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オクターヴィア

作者: のぶ

 1


そして鶏が鳴いて、ぽたぽたと灰と、土ほこりの混ざった水滴が、道路をかっと流れて排水溝からどこか底へ流れて、今日も僕たちはあの朝の賛仰する光が刺している。秋が近くなるといつもこうなる。そのため僕は毎日早く起きなくてはならない。なにしろ途中途中学校まで急ぐと泥がズボンに跳ねてしまうから。だから秋が月はこうして今日もあのドラムを規則的に叩く音と、そのなかに鶏が啼く音と、そして太陽の光が水滴に反光して。それがドラムの金属音と鶏の不快感と、そして僕とをつなぐ役割を果たしているのだろう。

 この時期になると家々はみんな防寒体制に入る。どこからか流れてきた流木をてっちあげて隙間だらけの断熱材を作って、そして作るのに失敗した人たちは次の年に埋葬される。名前は記録されず、性別と人数で処理をする。今日もそうだろうか? と僕が考えているあいまにノックがした。起きなさい。おぼちゃん。起きてください。中年の家政婦さんが、僕をきっかり六時に起こしに来るんだ。

「ありがとう。もう僕はおきています」

「おはようございます。今日の朝食はコーヒーにしますか? 紅茶にしますか?」

「紅茶で。それもとっておきのダージリンで」

 僕がめがねを着けて、ランプに火を灯していると猫の叫び声が聴こえた。冷たいのだろう。ここの雨はただ流れるだけのものではなく、泥と汚い金属の細かいかけらがまじってきらめいているから、だからきれいなものだと思って飲んだら大変なんだよ。猫の声が鳴り止むまでどれくらいかかったのだろうかと、それまで僕は昨日読んでいた『黄金探索者』という、某遠い国の人の小説の続きを読んでいた。この本もこちらよろしく雨と海と、潮の軌跡の中、「僕」は生きているのだ。だから僕はこの本を立ち読みで冒頭を読んですぐに書店で買った。その日はバスを使わないといけなかったのに。僕は十キロの道を傘を差してぴちゃりぴしゃりと、金属が粉砕される音も聴こえて、でも僕は規則正しい十二の窓を見て、ああ、家だ。と感じた。素直にね。それからはちょっと大変だったかもしれない。『まぁおぼっちゃまどうしたのですか!』『雨にあたって病気にでもなったらどうするんですか!』僕は家政婦さんに叱られて、服を完全に着替えて気に入ったあの服は全部洗って、そしてお母さんからちょっと叱られた。あなたは仮にでも次にこの家の当主なんですから、しっかりしなさい。お父様はどう……思っているか……貴方が死ぬことを望んではいませんよ。たとえ誇りを守るためのケンカだとしても。そう。僕はケンカをしたことにした。元貴族の僕の家。でも法令上はもう貴族ではない。じゃあなんで僕は元貴族の家の子、特に長男で他にお父さんとお母さんに子供はいなく、まだ若いだけで当主だという理由で人生経験をつんだ大人よりも偉い人なのだろうか? って。そういうケンカだということにした。僕はチンピラに絡まれてのケンカだったと。そのチンピラとケンカしていて財布を落とした。こうしといた。手首の歯型は僕のものだ。藍と死の香りのする、出血を見て、誰も僕のことをせめなかった。ただし、命を失うこと以外は。

 太陽が昇った。窓から葉によってじゃまされずに届いた光で僕は一応本を閉じた。これが朝の合図だ。そして僕と母は向かいあって朝食につく。テーブルに朝食が三セットこしらえてある。僕とお母さんと、後は誰の? あの日から変わりなかったのだろう。僕が小さなころ、お父さんは夜遅くに帰ってくることがしばしばあった。家政婦さんに夜中の二時に不定期にうちに来てもらい働くのも酷なことだ。だから家政婦さんがこうして僕と母さんと、そしてお父さんの分をきっちり載せて、自室に戻った。家政婦さんは住み込みで働いてもらっている。そちらの方が向こうもこちらも、雨が降りつくして来る秋も、黄色い雪が襲う冬も、何かと都合がよいから。だから家政婦さんは僕と母さんが食事を食べる少し前に、お先に失礼します。と慇懃に頭を下げて退室する。そして僕とお母さんは夕食を食べて、お母さんは庭で詩を書いて、僕は勉強をして眠くなったらベッドに転がって。そんな毎日だった。朝起きると決まってテーブルが片付いている。もちろん、家政婦さんがきっちり仕事をした証だけれど、じゃあ、お父さんは家にいるの? 僕がこれを知ったときは純粋に何も言わないでお父さんの部屋めがけて階段を走って花瓶を落としてしまって、でも僕はそんなことに気がつかないでお父さんの部屋のドアを叩いた。『お父さん。僕だよ。僕だよ。』お父さんは決まって夕食にはちょっと大げさに人を褒める。

おいしいなこのスパゲティーは。家政婦さんはすばらしい腕の持ち主だ。

あら、私のじゃだめなの?

