戸惑う日々、「府中」にて
♣♣ 夏のホラー2018提出予定作品(#1-1)です。ホラー自体私の守備範囲ではないのですが、精一杯書きました。ただし構想二日、創作半日のお目汚しです。
初日:六月十六日(土)十一時五十五分、曇り
♣
第4R(レース番号のこと)である「サラ系3歳以上の障害未勝利戦、芝→ダート3,000m」に出走した14頭のうち落馬・競走中止をした2頭を除く12頭の馬が轟音を立ててゴール板を駆け抜けてから数分後、私は「4R」と表示された電光掲示板を凝視していた。
すると「Ⅰ着」の欄には「7」が、「Ⅱ着」と「Ⅲ着」の欄には写真判定を示す「写」が、「Ⅳ着」の欄には「9」が「Ⅴ着」の欄には「2」が点滅している。
私が手にしている「勝ち馬投票券(通称:馬券)」は馬番号三連勝単式(通称:3連単)で、「1番人気だったゼッケン13番馬のジャッカスバーク]と「3番人気だった6番馬のトゥルーラヴキッス」、「4番人気の7番馬アグリッパーバイオ」、「7番人気だった5番馬のキールコネクション」、「9番人気の1番馬セガールフォンテン」という組み合わせの5頭BOX(組み合わせを全通り買うこと)で、各100円×60通り=6千円を投資している。
♣♣
小さな会社の共同出資者であり、副社長でもある私は、このところ土日もなく忙しく働いていたのだが、新規に請け負ったビッグプロジェクトの目鼻がやっと付いたので、あとは若手社員に任せて、気晴らしに競馬へ来たのだ。
♣♣♣
スタートして最初の障害を飛越した時点で私の本命馬の「13番」が先頭に立ったので、良い手応えに思えたが、対抗馬の「6番馬のトゥルーラヴキッス」は第2コーナーで故障して競走中止、何と「13番のジャッカスバーク」も2周目の8号障害で落馬して、私の手の中の60通りの馬券は、実質6通りになってしまった。
でもゴール板通過時の「2着・3着」は「1番馬と5番馬」なので、「7→1→5」も「7→5→1」も持っている私はほぼ的中だし、消える直前のOddsの配当額はどちらも(馬券百円に対して)30万円見当だった。
やがて電光掲示板の「2着」欄に「5」が「3着」欄に「1」が点滅して、間無しに点滅が止み、レース結果の確定を意味する「確定」という赤地に白抜き文字が点った。
3連単の配当は(馬券百円に対して)29万7,140円、このレースだけなら29万円の大儲けだ。無論当たり馬券を払戻しに行く。
自動払戻機に馬券を入れると、入れ替わりにそこそこ厚みのある枚数の一万円札が吐き出されたので、数えもせずにウエストポーチにしまい込む。残りの千円札と硬貨はズボンのポケットに放り込むと、足早に払戻窓口を離れた。
私に向かって直線的に近付いてくる人影がないのを確認して安堵した。競馬場には高額配当を当てるとすかさず掏る輩が居るので、一時も油断できない。
♣♣♣♣
そうしていたら、すぐそばの柱の陰で若い女-と云っても二十四~五歳位だろうか-が手招きをしている。まさか税務署員でもなかろうと少し歩み寄ると、何か小声で囁き掛けてくる。これが新手の売春である「援助交際」という奴の申し入れなのだろう思いながら、囁きが聞こえる位置まで近付くと、「おじさん、今の障害レース当てたでしょ?私のお爺ちゃんが逢いたいと言っているので、そこまで付き合ってくれない。」と言うではないか。その上でこちらの返事は聞かずにスタスタと歩き始めた。
その女の後に付いて行くと、さらに二本先の柱の陰で白髪頭の右耳に赤/黒のサインペンを挟み、眼鏡も掛けずに競馬新聞に見入る爺さんがいた。
「お爺ちゃん連れて来たよ~。」と孫娘が声を掛けると、紙面から顔を上げて眼光鋭くこちらを視る。
「久し振りだな若僧、またの名を『障害レースの草嶋』か。」といやに親し気に話しかけてくる。私は爺さんが口にしたフレーズを頼りに頭の中の抽斗を次々に出し入れして遠い記憶を探す。
