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 確かにNは怪しい男だった。しかし、酔いの回った私は彼女の名前を聞いて殆んど理性を失い、藁にもすがる思いでNに何度も頷いた。Nは満足げに微笑むと、私を促してバーを出た。


 ホテルの外には黒塗りの車が待機していて、Nと私が後部座席に乗り込む運転手らしい男が扉を閉めて、それから音もなく車が走り出した。移動している間、運転手は終始無言でNだけが上機嫌で何かをずっと話していたが、会話の内容は覚えていない。だからNが何者だったのかは未だにわからない。


 私はNの会話の隙間を縫って、しきりに彼女の安否やNと彼女との関係を訪ねたが、彼は彼女に会えば解りますの一点張りで質問には答えずに、意味有り気な笑みを浮かべるだけだった。

 やがて車外の夜景から賑やかなネオンが見えなくなり、街灯もまばらになって来たので、どこか街の郊外か裏路地に入ったのだな……とぼんやりした頭で考えていると、唐突に車が止まって後部座席の扉が開いた。


「申し訳ないが、ここからは歩きになります」


 と、先に降りたNに続いて私も慌てて車から降りた。そこはやはり何処かの裏路地だった。周囲は既に廃墟になっているらしい古びたビルの群れが、まばらな街灯に照らし出されているだけで、塵の散らばる路上には全く人気も無かった。

 私が車から降りると車はどこかに走り去ってしまい、私とNだけが人気の無い路上に取り残された。不安に狩られた私を面白がるような表情を浮かべたNは、荒れ果てたビルの隙間にある横道に私を手招きして先に進んだ。

 迷路の様な細道をNの後に着いて行くだけの私は、すぐに戻る道も分からなくなってしまい、私は騙されたのでは無いかと今更ながらに考え始めた時、Nはあるビルの扉の前で足を止めた。


「ここです」


 Nは扉に掛けられた幾つかの鍵を外して扉を開けた。中からは仄かな明かりと暖気が何か言い様の無い甘い匂いと共に漏れだして来た。


「貴方の為に準備していたのです。さあ中へどうぞ、彼女がお待ちかねです」


 芝居じみた仕草で招き入れるNを見てやはり罠ではないかと思ったが、同時に私は例のだるまの悪夢を思い出していた。あの怪談と同じ異国の裏路地で、私は変わり果てた彼女と再会するのか……

 一瞬、逃げだそうかとも思ったが、この先に本当に彼女がいるかもと考えた時には自然に体が前に動き出し、私はNの招き通りに建物の中に入った。


 Nは私が中に入ると急いで扉を閉めた。外気から遮断された事で、屋内に漂う甘い匂いが一層強くなって、私は酒とは別にこの匂いに酔いそうになった。目の前には短い廊下が続いていて、つきあたりに地下に降りる階段が見えた。Nは目線で私に階段を降りる様に促した。もう選択の余地の無くなった私は、勇を鼓して先に進んだ。


 階段は思ったよりも長く、下に降りる程に例の匂いが益々強くなってきた。すると、壁の様子が変わってきた。廊下からここまでは、味気の無い古びた壁紙が張られていただけの壁に、色とりどりのタペストリーが並び始めた。どれも東洋趣味的なモチーフで、山水画や美人絵等が細かい筆致で描かれていたのだが、さらに進むと美女が凌辱されたり拷問を受けて殺される題材の、いわゆる無惨絵ばかりになってきた。


 裸に剥かれ、縛られ、凌辱され、吊られ、切り刻まれ……残酷な責めを受ける絵の中の女達の苦悶の顔が、どれも彼女の顔と重なって見えた。思わず私は背後にいる筈のNに振り向いたのだが、彼の仮面の様な笑顔が思ったよりもすぐ目の前にあったので、驚いてバランスを崩してしまい、みっともない悲鳴を上げながら階段の最後の数段を転げ落ちてしまった。


「大丈夫ですか? ……中々の出来だったでしょう。私の自慢のコレクションの一部でしてね」


 Nはクスクス笑いながら私を助け起こした。階段の先はやや広目の部屋になっている様だった。ごく僅かな明かりしか無く、椅子や円卓等の家具の輪廓が僅かに見えるだけだった。


「まあ、掛けて下さい。彼女とはすぐに会えますよ」


 彼は円卓の椅子の一つに私を座らせると、上着をコート掛けに預けて、サイドテーブルに用意してあったデカンタからワインを注いで私に進めた。


「彼女は……どこに?」


 私はワインに構わず、何度目かになる質問を彼に発した。部屋に漂う甘い匂いは噎せ返る程で、酒の酔いと合わさって私の頭をボンヤリと麻痺させていた。それでも無言で笑みを崩さないでいるNに苛立った私は

