊いてしまいました……申し訳ありません〉
「クク、好い好い、気にするでない。どうにも年寄りは若者相手の昔語りが楽しゅうてな。寧ろ我が律さねばならぬ事よの」
──ん? 何の話だ?
「うむ、丁度戻って来おったな」
「あ、父さん! もう、変なとこで固まんないでよ。心配しちゃったし、迷惑でしょ!」
「……すまない。ついトリップしてしまった」
どうやらカイルから広がるありとあらゆる無数の未来と系譜、数多の並行世界に思いを巡らす余り、俺の矮小なリソースは足りなくなっていたようだ。
俺の息子は無限の宇宙だからな。その前では俺など塵芥同然。仕方がないだろう。
〈おじさんって、いつもこんな……こんなだっけ……?〉
「いや、いつもはここまで酷くないからね? ほんとに」
〈そう……〉
「……」
いやー、隔てた時の永さを感じさせない息子と幼馴染のこの気兼ねないやり取りときたら、ああ、例えるならば滾々と湧き出続ける源泉かけ流しの温泉のようだ。
五臓六腑に沁み渡る……極楽浄土、涅槃寂静──。
「煩悩が消えぬ内は涅槃ではあるまいよ。
……して、我の昔語りを消閑にしたが、カイル、お主も昔語りすると云うならば、流石に人払いをしてやろう。どうする」
「それは……マイスには、ちょっと……」
「『幼馴染』を言い訳にするか?」
ア゛ン? 何だ何だ喧嘩売ってんのか俺の息子に??
「……俺は、今まであった事の全部を受け止められてるわけじゃないです。けど、それを乗り越える事と、晒して同情してもらったり傷付けたりする事は、違うって俺は思ってるんです。
それに……俺は話してないけど、父さんや師匠は全部、もしかしたらディーもなんとなくは……知ってるんでしょ?
なら、俺はいいんです。しばらくは、父さん達に甘えます」
オ゜ア゛ッ!!??
「ククク、お主の朴実にして天衣無縫たろうとする処は実に好ましい。
……最後の一言で、肝心の男が沼の泥の如き様になっとるが、今は目を瞑ろう」
「……はい」
〈ねっ、ねえ、カイルっ。なんかおじさんがすごい、なんていうか……そう、溶けたバターみたいになってるんだけど……!
これ、生きてるの? ほんとに人間? だいじょうぶ??〉
「う、うん。人間。ちゃんと人間」
「人の身より外れることなく人に非ざる斯様な有り様に成れる点については、我もしばしば驚かされとるわ」
〈そ、そうなんですか……これ、敷物に染み込んじゃったりしてませんか?〉
「前なぞ煙だか霧の如き姿に成りおった事もあったしの、問題なかろう。何、昔取った杵柄に染み抜きの業もある。いざという時は我が手ずからに繊維から叩き出してやろう」
へぁあ〜〜〜〜〜尊い────
◇
〈カイルが僕に話しにくいって言うんなら……まあ、深く詮索はしないよ〉
マイスが寂しそうに、でも優しげにそう言ってくれた。
こういう所は見た目通りじゃないっていうか、昔とは全然違う。
昔はもっとこう、喧嘩っ早い感じだった気がする。俺は俺で、ちょっと負けず嫌いなところもあったし。
あとお互い、一人称が父さん譲りだったから、俺が「俺」にマイスが「僕」。でも自分の性格とそれが微妙に噛み合ってなくて、何となく面白かったんだよね。
……。
マイスには、大人としての人生がちゃんとあったんだなっていうか……別に自分がまだ子供なのが嫌ってわけでも、大人なのが羨ましいとかそういうんじゃないんだけど。
何となく距離を感じて、というより気を使わせているなと思う。
ああ、そっか。
俺の体感だとぐちゃぐちゃで、俺が俺だと思い出したのも結構最近だけど、マイスからしたら人生を何周分もしてから俺と再会してるんだ。
「……ごめんね」
なぜか自然と俺の口からそんな言葉がこぼれると、それを聞いたマイスは目を細めてすごい……しかめっ面。で、自分の頭を少し乱暴にかきむしる。そういうとこは昔と変わってないんだなあ。