「何だ、誰かと思えば『マンケンさん』かい、へぇ~まだ生きていたんだ、とっくに野垂れ死んでいても良い頃だろうに。」「何を言いやがる、こう見えてもまだ六十二歳だぞ、ピンピンしているし、妻も子供もこうして孫までもおるわ。」と気色ばんで反論するが、眼は笑っている。
「ここでは何だから一杯奢れ。」と次は脈絡もないタカリだ。
「ああ良いとも、ただし一杯だけだぜ、良かったらお嬢さんもどうぞ。」と言うと無言の孫娘を含む三人が連れだって三階のビアレストランへ行く。
♣♣♣♣♣
この爺さんはどういう字で書くかは識らないが「マエダ・ケンジ」と云うのだが、よく百倍以上の配当がある馬券(通称:万馬券、万券とも)を当てていたことから、府中競馬場での顔見知りからは「マンケン」と呼ばれていた。
ただし、今はダートGⅠの一つである「フェブラリーステークス」が、まだのGⅢで「フェブラリーハンデ」と呼ばれて土曜日開催だった、二十年以上も昔のことだ。当時の馬券と言えば、「三連単」はおろか、「馬番号三連勝複式(通称:三連複)」も「馬番号二連勝単式(通称:馬単)」も、「普通馬番号二連勝複式(通称:)馬連」すら無くて、一着馬を当てる「単勝式」、二~三着(出馬頭数によって違う)馬までを当てる「複勝式」、出走馬を①~⑧に分けた枠番で当てる「枠番号二連勝複式 (通称:枠連)」しかなくて、万馬券は滅多に出なかったし、貨幣価値も今の二倍以上あった。
ちなみに障害レースを見るのが好きで、その馬券を当てるのも得意な学生(当時は違法!)だった私は、爺さんが語り掛けた様な二ツ名で呼ばれていた。
♣♣♣♣♣♣
ビアレストランへ入ると生麦酒(小)三杯と枝豆・蛸の唐揚げ・胡瓜の浅漬け各一皿を頼む。おそらく一杯では済まない生麦酒を、敢えて小にするのは、温くならない様にすることと、レースの合間の慌ただしさからそうするものだと教え込まれた、馬キチ達の常識である。乾杯もそこそこに爺さんが顔を寄せ小声で話し掛けてくる。
「なあ草嶋、お前さっきの4Rを当てただろう、儂は最近トンと目が出なくてなぁ。」「マンケンさんともあろうお方が、あの万馬券を取りはぐれたのかい!焼きが回ったね!」「儂は新しい物が嫌いだ、未だに一貫して枠連しか買わん。ところでお前さんが当てたのは、今ハヤリの3連単かい。」「ああ、29万7,140円を5頭BOX各百円で仕留めた。」「29万円の上がりか、随分と立派になったもんだ、そこで儂はお前さんから昔の授業料を取り立てようという寸法だ。」
たしかに昔、何回か万馬券を教えてもらって儲けた記憶があるが、その都度、冬は燗酒、夏は麦酒を奢らされた。「だって、お礼は昔に欠かさずしたじゃないか。」「そう言うなよ、ただ金を恵んでくれと言っている訳じゃない、ここに来週の万券の出目が書いてあるんで、これを30万円、いや28万円でいいや、昔のよしみで買ってくれよ。」「もし外れたら?」「この孫娘、アツコと言う名だが付き合っても良いぞ、なぁ、アツコ。」「お爺ちゃん、またぁ?」どうやら、この爺さんは孫娘が従事する「援助交際」のポン引きも兼ねているらしい。
♣♣♣♣♣♣♣
「マンケンさん、私だって別居中だけど、看護師をしている妻も子供もいるよ、それに今、小娘と浮気なんかしている訳にはいかないんだ、何とかヨリを戻したいんでね。」「ゴチャゴチャ言うなよ、それでこの予想を買うのか、買わんのか?買ってくれないなら別口を探さなければならんのでな。」「分かった、分かった、買うよ、買わせてもらいますよ。久方振りに気晴らしに来て、大好きな障害レースで万馬券を当てたんだ、神通力の消えかけたあんたじゃなくて、この競馬場に居るという『井田是政様』に寄進したつもりになるよ。」そう言いつつ、ウエストポーチから先程の万券の束を鷲掴みにして爺さんの前に差し出す。
