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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

天境のナイチンゲール

作者: 秋澤 えで

兄さん兄さん、こんな暗い所で何をしてるんだい。ここはキラキラお天道様の顔も見えなきゃ、ぴかぴかお月様の声も届かない、あの世とこの世の境だよ。兄さんは……、もう死んでいるみたいだね。なら早くあっちに行かなきゃ。良い人そうな兄さんはきっと、天国の島の神様も歓迎してくれるに違いない。



「…………、」



行けない?心配事があるのか。……なるほど、小さな家族を一人取り残してきたのが心配なんだな。可哀想に。……良い人じゃないって?そう苦し気な顔をするもんじゃない。兄さんは何か悪いことを生きているときにしたのかい?



「…………、」



ほう、泣けない?なるほどそれは確かに良くないことだ。泣くことは神様がくれた大事な贈り物なのに、それを落っことしてきたとくれば、優しい神様もきれいな顔を歪めるかもしれない。

まあまあそれじゃあ、この私が一つ君から涙をもらおうじゃないか。なに心配はいらない。今から私が話す話は、どんな冷血な殺人鬼だって、子供をけ飛ばすようなよたんぼうだって、それこそ暴虐なテオクリュメノスだってしゃくりあげるほどむせび泣くような話だ。……まあまだ誰にも話したことのない、ほんのついさっき地上で見てきたことなんだけど。



「…………、」



そう諦めたような顔をするなよ兄さん。遠慮するな。天から地から飛び回って疲れた羽を休めるついで、暇つぶしさ。何より旅してきたことを誰かに語るのが大好きでね。東も西も、北も南も、遠い天も広がる海も見てきたこの1羽のナイチンゲールの話、聞く価値は保証するさ。



これは地上を飛び回っていた時の話だ。東へ東へ飛んで、黒く動く森を超えて、予言にとりつかれた憐れな王の頭を飛び越えて、それから数ケ月でついた国だった。トネリコがたくさん生えてる場所で、私は地上に降りたんだ。

なんせ数ケ月も飛びっぱなし、海を越えた久しぶりの地面だったから、人間があまりいないところにおりたかったのさ。子どもなんかは私を見るとすぐに捕まえようとするし、どこぞの国の皇帝なんて私を籠に入れて何度も何度も歌を歌わせようとする。青々としたトネリコの林から出ると、寒々しい地面があった。転々と灰色の石が並んでいてね、あれは人間たちの使う墓地というやつだった。死んだ人間をそこに埋めるそうだ。どうでもいいが、鳥葬にされるよりずっといい。あれは見苦しいったらありゃしない。


そこにね、小さな人間がいたんだ。人間のメスの雛。だぁれもいない墓地にその子はいた。あれくらいの年じゃあまだ街の人間たちに保護されてもおかしくないのに、その子は一人でいた。

墓地の端に立ったみすぼらしい石の家にその子は住んでるみたいでね。あんまり陰気臭い顔をしてたから、この綺麗な羽でも見せてやろうと思って窓から姿を見せてやったんだが、まるで反応しやしない。なら誰もが耳を傾け恍惚とする私の歌を聞かせてやった。なのにその顔、にこりともしないんだ。これはもう意地だって思ってね、しばらくその子の様子を見ることにしたのさ。


その子は呆れるほど私に興味がないみたいでね、私が家の中に入っても見向きもしなかったよ。ああいう歳の子はことごとくけたたましいっていうのに、その子は騒ぎ立てることもなく、淡々と過ごしていたよ。でもたまに独り言を言う。



「兄さん、兄さん、」



ってね。でもねえ、その家にはその雛一人しかいないんだよ。

おかしいなあ、って思って、少し奥に進んだら半分地面にめり込んだ石の部屋があったんだ。それは人間たちが食べ物をためたりする部屋に似てたね。で、そこでやっとその雛が呼んでた「兄さん」が何なのか分かったんだ。

……なんだかわかるかい?

その雛はねえ、死体に声を掛けてたのさ!

滑稽で笑っちゃったね。死体にいくら話しかけても返事なんてあるわけがない!


ここは笑ってあげなきゃいけないよ。辛くても踊るプルチネッラを観客が笑ってやるように、滑稽な少女も笑ってやらなきゃいけない。笑ってやらなきゃあまりにも痛ましいだろう?