もちろん違うよ。君のスパゲティーは……僕と初めてレストランで食べたときのことを覚えている?

うん

ソースはなんだった?

……ミートソース。

そうだよ。でも家政婦さんたちに、ミートソースのスパゲティーを作ってもらったことはあるかな?

……ないわね。

 そうだよ。だから君がもし僕に何か料理を作ってくれるときには、スパゲティーを、それもミートソースでお願いするよ。

 お父さんはワインを注いだ。

 ほらほら。……乾杯!

 ちゃきんとガラスのぶつかる音がした。後日。お母さんは本当にミートスパゲティーを作ってお父さんと僕と食べたんだった。

 だからお父さんは僕がたたき起こしたのに何の文句も言わないで頭をなでてくれた。

「おはよう。お父さん」

 お父さんはあくびをすると頭に載せた手のひらで髪をかき混ぜて半ば眠そうな眼で階段を降りて……

「おはよう」

 お父さんは一度振り返って階段を降りていくのだった。

 それからお父さんが死んだとき、僕にはお母さんは黙っていた。これはお父さんとの最後の約束だったという。中学に入ったら、これを伝えてくれとのこと。だからそれまで仕事で忙殺されていた物だと思っていた。裏切り? お父さんが僕を裏切ったの? とは思わないよ。でもそれからすぐに僕は『終わりの雪』という、こちらも遠い国から来た本を読んでいたとき、僕はいままで通り、お父さんのために詩の読み上げを続けた。腕と足を組んで大きなチェアーにどすりと座って一杯のコーヒーをのむとき、日曜日の午後に僕を呼んでお母さんの詩を読むように僕に言いつける。僕はお父さんが眼を瞑るのを合図として一万行にも及ぶ長い詩をアルファベットひとつずつ発音とアクセントと抑揚に注意して読み上げる。途中でお父さんはコーヒーカップを手でさぐって取って少しずつ啜っていく。僕は規則正しくフローリングの床を歩いて、誰も来ない、ピアノとピアノの楽譜しかないこの部屋で感情をたっぷりとお父さんのために詩を読み続けた。それが長く続く日もあるし、三十分くらいで終わる日もある。お父さんが最後にコーヒーの一滴を飲み終わったとき、

『もういいよ。ありがとう』

 とお父さんは僕の頭をなでてカップを持っていく。

 そしてそのカップが今朝食のテーブルに置いてある。

「今日は少し寒いですね」

「そうね」

 お母さんは豪奢な服を着て寒さを防ぐ。ただし、黄色い雪が降るときにはさすがにあの服たちは来年の春までしまっておく。雪は雨よりも入り乱れて僕たちの住処、ううん。みんなの家にいりこんで全てを黄色に汚してしまう。もちろん、有毒なあの工場が出している煙が原因だとみんなわかっているけれど、工場の圧力で封じ込まれている。なにしろ城壁都市のこの町から不正に脱出することは、射殺を意味するのだから。でもその代わりに市民はもてなしを受ける。癌や糖尿病は血圧などは基本とした医療の手当てに雨と雪が降る日でも使える運動場に生活必需品に対する消費税の免除、はこの市のみならず工場がある地域の限定なのだ。そしてその雨と雪はいままで何人を殺したのだろう? 服は汚れるかもしれないし、家の外壁は全員平等の黄色。それで誰が死んだのだろうか? 冬に凍死する人は防寒手当てをギャンブルや酒につぎ込んで防寒措置を取れなかっただけだから。見捨てておこう。それでよかったのだろう。

「ごちそうさま。学校に行ってきます」

 まだ雨は続いていてた。でも学校はいつもどおり。

 僕は制服に着替えようと、パジャマを脱いで鏡の前でズボンとワイシャツと上着を着て、学校のボタンの汚れを取るために布で丁寧に拭いて髪形を整えるだけで、三十年前のお父さんと同じ姿をしているのだろう。

 傘をさして防水街道を通って『House Of Noman』に道よりをするためにちょっと道を変えてハウス・オブ・ノーマンの扉を開けると、何人かでポーカーをしていた。おそらく宿泊客だろう。

