01 晴れと本降り〜石芝 渡の場合〜
既に書きあがってはいるので、1日1回以上の投稿をする予定です。
本が降ってきた。
空中に浮かんだ幾つもの厚い本が、俺の頭上に浮かんでいる。
向こう数メートル先には、階段でつまずく女性の影。
咄嗟のことで傘を出すことも出来ず、炎天下の中で持ち歩いてるはずもなく、そもそも傘で防げるはずもなく、
ハイツに部屋を借りた僕の初日は、打撲で寝込むこととなった。
「……ゴメンなさい!!」
パタパタと階段を駆け下りる人影。
散らばった本と、その下に倒れている僕へ駆け寄ってくる。
朝空には太陽が輝き、夏の始まりを知らせている。
……あれ?おかしいな。
数秒前まで、部屋を借りたマンションが見えた筈なのに。
今は雲一つない空しか見えない。
蝉の声が、天使の歌声に聞こえてくる。
そんな気持ちの良い光景を見ながら、僕は意識を……
「キャアッ!?死んでるうッ!!」
女性の悲鳴が響く。
いや生きてますから、誤解を招く声は止めてください。
集合住宅地の庭で叫ぶと、他の住民がビックリするじゃないですか。
そう言おうとしたのが、胸に痛みが走り、思わず呻き声をあげる。
「イテテ……」
「……あら、生きてるわッ!!良かったわあ、殺し損ねて!!」
いやそれもマズイから。
それは殺人未遂の容疑者が言うセリフだから。
苦痛で歪めていた目を開き、前で騒ぐ女性の姿を見た。
「どこか痛いところはない?目眩はある?水でも持ってこようかしら?」
見た目は……二十代のようだ。
大量の本を運んでいたにしては、アウトドア派なイメージを受けた。
パッチリとした瞳、健康そうな身体、そして緑色のエプロンが目に止まる。
厚い生地であるはずだが、胸の辺りで大きく膨らんでいた。
次に、腰まで伸ばしたボリュームのある赤髪が目につく。
日を浴びて更に輝く髪と、映えるうなじの形。
ウエストはエプロンの紐が引き締められ、綺麗にくびれた形をしている。
そんな彼女は不安げな顔をしながら、僕に手を差し出す。
「立てるかしら?」
その手を受け取り、僕は身体を起こした。
途中、彼女の薬指に違和感を感じたが、どうやら指輪をつけているらしい。
……なんてことはどうでも良いんだよ。
起き上がった僕は、率直に尋ねた。
「ええっと、その……一体何がどうなって、僕の上に本を撒き散らしたんですか?」
「え!?」
彼女は目を真ん丸に見開く。
何を驚いているんだ。
当たり前な質問をしているだけじゃないか。
「ああ、そうね!ワタシのせいで怪我をしているのよね!?忘れていたわ!」
彼女は納得の入ったかのように手を前で合わせた。
この野郎。
僕の中で、普通は初対面で感じるはずのない感情が溢れてくる。
「ええ、そうです。僕の怪我は貴女のせいです。なのにまだ、謝罪のことはすら聞いていません」
「謝罪?……ああッ!!ゴメンなさい!ワタシったら、謝っていなかっただなんて」
何だか、妙に疲れる人だ。
ほんの数分一緒にいただけなのに、かなりの体力を使っている気がする。
悪い人ではなさそうだけど、今は距離を置いておきたい。
「ハァ……もう良いですから。怪我も軽いみたいなので、僕はこれで」
「待って!!」
彼女の横を通り過ぎようとすると、ぐいと腕を掴まれた。
「……何なのでしょうか?」
「その、謝罪の気持ちとしてはお粗末なんだけど……貰ってくれない?」
彼女はそう言うと
地面に落ちた本の中から一冊青いモノを拾い、僕に手渡す。
「これは……?」
僕は表紙に掘られたタイトルを探す。
そして僕が見つけるより先に、彼女が自慢げに教えてくれた。
「ワタシと旦那の一年を纏めた、写真アルバムよ!」
……はあ。
…………はあ?
「彼と結婚してから十数年間、毎年作っては知り合いに贈っているの」
いや、そう言うことじゃなくて。
別に夫婦円満だとかは気にしてないから。
何で、初対面の僕に渡したんだ?
すると予想もしなかった回答が飛び出した。
「あら、だって貴方……この『裏野ハイツ』に新しく住み始めるんでしょ?」
え……何で知っているんだ!?