その兄さんはねえ、辛うじて人間の姿をしてたけど、それはもうひどいもんさ。あちこち腐り落ちてひどい匂い。身体は崩れかけて椅子に座っているというよりも椅子にもたれ掛っているような様。

でもどうもおかしい。その腐った兄さんはちぐはぐだったんだ。右腕なんて人間の雄にしては細すぎるし、足なんかはどうみてもバランスのおかしい太さをしてた。

これはどういうことだ、とその雌の雛に聞いても、答えちゃくれない。生きている人間は私たちの言葉が話せないし聞こえないのさ。


私は小さくて、飛ぶことと歌うことくらいしか得意なことがないナイチンゲール。でもうっかり、この滑稽なほど憐れな雛をどうにかしてやりたいと思ってしまったんだ。……結果だけ言うと、何もできなかったんだけどね。


そこで私はその雛じゃなくて、雛の心に聞いてみることにしたのさ。

……んん?兄さんは知らないのかい?人間の心っていうのはね、枕の下に隠されてるんだ。昼間あくせく働いて、夜寝る時に心を枕の下に置いておくのさ。そうすると、辛いことは枕の下に置いてまた次の日元気になれる。大事なことも嫌なことも、そうすれば畑に落としてくることも、湖に沈めてしまうこともないだろう?

こっそりその雛の寝室に行ったのさ。小さくても淑女の寝室に入るのは気が引けたけどね、助けるためだ、仕方がない。小さな硬いベッドの上に、これまた小さな丸い枕があった。そいつをぐい、と嘴でどかすと、やっぱり雛の心があった。眩しいくらいの白色でね。あれほど色に染まってない心の色は初めて見たよ。コロンとした心は、嘴でつつくと硬くて、でも雛らしく暖かかった。きっと雪原を照らすお月様の光を集めて固めたら、あんな色になるだろうよ。



「小さな小さな白い雛、君の兄さんはどうして死んだの?」



そう訊くと、まあるい心はふわりと人の形をとって、それからあっちの雛と違って、雛の心は鈴の音のような声で返事をしたのさ。



「何を言うのおかしなお客さん。兄さんは地下の部屋にいるわ。」



笑ってやるとね、雛の心は不思議そうな顔をした。笑って涙を乾かすしかなかったね。心も本当に、兄さんが死んでることに気が付いていないらしい。



「兄さん兄さん、私の兄さん。最近少し元気がないの。」



雛の心は小さな眉を少しだけ寄せて歌うように言う。



「なぜだか最近兄さんは、私の頭を撫でてくれないの。お手てを怪我したみたいでね、新しいお手てに代えたのに、なぜだか撫でてくれないの。」

「それはもう死んでるからさ。壊れたお手てを付けかえても、君の兄さんは動かない。」

「おかしなことを言うのね可愛いお客さん。もし兄さんが死んでるなら、私は兄さんを埋めなきゃならないわ。」



私の言うことが気に入らなかったようでね、白い雛の心は枕の下へと隠れてしまった。こうなっては仕方ない。私は開いた窓から出て行った。



トネリコの林に戻った次の日、私は街の方へ行ってみた。いやね、もしかしたらこの街には人の雛がいないか、皆大きな人と同じように働いていると思ったのさ。

私は景気よく歌を歌いながら街の空へと飛び出した。教会の屋根を飛び越えて、大きな煙突の横腹を通り抜け、建物と建物の間にかけられた洗濯紐の下を潜り抜ける。

高く高く歌を歌った。寝坊したやつも、仕事に夢中なやつも、うつむいてばかりの奴も、皆皆真上を見上げるのさ。



「まあ見て、あれはナイチンゲール!」

「高く澄んだ声で歌う!」



大きな人間たちは窓から顔を覗かせて、小さな雛は家から飛び出し私のあとを追いかける。

おかしなことに、その街は、私がこの世で見てきた街と何ら変わらなかった。雛たちは何も知らないように遊び回り、大きな人間はそれを咎めることなく見ている。

黄昏に鳴る鐘を知ってるかい。その音が聞こえるとハーメルンに操られるように小さな雛たちは家の中へと吸い込まれていくのさ。それなのに、墓地に住むあの小さな雛ときたら、その鐘の音すら聞いていない。おかしな雛は、ハーメルンさえお手上げなんだ。


あっちへこっちへ飛び回って、歌を歌ってやる代わりに街に住む人間の話を聞いたのさ。

そうしたらあの小さい雛は、親がいないんだと。兄と二人で墓地を守る”墓守”をしてるんだと。

可哀そうに、あの小さな雛はおかしくなってしまっているのに、だぁれもそれに気づいちゃいなんだ。誰も何も教えてくれない。誰も何もしてくれない。あの雛は壊れたまんまだ。