 そしてその中にたった一人だけ入っていなかったおじさんが僕に、

「おはよう。ぼっちゃん」

 と声を掛けてくれる。

「おはようございます。この前頼まれていた陶器についての件なら母が知っていますので母からの文書をお渡しします」

 と僕は母からの直筆の手紙を渡した。父が死んだ今でも問題なく暮らしていけるのは、ただ単に父の死亡保険の保険金だけではなく、お母さんが昔の人脈を使って人々の間の仲介人をしているからで、この人も家に飾る陶器が欲しいとのことだった。そしてその手紙を母から伝えられて僕が渡す。小さな仕事だ。

「どれどれ…………」

「どうでしょうか? お気に召していただけますか?」

 母から内容は聞いていた。この人が異国の陶器を気に入ってもらえるかはわからなかったから、不安なのはいつものことだ。

「……良いでしょう。これでどうぞ」

 小切手だ。

「ありがとうございます」

「こちらこそ。次もあったらよろしく頼むからな」

 これでひとつ片付いた。僕はマスターにいつもすみませんと少し愛想のある笑みを浮かべて、おはようございます。と静かに言った。

「いやいや。あんたのおかげで遠くからも宿泊客が着てくれるし、美術専門の宿なんて言われたりね。私だけじゃ到底できなかったことだよ」

 とマスターはすっぱいカシスジュースを出してくれた。

「どうぞ」

「ありがとう」

 僕は飲み下した。

「ねぇ。マスター」

 と僕はマスターに、

「あの子がピアノを弾いているの?」

 と訊いた。

「ああ、そうだよ」

「この前までいた人は?」

「契約期間が過ぎたから母国に帰ったよ」

「ふーん」

「あの子はその人が推薦してくれたんだよ。試験のつもりでブラームスのピアノ協奏曲を弾いてみてと言ったらこれが驚きでね。オーケストラパートとピアノの独奏を即座に演奏してね。もとからやっていたのかと訊くと違うと。一ヶ月の仮採用期間の後、すぐに採用したよ。ここの専属ピアニストとして今は演奏している。平日の午後五時くらいまでは手が空いているから話してみるのもいいかもしれないよ。君と年頃が近いからね」

 と僕その子を凝視した。

 何も考えないでピアノを弾いているようだ。時々おかしいほど手を平べったくして和音をがんがん弾いて行く。強靭な演奏だ。

 僕はその子の元に行って声をかけた。

「ちょっとごめん」

「なんでしょうか?」

「ベートーヴェンの告別は弾ける?」

「はい」

 彼はソー。ファー。ミー。と静かに力を入れだした。一音一音きれいに切っていく。スラーが極めて自然に展開されていく。

 僕が止めさせた。

「君の名前は?」

「リューシュ。と言います」

 そうか。よろしく。


 僕がその日、家に帰ってフローリングをを掃除機にかけて、グランドピアノを布で拭いて、そして楽譜の棚も丁寧に埃をふき取る。外は雨だった。かちゃかちゃと外の雨が木の枝をはじいている。だからこの街ではたいていの植物を植えることはできない。外に植えたら雨に殺されてしまうから。だからみんな家の中で育てる。外に植えられるのは十年くらいの強い木か、まぁそれくらいだろう。

 僕は防音カーテンを弾いて、雨の金属片によってかく乱される光を防いで、テーブルとチェアーを持ってきてコーヒーの入ったカップを置いて、お父さんが指定していた午後二時になったその時計の音を合図として詩を朗読する。お母さんは僕がこのようなことをしていることを知っているようだ。けれどとめない。僕は一人で詩を歌っているんだ。途中、コーヒーをすすって、最後まで飲み終わったらテーブルに向かって、――いるはずだった父さんに向けて――礼をしてテーブルとカップとチェアーを片付けて、あとはピアノの練習をしていた。僕もお父さんのピアノ弾きを受け継いだようだ。静かに呼吸をするように、

 ソー。

 そしてゆっくりと、

 ファー。

 と吐き出してミー。で落ち着ける。

 それからまた同じことを繰り返して……。それで三楽章まで弾き終わったころ、雨はやんでいた。窓から顔を出すと、澄んだ空気が久しぶりに吸えたと思う。一日中、そして雨が毎日続いて、僕たちは窓から顔を出すことは禁止されているから。だからこうして晴れた日に、空気を吸っていて。

 時計が一秒を鳴らすとき、なんで誰も過去を止めることができないんだろう。と考えることだってある。こうしてお父さんがいない夕食も慣れたけれど、もしここに時計が無かったら? お父さんが愛用していた、あの古美術品の時計がお父さんが死んだ日から何日なのかを刻んでいるとしたら? 僕はすぐにでも壊したくなる。でも、お母さんは『まったく、ねじ回しが大変』と愚痴なりをいいつつも、きっちり毎日ねじを回す。午後七時の鐘が鳴る。夕食の時間だ。僕は部屋を出て今日のポトスを平らげて部屋に戻る。空気が沈んでいた。暖房をつけるのを、忘れていたようだ。僕は壁とベッドの間に小さくうずくまって、指先で○を描いたりした。

