宿のお風呂に入ろう
俺達はダンに入浴料とチップとして200セイルを渡し、脱衣所でしばらく待っているから仕事に戻ってくれて構わないと伝え、ダンと別れた。
そんなわけで掃除が終わるまで脱衣所でだらだらとしていると、息子が躊躇いがちに尋ねてきた。
「……ね、ねぇ、父さん」
「ん? どうしたカイ」
「もしかして……あのハムとか調味料って、すごく高いんじゃ……?」
「あぁ……」
この宿に来る前に息子と商店を歩き回って精肉店で13万セイルほど稼いで、生ハムが3万(これは肉の買い取り額から直接引かれているので、息子は額を知らない)、調味料が3万、粉ものはまとめ買いして1000セイル。
「合わせて6万セイルぐらいだが……一般的に言えば、成人男性1人の二か月分くらいの食費になるな。狩猟や採取ができる人間ならもっと持つだろう」
「かっ、買う前に止めてよぉ! えぇ、あのお店凄い高級店だったの!?」
精肉店で買った生ハム丸々一本はともかく、“グアンダ”で扱っていた調味料は中々面白かった。
「まぁ珍しいものが多かったな。遠い異国のものとかもあったし……昔よりはかなり安くなってると思うぞ」
「そ、そう……?」
「まぁあれだけの金があれば、ここの子供たちは質素な食事でひと月持つかもな」
「うぅ……」
息子は今世では買い物をする機会が殆ど無かった。その上異国なのだから物価が分からないのは別に責めるようなことではない。
なにせ俺は金になど困っていないし、こういうものは本来適度に使っていかなければ経済が回らない。
最近は国も金もどうでもいいと思いかけていたのだが、息子と生きていける以上、息子の為ならいくらでも経済だろうがなんだろうが回してやろうと今は思える。
「そういうわけだから、俺の懐を気にすることはない。250年分のロクに使ってもいない貯蓄があるからな。気になるなら、幾らか教会に寄進しようか?」
「……うん、そうする」
◇
入浴のため服を脱いで待っていると、浴場へ続く曇りガラスの引き戸に人影が近付く。先ほどのダンとのやり取りでわかっていたが、その大きさは当然子供サイズだ。
「お客さん、お待たせしました」
ガラガラと音を立てて開かれた戸から投げ掛けられた声に目を向けると、そこにはデッキブラシとバケツを持ち首にタオルを掛けた全裸の少年がいた。明るい飴色の髪はしっとりと湿り気を帯び、細い肉体はしかし仕事をしていることで僅かばかりの筋肉が付いている。
風呂場の掃除なのだから、濡れることも考えて服を着ないというのはおかしなことではないのだろう。
だが自然と、俺も息子もその少年の顔に視線が引き寄せられた。より正確に言えば、少年の左目にだ。
その左目を通るように、少年の頭の左上は包帯で覆われていた。
俺にはその包帯の向こうの様子も手に取るように分かった。眼球はもちろん頬骨や肉の一部諸共抉り裂かれた痛々しい爪痕。
一命を取り留めたのは、それこそ運が良かったのだと推察できる。いや、孤児院にいる時点で、運が良いとは言えたものではないか。
少なくとも保護者を失い、今も痛む傷が、そのときの惨状を決して色褪せさせないだろう。
少年はその視線に気付き、まあ慣れているのかもしれない。右だけの鶯色の瞳を動かして、ぎこちなく笑う。作り物の笑顔だ。
「あんま、お客さんに見せれる顔じゃないんで。そんな見ないでください」
可哀想だとか大変そうだとか、そんな安っぽい同情も憐憫も飽き飽きしているに違いない。そんなものは、結局は「自分はまだ幸せだ」と下を見て安堵する自己満足で、彼の何ひとつを救うものではない。
なので俺はそういう言葉は避けることにした。
「あぁ、済まない。職業柄、傷を見ると様態を確認してしまう癖があってね」
「はぁ……」