私が少し歌うだけで、小さな人間たちは空を見上げ、私を指さし、顔をくしゃくしゃにして追いかけまわる。だのにあの小さな雛は私が話しかけても、歌を歌っても、なぁんにも反応しない。美しいものに興味さえ持てないんだ。

だぁれも気づかせてやれないなら、私が気づかせてやろうと思ってね。毎日毎日、あの小さな雛の元へ行ったさ。もちろん枕の下に住む雛の心もね。



「兄さん兄さん、私の兄さん。最近少し元気がないの。」



白い雛の心は歌う。



「なぜだか最近兄さんは、私のことを見てくれないの。お目目がよく見えないみたいでね、新しいお目目に代えたのに、なぜだか見てはくれないの。」

「それはもう死んでるからさ。濁ったお目目を付けかえても、君の兄さんはもう見ない。」

「おかしなことを言うのね可愛いお客さん。もし兄さんが死んでるなら、私は兄さんを埋めなきゃならないわ。」



白い雛の心は歌う。



「なぜだか最近兄さんは、私とお話ししてくれないの。声が上手く出ないみたいでね、新しい喉に代えたのに、なぜだか話してくれないの。」

「それはもう死んでるからさ。枯れた喉を付けかえても、君の兄さんは話さない。」

「おかしなことを言うのね可愛いお客さん。もし兄さんが死んでるなら、私は兄さんを埋めなきゃならないわ。」



白い雛の心は歌う。



「なぜだか最近兄さんは、私に笑ってくれないの。心が壊れたみたいでね、新しい心に代えたのに、なぜだか笑ってくれないの。」

「それはもう死んでるからさ。心の臓を付けかえても、君の兄さんは笑わない。」

「おかしなことを言うのね可愛いお客さん。もし兄さんが死んでるなら、私は兄さんを埋めなきゃならないわ。」


毎日毎日小さな雛、そればかり。白い雛の心はね、ぜぇんぶ隠してしまったのさ。辛いことも、嫌なことも。なんて可哀想なことだろうね。ぽっかり空いた穴にはさ、誰かが優しいものを入れてくれるはずなのに、墓場の雛にはだぁれもいない。覆った目を開けてくれる奇跡なんてありもしない。


白い雛の心はそうやって、ただ不思議そうに寂しそうにその兄さんの話をするんだけどさ、雛の身体は何も変わらない風に過ごしてたんだ。おかしいだろ?心なんてとっくに壊れてるってのに、なあんにも気づいてない顔して、墓地にいて、来た大きな人間とも話をする。

それでまたおかしいのがさ、来る大きな人間はいるってのに、だぁれもその兄さんが死んだことに気づかないのさ。

ある日、若い女が来たんだ。まだ若い男の身体を連れて。小さな雛は、小さくても墓守だから、穴を掘ってそれを埋めてやるんだ。



「アンバーはどこ?」



女が聞く。



「兄さんは調子が悪いの。」



雛が答えた。


若い女は、男が死んだのを悲しんで泣くばかり。アンバーについてそれ以上何も聞かなかった女につられるように、雛も一緒になって泣いた。壊れた心で、なに思って泣いたんだろうなぁ。

ああ、アンバーってのは、地面にめり込んだ石の部屋に取り残された死体、その兄さんの呼び名らしい。その兄さんだってそうだ。死んだことを、誰にも気づいてもらえない。

その日、白い雛の心は言った。



「なぜだか最近兄さんは、私を抱っこしてくれないの。腕が壊れたみたいでね、新しい腕に代えたのに、なぜだか抱っこしてくれないの。」

「それはもう死んでるからさ。腕を付けかえても、君の兄さんは抱き上げない。」

「おかしなことを言うのね可愛いお客さん。もし兄さんが死んでるなら、私は兄さんを埋めなきゃならないわ。」



いつも通り、雛の心は歌った。

ああ、そうさ。その日石の部屋の兄さんの腕が、新しいものになったのさ。若い、男の腕だったよ。


なあ兄さん、誰が一番可哀想なんだろうなあ?