カチカチとどれくらいなったかは良くわからない。でも、僕はあの日の歌を諳んじている。お父さんは僕の伴奏に合わせて冬の旅を歌っていた。お父さんが何度か僕に伴奏を頼む曲だった。必ずお母さんもそこにはいた。でも、なんで冬の旅なの? あんな『僕はよそ者としてやってきて』なんて歌詞から始まる、あの旅を、お父さんは本当にしていたの? お母さんは決まって表情を変えなかった。テノールのお父さんの声に耳を傾けているのかな? お母さんは一度として応えなかった。僕がテノールの声でも、父のような声は持ちたくなかった。でも遺伝だから僕とお父さんの声は似ている。だからいつの日か、『五月はたくさんの花束で、僕をもてなしてくれるものだった』と、家にある花束に水をあげないで、花束を永久に保管できるようにアクリルに流したものだった。そうしたら、旅の道は雪で覆われてしまっていることなく、僕の影を花束で受け止めるのだろうから。

 

 次の日は休みだった。僕は制服のままで眠っていた。朝起きて体が不愉快を覚えて制服を掛けて、僕は私服に着替えてノーマン宿にまで行った。もちろん、夢見ている『君』の邪魔をしないでおこうと心に刻んで。お母さんが他の男と最近ねんごろになっているかもしれないのを、僕は、知っている。でもその男の人にはそんな気がないのはわかっている。そんな気があったらあの母のつまらなさそうな微笑みを、感じ取って私は幻影の男じゃないと大声で叫んでここの家から出て行くだろうから。

 ノーマン宿で彼はピアノを弾いていなかった。ピアノの前で眠っていたのだ。マスターに眼をやると、マスターが首を気難しく振った。夢見ている君の邪魔をしないでおこうとリューシュの前の席で彼がピアノに置いてある楽譜を見てみた。ショパンのピアノソナタ第2番『葬送』だ。練習の疲れで眠っているのかもしれない。基本的にこのような宿は夜が営業時間だから、朝ごろに練習しているのだろう。頬杖を立てて、僕も眠ってみよう。こうして彼の微笑みを見ると、よそ者としてやてってきた僕なんて、僕の存在なんて、どうでも良いのだから。

 そうこうして眠っていると、リューシュは眼を開けて僕と対峙した形になった。

「ごめんね勝手に入って」

「いえ。いつからそこに?」

「ちょっと前から。ショパンの葬送を弾いているんだ。僕はそこらへんまでは弾けないから、ちょっとうらやましい」

「はぁ」

「君は何時から何時まで弾いているの?」

「午後六時から十二時まで弾いています」

「リクエスト料金は?」

「三百ポーレルで、まだまだ駆け出しですから」

 とリューシュは謙虚に笑う。

「そっか。じゃあ弾いて」

 と僕は財布から百ポーレル硬貨を三枚だしてリューシュに渡した。

「ショパンの葬送ソナタを」

「まだ人に聴いてもらえるほど練習を積んでいませんから」

「別にいいから」

 と僕はリューシュを促した。

「じゃあ、葬送を」

 ピアノの蓋を開けて最低音から最高音までをいったん滑らかに弾いて準備をしたようだ。

 ガーン。

 どこかたゆたう舟歌から始まった。低音から高音に高らかに歌い上げる。

「もういいよ」

 僕は演奏を止めさせた。

「お気に召しませんでした?」

「逆。三百ポーレルを払うには、これだけで十分さ」

 と僕は彼の手に三枚の硬貨を落とした。

「じゃあね」

 

 窓伝いに、くねくねと、それこそ遺伝子の二重螺旋のように、雨が流れていく。まだ午後三時だというのに、雨は僕の部屋の全ての窓をしっと反射の壁となって、僕の顔を映さないでいる。

 冬が近い。

 雪虫が飛んでいって家にまで入ってくる。そのたびに家が白い粘着で汚れてしまう。でもお父さんは生き物は大事だと雪虫を殺さなかった。僕の部屋にもわずかばかり、白い蹲りができあがっていた。息を吹きかけても彼らは羽を震わせるだけだ。雨が降り止んだら僕は窓を開けて道を歩くことにした。虫たちが好むミツを振りかけておくと、そこだけ雪虫が集中して集まる。窓から息吹が来て、僕は外に窓から出て、石の上を歩いてベンチでころん。と白い吐息を吐きながらそろそろ雪の伍長が至るのか……と。そして少しずつ夕方が降りてくる。僕は雪虫が赤に照らされるころになると、窓から再び部屋に戻った。

 翌日。僕はノーマン宿でリューシュがピアノを弾いているところを見に行った。午後七時。彼はどんな演奏をするのかな? モーツァルト? ブラームス? とちょっと興味深く。リューシュはモーツァルトの戴冠式ミサをピアノに編曲して演奏していた。遠くから僕はリューシュを眺めてあんな風に、きらめやかしく、ピアノが弾けたら、お父さんは喜んでくれただろうか? 