〈だ〜、ンな顔して謝んないで! 幼馴染同士だって言いにくいことの1つや2つぐらいあったって別にいいんだから。
それに……どっちかって言えば、僕の方こそカイル達にずっと負い目がある。きっかけもそうだけど、結果的に僕らで勝手に祀り上げて、悲劇の家族として歴史に残しちゃったし〉
「まあ、びっくりしたのは確かだけど……なんか持ち上げられ過ぎてて、正直現実味があんまりないよね」
美化って言うと違うし、脚色されてるっていうのとも違うんだけど、なんだか高尚な芸術作品みたいになっちゃてて、今ひとつ自分と結びつかないんだよね。
実際、〝英雄の家族に起きた悲劇を題材にした300年前の作品〟って字面だけで見ると、そりゃもう古典扱いされててもおかしくない。普通に古文学だよね。
〈まして……また逢えるなんて、それこそ本当に、これっぽっちも考えてなかった〉
「そう、だね。俺もだよ」
だって、300年だ。
普通の人は死んじゃうし、あの頃の俺にエルフみたいな長命人種の知り合いはいなかった。確かそういう長生きする人達は、代わりに中々子供ができなくて人口も少ないって父さんが買ってくれた本にも書いてあったと思う。
とにかく、今は俺を知ってる人も俺が知ってる人も、もう、誰もいない。
父さんはともかく、俺はただの子供。だからあのまま誰からも忘れられて、街も変わって、もしかしたら国も変わって──そうして俺の知るものと俺を知るものが何もなくなった中に、昔と変わらずあの家だけが異物みたいに残ってる──そう考えてたけど、でも、そうじゃなかった。
マイスとおじさんが生涯をかけて、いや、生涯を終えてなお、父さんと母さん、そして俺のことを遺してくれていた。
待ってくれていた。
「ありがと。待っててくれて」
〈別に待ってたわけじゃ……はぁ……どういたしまして〉
あ、ちなみに師匠とディーは、どこかから出したエプロン姿に手袋をつけて、短い毛の束が先っちょについた棒で敷物をさっきからトントンして染み抜きしてる。
◇
そしていつの間にか父さんは人の形に戻ってる。
大丈夫だろうって最初から予想はしててたけど、いくらなんでもデロデロになってるのは見ててすごい心配だったから良かった……。
「危うく二人を見守るカーペットになってしまうところだったが、よくよく考えればカーペットになってはカイルを甘やかすことができないな。難しい問題だ」
「バカじゃねえのもっと早く気づけよ。あとカーペットになるなよバカじゃねえの。ここひとん家だろ」
「ディー、凄いストレートに突っ込んでる……!」
すっかりディーも家族として馴染んできてるなあ。
父さんも師匠も、全然常識にとらわれないというか、まあ、理不尽、みたいな? ところがあるから、俺もだけど不意を突くみたいに振り回されるんだよね。ディーは特にリアクションが面白いから、俺以上にしょっちゅうイジられてる気がする。
「語彙不足で同じ文言を二度使うとる。健気にも思える素朴な視点自体は評価できるが、拙さばかりが際立ち反復法と捉えるには修辞的技巧に欠いておるな。人を罵る才能が感じられぬ。十点中三点」
「……」
「そのエプロンは中々似合ってて俺はいいと思うぞ」
「うっせぇ!」
エプロンを乱雑に脱ぎ捨てて、そのまま丸めて投げつけそうなプンプンと怒りに染まった声を荒げながら、ディーは着ていたエプロンをいそいそと脱ぐと丁寧に畳んで師匠に返していた。
ディーのそういうところかわいいと思う。
〈……そういえば、ディーって子は……もしかして彼にも何か辛いことがあって連れてるの……?〉
まあ、そう思うよね。実際そうなんだけど……ディーのことを俺が勝手に話すのはちがうと思う。
だから、俺は新しい家族をマイスに紹介した。
「ディルマーは、俺の義弟なんだ」