大事な頼りの兄さんが死んだ、墓守の雛なのか。

身体を継いで貼って、安らかに眠れもしない兄さんなのか。

大切なものを葬ったはずなのに勝手に身体を切られる、死なれた者か。

誰が悪かったんだろうなあ。誰が可哀想なんだろうなあ。


「………………、」



おお、悪かったのはその兄さんだって?好きで死んだわけでもなかろうに。だぁれも悪くない。それが答えさ。違いない。


またある日、小さな子供が死んだ。

雛は穴を掘った。

兄さんの目は榛から青色になった。


またある日、若い女が死んだ。

雛は穴を掘った。

兄さんの足は白くて細い足になった。


またある日、壮年の男が死んだ。

雛は穴を掘った。

兄さんの手はごつごつとした手になった。


どこで間違ったんだろうなあ。いや最初から間違ってたんだろうなあ。

いつの間にか情が移っていてね。私も何とかしてやりたかったんだ。

だからある日、白い雛の心に聞いたのさ。



「白い雛、白い雛。」

「なあに、可愛いお客さん。」

「君に兄さんは、どんな人。私に教えてくれないか。」



いつも終わりに怒った顔をする雛の心がね、ぱあと花咲くみたいに笑ったんだ。それからさ、ぴゅいぴゅいってさ歌うみたいに語るんだ。



「兄さんはね、私を助けてくれた人。私を拾ってくれた人。私を愛してくれた人。」

「私が抱き付くとね、大きな手で頭を撫でてくれたわ。」

「私が歌を歌うとね、優しい月色の目で私を見てたわ。」

「私が怒って出てくとね、走って追いかけてくれたわ。」

「私がお手伝いをするとね、ありがとうって言ってくれたわ。」

「私が走って転ぶとね、少しだけ笑ってから抱き上げてくれたの。」

「街の人に何を言われてもね、一度も泣かない強い人だったわ。」

「とっても真面目な人でね、皆がいなくなった後、一人でみんなのために祈ってたの。」



楽しそうに話してた。楽しそうだったのに、少しずつ勢いがなくなっていった。私はそれを何も言わずに見ていたよ。バベルの塔が崩れたのは一瞬じゃない。予兆だってあったんだ。白い雛の心のさ、何かにヒビが入ったんだ。私はただそれを見ていたよ。だってそれは全部全部、昔の話。


ねえねえ兄さん知ってるかい。身体の骨が折れるとさ、治療をするだろ?でも治療しないとおかしな風に引っ付いて、飛べなくなったり歩けなくなったりするんだ。おかしに引っ付いた骨はね、もう一度壊してちゃんと治さなきゃいけないんだ。東の魔女が言っていた。


白い雛の心はさ、いつも部屋からでないのに、いつもと違って出て行った。フラフラとしながらあの部屋へ向かってた。

ひやっとした空気が石の部屋から出た。石の部屋にはさ、雛と、白い雛の心がいた。雛は雛の心がいることに気づかないし、雛の心は雛に気が付かない。そんな風に世界はできてるんだ。