「おまえはピアノより声楽の方がよさそうだ」

これで僕は声楽ばかりを歌わせていたんだ。

 お客さんたちがワインを飲んでピザを食べている。彼はその匂いで自分も食べたいと思うだろうか?

 僕は彼が自由に自由に弾いているところを見て、リクエストをしに行った。

「こんにちは」

「こんにちは。どのようなリクエストでしょうか?」

「バッハのパッサカリアは?」

「ダメですよ。少し重過ぎます」

「リューシュはどうやらモーツァルトばっかり弾いているんでしょ?」

「はい」

「じゃあ、なおさらだ。君のピアノは良く響くから。だからバッハにしたほうがいい。モーツァルトだけが君のピアノじゃないってことを知ってもらおう」

「わかりました」

 彼はモーツァルトの楽譜を片付けて、パッサカリアの、ドーンと響く音でみんながリューシュを見た。そうだ。僕のいったとおりだろ? 旋律が複数重なっていって、最後にハ長調にまばゆい輝きで転調し終えたとき、観客は拍手喝采。僕の予想はみごとにあたった。

「あの、助言ありがとうございます」

「いや。いいんだよ。はい」

 僕は三百ポーレルをリューシュに差し出した。


 しかし雪虫たちが羽ばたいて、僕たちの上空にくっとアーチを描いている。午後五時だ。鐘が鳴る。ようこそ。夢が息吹く、王国へ。僕はひとりで海岸沿いを歩いていた。ときに家にもいたくないときは、僕は一人でここにいる。いままでお母さんにも断ったことが無い。でも、お母さんは何も言わないで僕の行動を黙認している。

 かっと。

 かっかっと砂が鳴る。そろそろ街の電気が消えるだろう。僕は夢の世界へとアクセスするのだろうか? でもそんなことは一度も無い。途中で帰ってしまう。なんだかんだ言っても夢の世界は怖いところなのだろう。

 僕はただいま。と小さく呟いて玄関で靴を脱いで雪虫たちをほろって部屋で服を着替える。ころりとベッドに眠ってド・ファーーレと頭に浮かんで即座に思いついた旋律を机の上でスケッチする。前のピアノソナタを完成させたのは、もう何年も前だったのだろうか? なぜ僕はピアノソナタを作曲しなくなったのだろう? それに意味はないのだろう。そして再開することだってできるんだから。と僕は音符を記していく。

 

 僕はその日からピアノソナタの作曲を再開した。二週間寝る間も惜しんだ結果、ピアノソナタ第九番『光の王国』が完成した。

 僕はさっそくリューシュに弾いてもらおうと思ってノーマン宿に行った。ドアを開けるとリューシュの隣のピアノで調律師さんが調律をしているところだった。

「あの人は誰ですか?」

「リューシュ坊やにピアノで対決するそうだよ」

「そうですか。いつですか?」

「今日の午後八時だ」

 とマスターは述べた。もしかしたら、あれだよ。リューシュの輝くばかりのピアノを聴きつけた誰かさんがピアノで対決しようとしたのだろう。調律師さんはドーときれいに音がなるようにしている。リューシュの方はもうおわっているのだろう。そしてリューシュはここには姿を見せなかったので、マスターに許可を貰って五階に上がってリューシュの部屋のドアを叩いた。コンコン。

「だれ?」

「僕だよ。ぼく」

「ああ、どうかなさったんですか?」

 と足音がして鍵の開く音がする。

「何か御用ですか?」

「今日ピアノでの対決があるって」

「はいそうです」

「そっか。頑張ってね」

「ありがとうございます」

 と彼は丁寧にお辞儀をし、僕はノーマン宿から家に帰った。

 ただいまと静かに傘を降ろし、白い雨がほとばしる。今日、白い雨が降り続いている。ある意味、街の最大行事とも言えるかもしれない。こうして白い、金属片も泥くずも、何も含んでいない雨が降って汚染を流しさって、冬が来る。窓の曇りを手でなぞって自分の名前を書く。息を吹くとまた消えて、そして手のひらで全部曇りを消すと雨が壁にしゃっと打ち付けて、あのドラムと廃材を叩く音がかすかに聞こえてくる。

