溝出
暗い床の間に一組の男女が向かい合っていた。
一方は、顔面の縦横に流れる疵を持つ強面の大男。
スーツの下からも浮かび上がる躍動感あふれる筋肉を持つ。
もう一方は、思わず抱きつきたくなるような女。
布団に寝そべり服を着崩すさまは妖艶な雰囲気を醸し出している。
男は渡世に生きるもの、そして女はその愛人である。
男が羽織ったスーツを脱ぐと、脇下に黒光りするものが見える。
それを見た女が顔をしかめるのを見るや、男は慌てたようにそれを外し、遠く後ろへ放り投げた。
女は満足したように微笑んだが、男がシャツを広げるとまた顔をしかめた。
「悪い。こんなモン、床の上じゃ必要ないわな」
男はそう言うや、女の顔をしかめさせた原因のものを後ろに投げ捨てる。
ドスンという重い音、カラカラという軽い音が暗い室内に響き渡る。
体を覆っていた防弾チョッキと、懐に仕舞っていたドスである。
それから下のものも脱ぎ捨て、女に向かい合う。
「嫌な思いさせちまったな。 悪かった! 許してくれ!」
女は首を振る。
「もういいわ。貴方は行動で示してくれたもの。それよりも、私のほうもお願い……」
そう言って自身の肩に手を乗せる。
「そ、そうか、じゃあ遠慮なくいかせてもらうで」
男はワキワキと手を動かし、女の肩に手をかける
――と、勢いあまって女を押し倒してしまった。
不慮の出来事であったが、男はこれも悪くないか、と思い、そのまま女にむしゃぶりつく。
女のほうもまんざらではないようで、男の体に手足を絡め――
「ぐえっ!!」
男が突然悲鳴を上げた。
女の手足が自身を締め付けてきたのである。
強靭な筋力を持ってしても、万力で締め付けられたようにビクともしない。
激痛に顔を歪めながら、男は女の顔へ向ける。
それに気付いた女は、にやり、と顔を歪めた。
その笑みは今まで見た彼女の顔の中で最も蠱惑的なものであった。
「やっと、無防備になってくれた。このときを待っていた」
その女の声が
「体が動かないだろう? あのときの、おれもそうだった」
語るたびに
「海の中は冷たかった、暗かった、ひもじかった、だからさ」
低いものに変わっていく
「だからさ、お前にも……」
この声には聞き覚えがある。この声はドラム缶に詰めて海に沈めた――
『溝出』は鎌倉の頃に現れたとされる怪異である。
ある奉公人が死んだとき、粗忽者のあるじは供養を怠り、粗末なつづらに入れ海へ流した。
しかし、つづらは海から打ち上げられ、中から手足を飛び出して踊り狂い、あるじへと害をなしたという。
今回、溝出になった者と男の関係がいかほどのものかは知らないが、せめて死後は手厚く葬ってやるべきであった。
死ぬ前の恨みは時間が解決してくれることがあるが、死後の恨みは時間により膨れ上がるものなのだから。