「一度視察に来たでしょ?ワタシはその姿を見ていただけよ」
「あ……そうか」
余りにも簡単なことに気づかず、ちょっと恥ずかしくなる。
そんな僕に彼女は微笑んだ。
「貴方の部屋は私たち家族の真上なのよ。だったらそのアルバムを見て、同じマンションの住人同士もっと仲良くなれたらって」
なるほどな……だからと言って、他人の家族写真を見るつもりはないのだが。断るのも面倒だ。
「それじゃあ、お詫びとして受けとりますよ」
と、その厚い本をバッグに入れようとして思い出す。
僕は入居の準備をしている最中だったじゃないか。
そう、確か管理者の人と待ち合わせをしていたのだ。
駅から歩いてきて、写真と同じ建物に入って、人影が見当たらなかったので階段を登ろうとしたところで……痛い思いをしていたのだ。
僕は足元にある膨らんだスーツケースを持ち上げる。
先ほどの事故で倒れたモノだ。
そうだ。今こそお詫びとして、荷物運びを手伝ってもらうべきだろう。
先ほどからあちこち痛いし、お礼として悪い話でもない。
「あの、すいません。僕の荷物運びを………」
……居ない!?
一瞬目をは放した隙に、何処へ行ったのだ?
周囲に人の気配は一切感じない。
まるで彼女が幽霊だったかのように……
と思ったら、何処からか本の崩れる音が聞こえた。
……もう良いや、諦めて自力で荷物を運ぼう。
確か約10kgもあるmケースの取っ手を掴み、僕は階段に足をかけた。
ああクソ、本当に思いなあ。
………足を止めた。
右手には3つの部屋が連なり、左手には駐車場の見える吹き抜け。
スーツケースを横にしても楽々と歩ける幅の廊下。
奥に見えるのは黒い扉と「2F」の表示であり、エレベーター付きであることが分かる。
視界を見渡せば、黒々したに灰色コンクリートというシンプルな基調。
管理が隅々まで行き届いているのか、築50年の古さを感じさせない清潔さ。
おそらく幾度の改築によるものだ。
ただしベージュの扉に関して言えば、傷やサビの目立つ、まるで小学校の防災扉に近い。
その右側に架けれらた郵便箱と部屋番号のプレート。
僕の顔が映りこむほど、丹念に磨かれている。
そして「203」と刻まれた、僕の部屋となるはずの一室。
他の扉と変化はなく、既に鍵が刺さっている以外に驚くべきことはない。
大家さんが既に中で待っているのだろうか。
ただ、部屋へ入る前に気になることがある。
この閉ざされた部屋に一枚の印刷紙が貼られている。
上をセロハンで扉に止めてあり、風になびいてはパタパタと揺れる。
そして、俺に向けてのメッセージが記されている。
内容はとても簡単なものだった。
『デテイケ』
真っ赤な文字で書かれた言葉。
扉に付けたまま勢いよく書いたのか、あちこちに飛沫で汚れている。
狂気に満ちた忠告に、僕は部屋の前で立ち尽くす。
「これって……どういうことだ?」
出て行け。
そう書きながらも、部屋の鍵を刺さっているという矛盾に満ちている。
しかも僕を追い出そうとする理由が書かれていない。
もし立ち退かせようとするなら、それなりのやり方があるだろう。
これじゃあまるで、僕を危険の中に自ら飛び込ませようとしているみたいだ。
馬鹿げている、と思う。
確かにこのマンションは、曰く付きなのかと思うほどに家賃が安い。
大学生である僕ですら手が届いてしまうほどに。
当然、幽霊やら呪いの噂も出るだろう。
だからと言って、こんな脅し文句を書いたところで、僕のどうしろと言うのか。
明日から住むべき場所を取っ払いてしまえば、路上生活でも始めるしかない。
「ハァ……」
もしこんな下らないイタズラをしたのがここの住人だと言うならと思うと、今後の生活が面倒になる
る。しかし、僕既に家賃3ヶ月分は振り込んでしまった。
今更引いてたまるものか。
僕は鍵を抜き、既に解錠してあった扉を強く押す。
その時、背後に視線を感じた。
バッと振り向く。
「……気のせいか」
全く、初日から気がめいるな。
月曜にもテストが待っているというのに、こんな邪魔が入っては集中できるかどうか。
でも、住むと決めてしまったからにはしょうがない。
僕は、この混沌渦巻く住宅で生きていく決意をした。
「……そう言えばさっきの赤髪、どこかで見た気がするな」
それに彼女から貰った青いアルバム。
僕は何十年も前に、中を開いた気がした。