雛はなあんにも言わなかった。いつもみたく、椅子に乗った兄さんを見てた。

白い雛は、ポツリポツリと言った。



「兄さんは、月色の目をしてたわ。」


その兄さんは、青い目をしていた。


「兄さんは、優しい手をしていたわ。」


その兄さんは、冷たい老いた手をしていた。


「兄さんは、大きな足をしていたわ。」


その兄さんは、白くて細い足をしていた。


「兄さんは、」


その兄さんは、何も言わない。


「ああ、兄さんはどんな声をしていたかしら。」


それはもう、何も言わない。



「可愛いお客さん、可愛いお客さん、どうか教えてナイチンゲール。」

「私に教えられることならね。何が聞きたい白い雛。」



キラキラと、涙を流しながら白い雛は言った。零れた涙は星になってどこかへ吸い込まれていった。



「私の兄さんは、素敵な人だったわ。」

「ああ、そうだとも。」

「私を抱っこして、撫でてくれて、名前を呼んでくれて、笑ってくれる、月色の目をした兄さんは今どこにいるの?」



可哀そうな雛は言う。涙で音がぼやけないように、私ははっきりとした声でこたえる。



「君の兄さんは死んだ!もう行ってしまったよ。」

「それは本当?ナイチンゲール。」

「それが事実さお嬢さん。」



白い雛の心はまた訊いた。



「可愛いお客さん、可愛いお客さん、どうか教えてナイチンゲール。」

「何が聞きたい白い雛!私に答えられるなら!」



たくさんの星が部屋の中に散らばって、キラキラと瞬いた。瞬いて、それからどこかへ消えて行く。消える速さに追いつかず、星が部屋に溢れていく。



「冷たい手をして、名前も呼んでくれることない、知らない目をしたこの人は一体誰?」



ああ、可哀そうな白い雛。誰も知らない本当を、誰より先に知ってたのに。



「それは君の兄さんだったものだ!今はもう何者でもないものさ!」



雛はただ、兄さんを失いたくなかっただけなんだ。失いたくなかったから、失った部分を補った。

切って貼って、継いで貼った。

手を取り換えて、目を取り換えて、腕を取り換えて、足を取り換えて、心の臓を取り換えて。



「……そう、そうだった、」



全部全部、取り換えた。取り換えたら、全部足りたらまた自分の知る兄さんになると信じて。でも



「兄さんはもう、どこにもいなかった。」



最後に残ったテセウスの舟はもう、テセウスの知るものではなかったんだ。



「どうか教えてナイチンゲール。」

「何が聞きたい白い雛。私に答えられるのなら。」

「私の優しい兄さんは、いつまで私の兄さんだった?」

「それは私にわからない。君の兄さんが死んだ瞬間までかもしれないし、君が気づいたたった今の今までかもしれない。」



継ぎ接ぎだらけの兄さんが、いつまで雛の兄さんだったのか、今となっては誰も知らない、わからない。ただ雛がただ一人、それが兄さんだと信じ続けていた。



「どうか教えてナイチンゲール。」

「私に答えられるのなら。」

「私はいつから、間違ってた……?」

「最初からだよ白い雛。」



雛の最初を、私は知らない。でもきっと最初から間違っていたんだ。

雛は最初から間違ってた。でもそれは雛が悪いわけじゃない。



「教えてくれて、ありがとう。それからひとつ、いいかしら。」

「わたしにできることならば。」

「どうか歌ってナイチンゲール。何もできない私の代わりに、どうか天まで連れてって。手放すことのできなかった私を笑って、それから祈ってナイチンゲール。私の愛した兄さんが、天国の島へ行けるように。」



それだけ言って、白い雛の心は消えてしまったよ。きっと枕の下に戻ったんだ。夜に眠る、雛自身のために。キラキラと眩しかった星は、どこかへと消えてしまって、もう何もなかった。からっぽになった冷たい部屋で、小さな雛は、泣いていた。雛が泣いても、優しい手はない。でももう、雛は兄さんだったものに縋りついたりはしなかったよ。


だから私は歌ったんだ。この世の端から端まで、海の底から遥かな天国の島まで聞こえるように祈ったよ。可哀想な雛のために、その兄さんのために。どうか雛のしたことを知った者がいても、蔑みの目を与えることのない様に、糾弾の手など届かないように。雛の悲しみも苦しみも切実さもすべて、間違っていたけど悪いことじゃなかったんだ。あの白い心も知らないものが、雛を悪し様に語ることなんてないように。


私はね、あの子の兄さんの魂がどこにあるのかを知らない。だからたくさん歌ったたくさん祈った、どこかでその兄さんが聞いてくれるように。地上のどこかにいるならば、地にかかるヨハネの梯子を昇れるよう。海のどこかにいるならば、降り注ぐ雨を伝って昇れるよう。どうか天国の島への道を迷子にならないように。




…………ああほら、私の勝ちだ。いや勝ち負けの話じゃなかったね。兄さん、涙が出てるじゃないか。ちゃんと泣けるじゃないか。これで心配いらない。神様からの贈り物を落としてきてなんていないじゃないか。



「…………、」



ん、ああ小さな雛のその後かい?


小さな雛は、兄さんだったものを墓地に入れたよ。灰色の石を一つ乗せてね。それから立派な墓守として仕事をしてるみたいさ。街の人たちには、アンバーという兄さんが死んだことも言ってね、街に来ないかとも誘われていたけれど、結局あの雛は墓地に残ったよ。兄さんと過ごした場所だからって。

墓守なのによく泣く雛。雛が泣くから、大きな人達も泣くんだ。どうも兄さん、元の墓守は埋葬している間も涙一つ零さない冷血漢なんて呼ばれていたらしい。酷い話だと思うだろ?でもそのおかげで、よく泣く雛は一人ぼっちにはされなくなったのさ。


めでたしめでたし。



さて兄さんも泣けたところだ。不安ももうないだろう?こんなじめじめした天の境にいないで、天国の島へと行くと良い。ああそうだ。ここを真っ直ぐ行けば島の門だよ。



「…………、」



まだ聞きたいことがあるのかい?構わないよ。私に答えられるなら。



「…………、」



ああ、そうだよ。雛もきっと天国の島へ行ける。間違いは正せるんだ。何より私が歌って祈るんだ。神様だって聞いてくれる。さあ兄さんも、可哀そうな雛のために祈ってやってくれ。



「…………、」



兄さん兄さん、そんなに泣いてちゃ天国の島までに迷子になってしまうよ。涙は星になるけれど、天の川を作っては島に着くまでに流されてしまう。ほら、涙をふくと良い。


…………、ああ兄さん、君も月色の目をしていたんだね。

これも何かの縁だろう。兄さんも祈ってあげると良い。


可哀そうな雛とその兄が、天国の島へと行けるように。

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