すると「アツコ」という孫娘が、横合いから手を出し、意外にも鮮やかな手付きで札勘定をすると、「29枚あるよ、お爺ちゃん。」と報告する。爺さんは「じゃあ、29万円にする。」とドサクサの値上げ通告をヌケヌケとしやがると、孫娘の手から茶色い紙幣を一枚引っこ抜き、生麦酒(小)を勝手に追加注文した。旨そうにお代わりを呑み終わると、ポロシャツの胸ポケットから小さな四つ折りの紙片を出して、寄越し「それじゃあ来週の障害重賞の予想だ、無くすんじゃないぞ、それと、ここは追加の一万円で儂が奢るよ。」と言うとトイレに立った。
♣♣♣♣♣♣♣♣
よく考えると爺さんではなく、やっぱり私が奢っていることに気が付く。何だか毒気を抜かれて「それじゃあ、私はこれで帰るけど、良いかな。」と「アツコ」に話し掛けると、「来週またさっきの場所で…」と意味深に微笑む。私はビールのせいではない、背中の寒さを覚えると爺さんを俟たずに店を出て、最寄り駅へと歩いた。
二日目:六月二十三日(土)十三時、小雨
♣♣
「マンケン爺さん」から教えられたレースは障害重賞である8Rの「JGⅢ、東京ジャンプステークス、距離は芝3,110m」で、万馬券の買い目は3連単の「3→1→5」である。ちなみに出掛けに見たOddsでは、140万円見当になっていた。
私はJRAのネット投票の権利を持っており、そっちでも配当は同じだが、やはり障害戦は「生」で見たいし、「アツコ」のことも少し気になるので、発走時刻14時の1時間前には着くように自宅マンションから私鉄やJRを乗り継いで、一週間振りに武蔵野へ来た。
♣♣
「マンケン爺さん」から教えられた買い目のうち「3番馬サーストンコラルド」は単勝では11頭中10番目とブービー人気、「1番馬マイネルフィエスタ」は7番人気、「5番馬タイセイドリーム」は6番人気でいずれも本命サイドとは言い難いので、念のためこの3頭に、馬体が良く見えて人気も高い「2番馬マテンロウハピネス」(3番人気)、「6番馬ジャズファンク」(2番人気)、「9番馬シンキングダンサー」(4番人気)の3頭を加えた、3連単6頭BOX120通りに各1千円の計12万円を投票した。
♣♣♣
学生時代はアルバイトで稼いだ生活費を競馬で増やすほど得意だったのだが、先週は気晴らしとばかりに競馬場へ来たので、途中で寄ったコンビニエンス・ストアの銀行ATMでメインバンクの口座から十万円を引き出して、敗けても良い「軍資金」として用意したが、今日はATMには寄らずに、いつも二十万円以上入れてある生活費用の財布から出した。
万が一この馬券が外れても、私の年収は一千万円を軽く超えているし、銀行口座の一日当たりの引き出し限度額は、メイン・サブの三行合わせて三百万円あるので、どうということではないし、なにせ予定調和的には「勝ち」しかないのであるから。
♣♣♣♣
13時25分に一つ前の7R、牝馬限定のダート条件戦がスタートして、約1分半後にゴールした。その結果は3連単が「3→11→4」で配当は94万6,970円であり、これでも充分なので、一瞬は失敗したかなと思ったが、「マンケン爺さん」ではなく「井田是政様」を信じることにして、改めて8Rの馬券を握り締めた。
♣♣♣♣♣
やがて8Rの出走馬が騎手を背にして本馬場入場し、返し馬と称する試走をした後、障害重賞レース用のファンファーレが鳴り、出走する11頭がゲートインして、「ガッシャーン」という音とともに発馬、距離が長く障害もあるためレースは3分半近く続いた。
スタート直後から「11番タマモプラネット」が大逃げを打ったが、最後の障害で「3番サーストンコラルド」が先頭に躍り出て、「1番マイネルフィエスタ」、「5番タイセイドリーム」、「2番マテンロウハピネス」の3頭が追走して、そのままゴール板を通過した。
電光掲示板の「Ⅰ着」欄には「3」が「Ⅱ着」欄には「1」が「Ⅴ着」欄には「9」が表示され、「Ⅲ着」と「Ⅳ着」欄には「写」が表示されて点滅している。写真判定の対象馬は「5番タイセイドリーム」と「2番マテンロウハピネス」であろう。
私としては「3→1→5」も「3→1→2」も持っているので当たりは当たりなのだが、前者ならば140万円見当、後者なら50万円見当と配当が違い、しかも私が持っているのは各1千円なので、受け取る配当金はそれぞれ10倍となり大きく違う。