大声でNを問い詰めた。


「彼女はどこだ? まさかお前は彼女を……」


「ダルマにしたとでもお疑いで?」


 疑念をズバリと言い当てられて、私の怒りは完全に引いてしまった。Nはクスクス笑いながら話を続ける。


「おやおや、冗談のつもりでしたが本当にそうお考えで? まあ無理も無いですね、この状況では。貴方はあの噂話を信じておいでで? ……実はアレは実在するんですよ」


 彼は私の反応を楽しむように話を続けた。


「貴方もこの国に来てから、手や足の無い乞食をご覧になったでしょう? あれは同情を引くために故意に切ってるのですが、中には手足を全て落としてしまう剛の者もいます。また、貧しい農村では嫁を確保するために、誘拐した女を買う家もあります。そうした家では、嫁が逃げない様に鎖で繋いだりするのですが、念を入れて手足を落としてしまう者もいます。後は私娼窟での見せしめやら、行きすぎたサディズムやマゾヒズムの結果に……」


「じゃあ、彼女も……」


 話を遮った私の顔を見たNは、愉快そうに笑って私の問いを否定した。


「いえいえ。私は乞食の元締めでも無いし、嫁を金で買うほど女に不自由はしていません。ただのダルマには興味無いんですよ」


「ただの……だるま?」


「察しが良いですね。そう、ただ手足を落としただけのセックス用の家畜みたいな女には興味は無いんです。私が興味を持つのは美しい美術品だけ……それでは、そろそろ彼女をお目に掛けましょうか」


 そう言うと彼は部屋の一番奥に移動して、慣れた手付きでマッチに火を点けると傍らの蝋燭に明かりを灯した。


 彼女は、そこにいた。


 蝋燭の仄かな灯火に照らし出された顔は、間違いなく長年探し求めていた彼女だった。彼女は一糸纏わぬ姿にされていた。だから彼女の顔だけで無く、美しい曲線を描いた胴体も、細くしなやかな両脚も余す所無く、その灯火の中に艶かしく浮かび上がった。


 しかし、その美しかった白い肌には、顔を除く全身に桃園で裸で戯れる男女達を描いた淫らな絵が入れ墨されており、細い金属製の支柱に首枷と足枷によって直立した姿勢で全身を固定されていたが、その胴体には両肩から先が……両腕が無かった。そして彼女の頭上には、大きな蝋燭が直接乗せられていたのだ。


 両腕が無く、直立の姿で固定された彼女の姿はまさに灯火……生きた燭台だった。


 彼女はやや俯いたまま、蝋燭に火を付けられても虚ろな目をするだけで何の反応も示さなかったが、登頂部に溶けた蝋が垂れて来て、軽い呻きを上げながら顔を上げて……そして私を見た。

 その目が大きく見開かれ、次いで大きく口を開けて……その口の中には舌が無かった……声にならない悲鳴をあげ、次いで口だけを動かして……明らかに私の名前を呼んだ。


 私は予想を越えた無惨な姿と化した彼女に唖然として身動きが取れなかったが、彼女が私の名を叫ぶのを見て、彼女に駆け寄ろうとして慌てて椅子を立った。しかし、脚がふらついて床に倒れ込んでしまった。起き上がろうにも、体に全く力が入らない。そんな私を見下ろして、Nは愉快そうに大笑した。


「アハハハハハ……どうです、一層美しくなったでしょう。これこそ真の美術品ですよ。例の日本ダルマの話ですがね、物語としては元ネタになる伝説や小説があるんですよ。そこでは犠牲者の日本人は、ダルマでは無く燭台にされるんです。日本人の女が組織に近づいて捕まったと聞いた時に、その小説を思い出しましてね。口封じで生き埋めにされる前に僕が買い取って燭台に加工したんです」


「加……工……?」


「そう、加工。全身の刺青も件の伝説を意識してみました。両腕は燭台として見た場合にフォルム的に美しく無いので、勿体無いけど切断してもらいました。でも、おかげで胴体(トルソ)の美しいラインが強調されて、まるでサモトラケのニケみたいになって気に入ってるんですよ」


 Nは彼女の胸を弄びながら、話を続けた。


「何よりも重要なのは、この頭に蝋燭を固定させてる部分でね。なんと、ここは金属の針を直接頭蓋に打ち込んでるんです。脳に達しない深さに打ち込むのが肝要でしてね。大金が掛かりましたが、その甲斐がありました。お陰で私のコレクションとしては最高の家具になりましたよ。アハハハハハハ……」


 コレクション……家具……私はその言葉を聞いて、床にへたばったまま思わず周囲を見回して……


 ……椅子と目が合った。


 そしてNの高笑いに合わせる様に、椅子が、円卓が、サイドテーブルが、コート掛けが…………部屋中の優美な曲線を称えた家具達が、一斉に啜り泣きを上げ始めた。

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