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信仰の限界




 息子(カイル)が部屋に戻ってきたのだが、ツイていないことにパサナというあの修道女まで一緒に部屋までやってきていた。

 面倒だが、話の主導権を握っておくため先手を切る。


「浴場で倒れたあの包帯の子は大丈夫でしたか?」

「はい、クリフは無事です。お助けいただき本当にありがとうございました。ただ……」

「ただ?」

「いえ、その……あの子の傷が急に良くなったもので」

「はぁ。それは良かったですね?」

「え、えぇ……」


 俺の「なんか知らないけどよくなったの、そりゃ良かったね」という内容の無いやりとりに、修道女は質問をしあぐねている。このまま知らん振りを貫かせてもらうぞ。

 そしてとっとと話を切り上げよう。


「カイ、慣れない旅で疲れただろう。体が温かいうちに今日は早めに寝るといい」

「…うん、そうする父さん」


 俺の呼びかけに、息子はもぞもぞと寝間着に着替えて、ぽふんっとベッドに入り込む。

 いやー、かわいいな。所作ひとつひとつが既にかわいい。


「……」

「……明日またお礼をさせてください。クリフにも礼をさせますので」

「分かりました」


 俺はそっと扉を閉じて鍵を掛ける。

 でもっていつもの認識阻害や遮音などの防諜処置を施す。


 ん?


「すー……すー……すー……」


 どうやら息子は本当に寝てしまったみたいだ。

 はーーー、息子の寝息で部屋の空気がどんどん浄化されていくように感じる。空気が良い。


 下は何やら騒がしいようだが、知らん知らん。俺は息子と最高の夢を見るので忙しい。







 いつもより賑やかな食堂。


 それもそのはずで、時折高熱で倒れていてそう長くないだろうと思われていたクリフの傷が綺麗さっぱり治ってしまったからだ。

 孤児たちも喜んでいるし、この宿の一部の常連などは大はしゃぎで、我が子の事のように喜んでは蒸留酒を一気飲みしていた。


 この常連は、血まみれのクリフを助け出した者達だ。


 助けておきながら、いつ死ぬともしれない子供の面倒を見るだけの余裕もなく、教会に預けた彼の様子を見るためだけにたまに宿を利用するしかなかった。

 運悪く高熱でうなされているタイミングで来た時など、「早く会いたい」「なんでぼくだけ」「どうして」という途切れ途切れに吐き出される呪詛のような譫言(うわごと)を耳にしては俯くことしかできなかった。


 そんな普段は色々と慮って加減していたのだと思い知らされるほどの酔っ払いを孤児達が捌けるわけもなく、結局パサナが顔を紅くさせた大人達への対応をする。

 当然ながら、クリフ本人はまだ病み上がりということで寝床に引込められている。


「で、実際の所よぉ、なんであの傷治ったんだぁ?」

「そうよねぇ。クリフの左目は完全に駄目になってたと思うんだけど」

「……神のご加護なのでしょう」


 泥酔した男女の疑問にパサナはそう答えながらも、それで納得できていない自身の信心の低さに嫌気を感じていた。


 そんな彼女の心を読むように、無精髭のガタイの良い男が酒気を纏った息を吐きながら声を荒げる。


「ンなわけないってのはぁ、アンタがいっちばん分かってんだろシスターさんよぉ? だったら今まで死んでったガキ共はなんだったんだよ。アイツらがなんか悪い事してたってのか? 祈りが足んなかったってか? 冗談じゃねぇ?! 神様なんざぁクソ喰らえだ!!」

「ま、そこまでは言わないけど、このオッサンがピンピン生きてて、子供達が死んでるんじゃ、そう思っちゃうのも仕方ないよねぇ」


 その通りだ。パサナはその言葉を否定することができず──むしろ立場上口にすることができない己の醜い思いを代弁してくれているようにすら思えた。


 信仰は死者を救わない。

 救うのは生きる人々の心。


 そして心を救うだけで、身体は救わない。

 現実の受け取り方を変えるだけで、現実の在り方は変わらない。


 もし現実を変えたのなら、それは人の力。

 魔法か、科学か、ただの偶然か。


 しかし少なくともクリフの傷は、この近辺で一般市民の手の届く医者による治癒魔法を交えた治療程度では実際どうにもならないものだった。左目は殆どが抉り潰され、頭蓋や頬骨の一部も削り取られて露出していた。


 それを治すなど、それこそ奇蹟かお伽噺の魔法薬でなければ不可能。


 お伽噺というのはファンタジーという意味ではない。


 相当に高い身分の人間が相当な量の金を積んでツテを使って、ようやく手に入れられるかどうからしい、魔道大国と謳われるニルギリ共和国にあるという秘薬。

 それは欠損を補い、傷を癒し、あらゆる病を消し去るという、完全回復薬(ホールポーション)。眉唾だが。


 そしてそんなものが仮に実在していたとして、どのみち一庶民の手に届くわけがない。少なくとも孤児一人にそんなものを使うなど馬鹿げている。


 だから、彼女は真っ先にクリフを介抱したデルグとカイという親子の客の元に訪ねた。きっと彼らが何かしたのではないかと。


 彼女はこの奇跡をこの一度きりにはしたくなかった。もう取りこぼすことに慣れてしまいそうな自分が嫌いになりそうだった。


 しかし何も分からなかった。ただの親切で少々子供に過保護な珍しくもない親子にしか見えなかった。







「お客さん……デルグさんとカイさんの背中流して、ぼくも流してもらって、それで、お風呂につかった……とこまでは覚えてるんですけど……」


 ぼくは、治った左目やその周りの傷をお医者さんに診てもらった後、寝床に横になったままパサナさんに倒れたときの状況を話していた。

 もう夕食も済んで、お客さんたちはみんな部屋に戻っている。


 正直、あの時のことはよく覚えていない。気付いたら脱衣所でダンの声に叩き起こされただけなんだから。


 ただ……


「ぼく、たおれてる間に……みんなに……父さんや母さん、姉ちゃん、(コタ)……会った気がするんです。ただの夢、だと思うんですけど」

「……そう」

「みんな、ぼくにこっち来るなって。ごめんって。生きろって。もっと、みんなに、あ、あまえて、いい、から、って……」


 キュウっとした熱さがまた両の目に集まって、溢れては地面に引かれていく。


 あれは、ぼんやりとした夢のようなものだった気がするのに、その言葉だけが、なぜだかはっきりと浮かんだ。

 忘れかけていた声色で、確かにそう言われたと。


 なんて都合のいい夢(残酷な悪夢)だろう。


 前までならそう思うようなことだけど、今はそうじゃなかった。


 パサナさんは、ぼくの子供じみた妄言のような言葉を、それでも優しく受け止めてくれた。そしてぼくに尋ねる。


「クリフはどうしたいですか?」

「ぼく、は……」


 その答えは、自然と口からこぼれた。


「……ぼく、生きたい……」

「はい」

「好きな人と暮らして、子供もたくさん育てて、それで」

「はい」

「それで、こんなに幸せになったよって、言いたい」

「とても素晴らしいことですね」


 パサナさんがハンカチでぼくの濡れた頬をそっとぬぐって、柔らかく頭をなでてくれる。


「ですが、貴方はまだ子供でいてもいいのですよ。クリフ」

「え?」


 ぼくは、一瞬意味が分からなかった。


「自分で言ったでしょう。だから、いいのですよ。もっと他人に頼っても。もっと私達に甘えても。人は一人で幸せになるものではないのですから」



 ぼくはそのあと結局眠るまで視界が涙で歪んだままだった。

 パサナさんは、ずっとぼくの頭をなで続けてくれた。




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