さほど経たない間に点滅は止まり、赤地に白抜きの「確定」表示が出てレースが確定した。3連単は「マンケン爺さん」の予想通りの「3→1→5」で配当は142万6,360円と発表された
♣♣♣♣♣♣♣
勿論当たり馬券を払戻しに行くが、先週のように機械相手でお手軽にという訳にはいかない。百万円以上の払戻しは機械が対応していないので、「高額窓口」という名の有人窓口へ当たり馬券を差し入れると、中の女性が「配当金の用意ができますまで少しお待ちください。」と言って受け取り、奥の係員に渡す。奥の男性係員が機械に入れて正規の当たり券だと確認すると、一旦物陰に消え、手提げ袋を手にしてガードマンとともに仕切り板のこちら側に現れた。袋の中身を確かめると、帯封付きの百万円が十四束と封筒に入った26万3,600円で持ち重りがする。
私が中身を数え終わるとガードマンは「駅までお送りしましょうか。」と言ってくれるが、「まだやらなければならないことがあるので…。」と丁重にお断りして、お引き取りいただく。彼らが踵を返して持ち場へ戻っていく後姿を見ると、急に心細くなる。
何しろ手提げ袋には、年収とほぼ同額の現金が入っているのである。なぜか意地汚くなり「自分は落としても、この紙袋は落とさないぞ」などと考えながらも、「高額窓口」を離れて、先程までいた辺りへ戻り、「マンケン爺さん」を、否、「アツコ」を片目で探す。何も援助交際を敢行しようというのではない。爺さんには謝礼を、孫娘には小遣いを渡そうと思ったのだ。特に孫娘の方は待ち合わせめいたことを言っていたので必ず現れると思い、1時間近く歩き回ったが、見付からないので、諦めて帰ることにして、競馬場正門前から自宅マンションまでタクシーの人となった。
三日目:六月二十四日(日)九時五十分、晴れ
♣
昨日、「マンケン爺さん」や「アツコ」に逢えなかったことが気になり、今日は1Rの発走時間である9時55分に間に合うように「府中の約束の場所」へ来て見た。ちなみに今日は障害レースも重賞レースも無いので、事前検討は一切していないし、何なら馬券は買わなくても良いとさえ思っている。ちなみにウエストポーチの中には先週の配当金のうちの百万円二束と封筒入りの端数金は手付かずで入れてある。これ位なら、仕事で携行することもあるので、大して緊張しない。
ただし同時開催の阪神競馬場のメインレースである「11R、GⅠ宝塚記念」は気にはなっているが、かつて7月上旬に開催しながら「春競馬」と称していたことや、距離が芝2,200mと中途半端なことや、時期的に有力馬が回避したり、海外遠征したりと「空家状態」の年が多いことから、力が入らないレースではある。
♣♣
取りあえず十六日にあの二人と出逢った柱の辺りへ行って探してみる。特に爺さんが佇んでいそうな柱の陰を重点的に見て回る。
小一時間歩き、いい加減疲れたので立ち止まり、さっき駅で買った競馬新聞を開き、次の4Rを予想してみる。ただしこの時期の3歳未勝利戦はレース経験がバラバラで距離を始め、芝とダート、右回りと左回り、大回りと小回りなどの適性も皆目分からないことが多い。こういう時は騎手(通称:ヤネ)で買うという方法もあるが、あいにく今日は関西GⅠに有力ジョッキーが集結していて、この府中には二線級や三戦級ばかりでこの手は使えない。そこで1頭競走除外で15頭になった出走馬の状態を人気順に返し馬で見ると、「1番人気の1番馬リリーバレロ」、「2番人気の5番馬ペイフォワード」「3番人気の14番馬リリークロノス」「5番人気の16番馬のユナリオンス」が良く見えたので、3連単4頭BOX24通りを各1千円の2万4,000円買って見ていると、「14→1→4」と入り3連単の配当は3万7,490円とそこそこ付いたが、私はハズレ。残念だったのは16番が4着だったので、3着と入れ替われば、やはり4万円見当の配当があったことくらいだ。