「それで、一番風呂に同伴させてもらってもいいかな。ダン君からは構わないと聞いたが……」
尋ねはしたものの俺も息子も既に裸だ。少年の方も中途半端に身体が濡れたままでは風邪を引くだろう。
「背中を流してくれるなら、チップも弾もう」
「分かりました」
こう言うのは下手な同情よりも、労働に対する正当な対価という体であったほうが抵抗が少ないものだ。少年もそう言う事ならと、掃除用具を片付け、そのまま俺達を浴場まで案内してくれた。
◇
石畳の浴場には、木製の巨大な浴槽があった。山の間伐材が豊富だからだろう。木々の柔らかな香りが、湯気と共に身体を包み込む。
「君のように怪我をしている子はこの孤児院にどれぐらいいるんだ?」
「そんなにはいないです。こんな怪我したら、普通はすぐ死んじゃうから……あ、こんなことお客さんに言うことじゃないですね。ごめんなさい」
「俺が訊いたんだ。気にしなくていい」
隻眼の少年の名は、クリフというらしい。
彼が俺の背中を流しながら(息子は手持ち無沙汰だったが、一緒になって静かに耳を傾けていた)語ったことは不思議でも何でもない。
応急処置や簡単な治癒魔法でどうにかなる怪我は、そもそも自然治癒でどうにかなるレベルでしかない。
クリフのような重傷には対処しきれず、日に日に腐り膿む傷を洗い流しては薄皮を生み出す程度。あとは薬で痛みを誤魔化すぐらいだ。それだって嵩めば安くはない額だろう。
そして、いずれ傷が元で体を壊していく。痙攣を伴う高熱や神経障害、多臓器不全で死に至る。そうでなくてもまともに自活できなければ長く保たないことに変わりない。
息子からちらりと視線を感じる。心配しなくともこの程度簡単だ。父さんに任せなさい。
「あ、あのお客さん」
「なんだ?」
「ぼく、自分で洗えるんですけど……」
「世の中には身体を洗わせることがサービスになることもあるからいいんだよ」
「は、はあ……?」
俺は息子の背中を流しているクリフの背中を流していた。そしてそのついでに身体の細かい部分を観察する。
頭部以外に問題になるような傷は無さそうだ。
身体を一通り洗った俺達は、ゆっくりと湯船に身を沈めた。
「はぁ〜きもちい〜」
「木の風呂に入るのは初めてだが、なかなか良いもんだな」
「うちの宿の自慢なんで。そう言ってもらえると掃除した甲斐があります」
息子の顔がふにゃふにゃに蕩けている。
なんだかんだで町中は緊張していたし、まだ人混みに慣れていない。体は平気でも心が疲れていたはずだ。それが解きほぐされているのだろう。見ているこっちも蕩けてしまいそうだ。
クリフもその堪能している様子を見て、はにかんだ笑顔を見せる。
そこで、俺はわざとらしく口を開く。
「おっと、しまったなあ」
「?」
「よく考えたら入浴料とダンのチップ以外の金は部屋に置いてきていたんだった」
「ふふっ、別に後ででもいいです……よ……?」
俺はクリフの正面に移動して座り込んだ。
そして彼の左こめかみのやや下に、トンと人差し指を当てる。
「痛覚感覚質経路凍結。左三叉神経、知覚封鎖」
そのまま包帯に触れ、素早く取り去る。
眼前に晒された傷には、炎症と乾燥を防ぐ淡黄色の軟膏が塗られていた。
「え、ちょ、お客さん!」
しかし今はその軟膏も邪魔なので取り去る。あると分かっていれば薬と毒の操作などお手の物だ。
「やめ、えっ?!」
クリフは身動ぎしようとして、ピクリとも身体を動かせないことに気付いたようだ。痛覚の麻痺とは別に拘束の魔法も掛けているからな。施術中はなるべく動かない方がいい。
今度はこの前の小娘と違って丁寧にやる。触媒抜きの『再生魔法』ではなく、きちんと時間をかけて作った薬を使おう。
夏コミで買ったり読んだり忙しいので、10日ほど更新止まります! ご容赦ください!