 僕は台所で紅茶を淹れた。午後二時。

 一音のくっきりと静かに紅茶の一滴まで沁みて、そしてそこに誰かいたの? ううん誰もいないから。それでも僕はあのお父さんが座っていた席と、その奥でかつて居たという、おばあちゃんがシチューを食べている、その様子がなんとなくわかるよ。僕が生まれる前に死んだというけれど、この白い雨の日に決まってシチューを食べたという。そしてそのときだけはお父さんの手作りで、――時には失敗することもあったようだけれど――。

 どれくらいたったっけ。陽が白い雨を朱色に染めはじめる。そろそろ時間だ。

 ちょこっと断って傘を差した僕は地下通路を通りノーマン宿でリューシュが貴婦人たちから持て囃されているのを見、リューシュも僕のことに気が付いたようだったから僕は彼に手を振って、彼は軽くお辞儀をした。対するライバルもピアノの調律師に丹念にここはこうしろとか、あれはああしろと命じていた。

「マスター。あの花瓶はなんですか?」

 僕はリューシュと対決相手のピアノのそばに置いてある花瓶が気になった。

「誇りの証だよ。この地域では防虫効果のあるあの花をピアノのそばに飾ってね。もちろん、家のそばにまく防虫剤で今では完全に防げるけれどその名残でね」

「なるほど」

 午後七時の鐘がなる、そのさなかに、人々が集まってくる。上はプロのピアニストまでいただろうか? リューシュと対決の相手が交互に礼をして、マスターが近くにいたお嬢さんにノートなりを渡した。

「ここの五曲のうち、どれかひとつを選んでください。最初の課題曲です」

「じゃあ、ショパンのワルツ嬰ハ短調で」

 リューシュはピアノの蓋を開けた。ちょっとした深呼吸で最初の和音と、それからの三拍子のあの規則正しい左手のリズムと揺れ動く右手のリズムを、あますことなく丁寧に弾いて行った。まずまずの拍手だろうか? 対決相手が同じく演奏する。こちらはむしろ感情をうたっているな。なんとなく近寄りにくい熱血漢かもしれないと感じた。

「次は二台ピアノのためのソナタですが、いつもどおりモーツァルトで宜しいでしょうか?」

「はい」

「私も文句はありません」

 二人ともうなずく。

「じゃあ、演奏を」

 この二台ピアノのためのソナタは、相手の良い演奏を引き出すことが趣旨とは逆に求められる。下手に相手を下手に見せようとする演奏は、嫌われる。

 僕はこれが終わってようやくコップ一杯の水を飲んだ。

「次は互いに対する選曲ですが」

 とマスターは進行者として最後の題材を取り上げた。この題材ではお互いが曲を選んで両者が同じ曲をそれぞれ弾く。

「私はベートーヴェンの告別ソナタで」

 リューシュはそう述べると、

「では私もベートーヴェンのソナタからアパショナータでどうでしょう?」

 両者の同意だ。

 まずはリューシュが告別を演奏した後、相手も演奏し、その逆を。

「これにて演奏は終了いたしました」

「ちょっと待ってください」

 相手がマスターに食いついた。

「なんですか?」

「ここにいるみなさんのうち、ひとりでも私がおかしいことをしていることに気が付きませんでしたか?」

「つまり……?」

「ミスター・リューシュ」

「どうかいたしました?」

「こちらに来て貴方が選んだ告別ソナタをお弾きなさい」

「……はい」

 相手は椅子からどいてリューシュが変わりに座る。弾いて出る音はソーファーミーー。のはずだった。でも出てきた音はファーミーレーだった。

「……」

 リューシュは演奏を止めた。

「どういうことでしょうか?」

 プロのピアニストの御女が立ち上がる。

「なんてことはない、半分ずれて調律をさせているだけですよ。あのとき私は彼からの指定曲の告別を、こうして演奏していたんです」

 周囲の人々が顔を横に向けてそわそわする。

「……」

 黙っていたリューシュが立ち上がった。

 そして花束を取り出して、相手の花瓶に刺した。

「見事です」

 リューシュは一礼の後、すぐに外へ出て行った。

 一応のリューシュへの賞賛と、相手への賞賛と、そして相手に群がる御女性人。マスターが終了の宣告をする必要もなかったようだ。

 僕はすぐに駆け出してその場に軽食代を払うために財布を置いてすぐに雨の中、リューシュを追っていった。途中で簡単に見つかった。彼はころがっていた。だから僕がばしばし頬を叩いて起こしてやらなくてはならなかった。