♣♣♣
やはり、情報が極端に少ない未勝利戦や新馬戦に手を出すのは止めようと思い、昼休みになって混む前に飯にしようと例のビアレストランへ独りで入る。念のため二人を探すが見当たらないので、五目焼きそばと生麦酒(小)を注文する。焼きそばを肴に生麦酒を呑む。ついつい進み、生麦酒(小)を三杯も呑んでしまった。若いウエイトレスは迷惑そうな顔をしているが気にせず勘定を済まして店の外へ出る。すでに入店希望者が長蛇の列をなしている。
♣♣♣♣
また元の場所へ戻り、柱にもたれて「宝塚記念」の紙面を開き、買い目の検討をする。まず外国調教馬と7歳以上の高齢馬と重賞未勝利馬を外す、すると「1番人気の3番馬サトノダイヤモンド」、「2番人気の16番馬キセキ」、「3番人気の10番馬ヴィブロス」、「4番人気の7番馬パフォーマプロミス」、「5番人気の8番馬ダンビュライト」、「6番人気の9番馬サトノクラウン」が残ったので、この「3・7・8・9・10・16」の3連単6頭BOX120通りへ各二百円の合計2万4,000円投票することにした。
♣♣♣♣♣
自動投票機で予定通りの馬券を買い、再びあの二人を探すが、やはり見当たらない。しかしながら今日はまた来週にするかという訳にはいかない。なぜなら、春の東京競馬は今日で終わり、次は10月6日土曜日から始まる秋競馬までレースは行われないのだ。ビアレストランを含めてもう一度丹念に探す。やがて帰り客が増えだしたので、混雑する前に帰ることにして最寄り駅まで5分以上歩く。専用歩道橋の上に「アツコ」らしき人影が見えた、人混みを掻き分けて進むと臨時改札口の手前で追い付いた。
♣♣♣♣♣♣
「アツコさん」小声で呼び掛けてみるが振り向かない。少し大きな声で「アツコさん」と呼んでみるがまだ気が付かない。手が届きそうなくらいまで近付いて三度「アツコさん」と呼び掛けると振り向くが、怪訝そうな顔をしている。さらに近付いて「マエダ・アツコさんですよね?」と訊くと、「はい、マエダ・アツコですが、どうして私の名前を御存じなのですか?」と訊き返して来る。
「イヤだなぁ、六月十六日にお爺さんの『マエダ・ケンジ』さんと三人で一緒に麦酒を飲んだじゃないですか?」「何かのお間違えでは?祖父の『ケンジ』は昨年九月に『競馬を見たい』と言いながら、『特に障害レースを見たい』と言いながら事切れました、肝臓癌でした。」それを聞いて私は「大変失礼いたしました。私は二十年以上も前に、あなたのお爺様に大変お世話になった者です。これは些少ですが、遅ればせながらどうか御霊前へお供えくださいと。」ウエストポーチから取り出した白封筒の中身を一旦抜いて、改めて二十万円を名刺とともに白封筒へ押し込み、しきりに固辞する「アツコ」に押し付けるように渡して、最敬礼をしてタクシー乗り場へ急ぐ。結局「アツコ」は追いかけて来なかった。
♣♣♣♣♣♣♣
私は運転手へ自宅マンション最寄り駅を告げると目を瞑る。なぜか涙が出て止まらない。父親が死んだ時でさえ全く泣いていないし、氏素性の知れない一老人の死で泣く気などサラサラないのであるが、歳のせいだろうか。
それにしてもあの表情から「マエダ・アツコ」が嘘を言っているとは思えない。しかしながら、ウエストポーチにはまだ百万円二束が入っているのも事実だ、と云うことは、あの万馬券の予想は夢ではなかった訳だ。
よく分からないが、柄にもなく勤勉に働き、久々に気晴らしに来た「かつての若僧」を憐れんで、「井田是政様」が「マンケン爺さん」の霊に逢わせてくれたのだと思うことにした。
秋競馬が始まったら、また府中へ出掛けよう、「井田是政様」か「マンケン爺さん」か、はたまた生身の「アツコ」か、そんな誰か知り合いに逢えそうな気がするので…。
♣♣ 拙い作品を最後までお読みいただきありがとうございました。厚かましいお願いですが、感想や評価をいただければ幸いです。
草 嶋 薫 拝