「リューシュ。倒れるなんて君らしくない」

「……君もわかっていただろう。僕が弾くときより、みんな情熱的にあの人のピアノを聴いていたよ。それにあの演出だ。そろそろここから出て行くよ。少しの間だったけれどありがとう」

「どこへ行くの?」

「さぁ? またピアノでなんとか食い扶持を見つけるから」

 僕は知っていた。相手へ自分のあの花を差し出すことは、完全な敗北を意味したときでしか使わないものだ。

「だったら」

「?」

「僕のためにピアノを弾いてよ。次の行き先が見つかるまではうちに住んでもらってかまわないし、僕が学校行っている間に練習室を使ってもいいから。だから僕に聴かせてよ。君のピアノを」

「ありがとう。少し甘えるよ」

 僕とリューシュはずぶぬれのまま、宿にいったん戻って経緯を話した。マスターは少し困った顔をしていたけれど、それが儀礼だからしょうがないといった顔で、でも次は実力をつけたときに来いよ。と。そしてマスターは軽食代を引いて財布を渡してくれた。


 2


 お母さんは僕がずぶ濡れで、しかも同じように汚くずぶ濡れ居ている子を連れてきたのを、どう思うだろうか? とそのときの僕には考える余裕すら、なかった。白い雨が服の染料を落とし、財布の紙幣もただの紙となってしまい。でも僕は家の玄関でリューシュに向かって『おかえり』と手をつないで言うと、リューシュは手を握り返してくれた。僕は玄関でぐったり倒れてたまたま通りかかった家政婦さんがどうしたのですか? と声をかけてくれて。僕は一応のあらましを述べた後、二人でシャワーを浴びてお母さんに話しをすることになった。

「あなたもピアノを弾くけれど、そこまでこの子のことを評価するの?」

 とお母さんは厳しい視線で僕のことを射る。

「そうです。リューシュはすばらしいピアニストです」

 これでおしまいだった。一応許可が出たことを彼に話して僕の隣の空いている部屋に案内した。

「ここあいているから使って。昔うちがもっと大きな家だったころは使っていたんだけれど今はもう僕とお母さんと家政婦さんしかいないから」

 ドアをコン。と僕は叩いた。

「どうぞ」

 僕は電灯のスイッチを入れて雨がまだ降っているのが、そして遠くに光の群がキャンデリアから発散されて、きららと部屋の鏡に反射していた。

「あめ、いつごろ止むかな」

「たぶん二日後。それくらい時間がかかるから」

 リューシュはこの雨のことを、始めてしったようだ。

「この街の汚れを落とすまで降り続けて、降り終わったら雪の季節。伍長が至る」

 そうして僕はひとことで挨拶をすませて自分の部屋で電気を消して、白い雨をうつつみながら眠ったんだ。


 ちいさな夢だったと思う。

 期待されたほどの構成力も、表現力もない、力量のないピアニストは僕? 審査員が固い顔をしている。僕は弁明に努める。

 いいえ、これはピアノが悪いんです。

 とね。でもたったひとりだけ、拍手をくれた。

 仮面の男だ。

 彼、リューシュが、僕に。

「そうです。貴方の言うとおりですよ」

 と長々続く。だいたい考えてみてくださいよ。半分ずらした状態で弾くことがフェアと言えますか? あとは審査員の退場だ。一人残ったリューシュが僕の手を取ってくれる。 


 朝起きてすぐにコーヒーを淹れてリューシュの部屋のドアをノックした。

「おはよう。起きている? はいるよ」

 僕はリューシュの返事も待たずに入った。起きたばかりのひとみで僕を見つめる彼。コーヒーを渡した。

「どう? 濃かったらごめん」

「そんなことはないよ。ありがとう」

「曲聴く? メサイアはどう?」

「頼む」

 僕はCDプレイヤーにメサイアを入れて、そして最終曲のスイッチを押した。

 アーメンの終曲。

「今何時?」

「午前六時。そろそろ朝食だから」

 僕は部屋を出て家政婦さんに机をひとつ追加するように命じた。それから窓から白い雨がまだ流れていることを確認できる。窓をちょっと開けると、音がしない螺旋形に流れる白い雨が少し部屋に入りこんでくる。閉めて、僕は白いTシャツで拭いてチェアに腰掛けてこちらでもCDを再生する。「アーメン」在りし日のお父さんが歌っている。いつのことだっただろうか? よく覚えてはいない。

 カタカタと食器の音が鳴り、ひとつの顔も変えないで朝食を食べるリューシュ。

「リューシュさん。貴方は食事の作法を教わったのかしら?」

 と母が訊く。

「はい。社交もよくあったので、雇用先から教わりました」

「そう。食事はどうかしら? 今日は私が作ったの」

「クルミが少しおおいかと」

「そう。ありがとう。次ぎ作るときは少し少なくしてみるから、次も食べてね」

「はい」

 お母さんは途中で朝食を切り上げて仕事と仕事と呟いて部屋に向かった。

 僕とリューシュは声も立てずに少しずつ食べて、お互いにコップひとつ分の水を飲んで食事を終えた。

「ねぇ。昨日も約束したとおり、君のピアノを聴かせて」

「いいよ」

 僕は練習室まで案内した。

 彼は静かに蓋を開けて、ドの音を確かめる。

「リクエストをどうぞ」

「ベートーヴェンのワルトシュタインは?」

「了解」

 彼が左手を瞬時に強く打って次に右手が入る。

 僕はお父さんが座っていた椅子に座り、あの日の――お父さんが、

『おまえのワルトシュタインは正確さに欠ける』

 と言われていたけれど、

『時計のように正しく刻みなさい』

 をこれほど簡単に行うなんて……。

 叙情的旋律を時計のようにきっちり刻む。僕には到底できないことだ。

 二十分あまりで終わっただろうか?

 僕は彼の手を取った。

「どうしたの?」

 僕は彼の手でドーと押した。

 そして手を持ち上げてから離した。

「いい演奏だったよ。その細い指からは想像できないような、演奏だった。僕は部屋にいるからここで練習していて」

 僕は部屋に戻ってひとりでベッドの毛布の中にころがっていた。夕方になってリューシュの声がした。

「夕ご飯ですよ」

「いまいく」

 眠っていたようだ。寝ぼけて起きてみると、キャンドリラの光が雨に輝きを増して僕の家にまで響いてくる。キャンドリラの輝きが最高に響く。

明日、冬が来る。


 伍長はいらっしゃった。誰かお席をおあげなよ。

 僕は雪たちのワルツの中、ノーマン宿まで仕事で仲介人として東洋美術についての結果を報告しにいくと、依頼者は満足してくれた。僕はマスターにリューシュは今僕のためにピアノを弾いてくれていることを話していると、マスターは僕にこう助言をくれた。

「そうかい。今度実力をつけたらまた対決に来いと言っといてくれ」

 と言葉をくれる。

 僕が向かった先の、キャンドリアの廊下にくらっと座っているとき、偶然リューシュを見かけた。

「どうしたの?」

「ああ、貴方もこちらにいたのですか」

「そうだけれど。僕は毎月の第四日曜日はここに来ると決めているんだ。あの」

 と僕は指を指した。

「作家さんのファンでね。彼はこの時間にいるんだリューシュは?」

「僕は純粋に美術の勉強をしに来ただけですよ。ここには美術品がたくさんあるので」

 と僕とリューシュは二人で回廊を見て回って。黄色い雪が降り始めていた。僕はサクっと音がなるのがすごく懐かしかった。

「気をつけてよ。雪は服の間から入ってくるから」

 と言う間にリューシュは僕に雪をパっと無邪気にかけてくる。僕は何も言わなかった。

「どうしたの?」

「……」

「僕が、何か悪いことをした?」

 リューシュは僕の肩についている雪を振り払う。

「謝るよ。幼かった」

「ううん。違う。昔から、そんなことをしてくれる子はいなかったから」

 リューシュは僕の髪をくしゃりと撫でて、頬をさっと触れて。

「僕が、……」

「何も言わなくていいから。リューシュ」

 と僕は彼の手を振り払った。



 家でリューシュはピアノを僕のために弾いてくれた。

 あるとき、僕はリューシュの演奏にないものを見つけてしまった。


 匂いだ。


 リューシュ。演奏して。

 はい。

 彼は素直に僕のために弾いてくれた。

 だから僕は鏡をグランドピアノのそばに置いた。

「君の演奏は鏡だ」

「何をいいたいの?」

「君のピアノは美しい」

 僕は鏡を壊した。

「壊れた。サーカスの始まりだ」

 僕は手をリューシュの前に差し出した。

「君が望むなら、君のピアノを全て壊そう。

 そしてサーカスの開園だ。

 しかし、鏡の影の世界では」

 僕が一息つく必要すらなかった。

「君に仕えるよ。君の作曲したピアノソナタを、僕は君のためだけに弾くよ」

 僕は手を差し出した。

 リューシュは右手の人差し指を僕の手の平に触れる。

 壊れた鏡が僕たちを切断している。

「鏡の世界なんてたいしたことない。

 いいよ。

 僕のピアノを壊してくれ」




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