遣ろか水
ある日の昼下がり、国語教師の催眠術によって、夢の中に旅立とうとする生徒たちの耳にひとつの声が聞こえてきた。
どこからともなく声が聞こえてきた。
「やろう やろう」
しきりにしきりに何度も何度も声はくり返す。
生徒たちの多くは、空耳か、誰かのいたずらか、なにかだろうと、聞こえない振りをする。
しかし、くり返される声に苛立ちを感じる者もいた。
そして今、
「いいぜ! やろうじゃねえか!」
校内一の凶暴さで知られる不良少年が苛立ちを抑えられず立ち上がり、叫んだ。
少年の叫びにぴたりと声が止んだ。
「ああッ!」
しーんと静まった教室内にひとつの叫びが上がった。
叫びのあったほうを見てみると、先ほどの不良少年が自分の股間をまさぐっている。
「お、おれの、おれのが、なくなるッ!」
なにを言っているのだろうかと怪訝そうな表情をするクラスメートたちだが、その表情は一瞬の後に驚愕へと変わる。
ド派手な金色に染まり、天を衝くように逆立っていた少年の髪が、その肩にまで流れていくではないか。鴉の羽のように黒く染まっていくではないか。
変化はそれだけでは終わらない。
立っているだけで相手を威圧すると言われた肉体が細くなる、縮んでいく。
鉄パイプで殴られてもビクともしなかった胸には、ふたつの小ぶりな塊が実っていく。
目のあった人間を睨み殺すと言われた虎のごとき眼は、優しく潤みを帯びたものになる。
そして不良の象徴、長ランは、やわらかく膨らみ、その形を変える。
色は以前と同じ黒ではあるが、下半身を覆うのは野暮ったいズボンではなく、皺ひとつ無いスカート。
そして上半身を覆うのは中心で結ばれたスカーフが印象的な、そうセーラー服である。
なんと、あッと言う間の数瞬のうちに、狂犬とあだ名された不良少年が、清純な顔立ちの美少女へと姿を変えてしまったのだ。
驚きを隠せぬクラスの中の少年少女たち。
しかし、事態はさらに進行する。
「ひゃあっ、や、やめろぉっ!」
少女が自身の胸に手をやり、叫び声を上げる。
その声はドスの利いたいつもの声ではなく、鈴の音のようなか細く綺麗な声色だった。
皆の注目を浴びつつ、少女は倒れこみ、くねりくねりと身悶えをはじめた。
どこに向くとも知れない眼差しは、どこか扇情的で色気を感じさせるものであった。
そして……
後にクラスメートは語る。身悶えする少女は、まるで見えない何者かに触れられているようであったと。
大雨の降り続いた日にしきりに山のほうから「遣ろか遣ろか」と声がする。
村の人々は皆気味悪がって黙っていたのに、中の一人がなんと思ったか「よこさばよこせ」と返事をした。
すると流れは急に増し、みるみるうちにあたり一帯は海のようになってしまった。
これは愛知の犬山や岐阜の木曽川流域に出たとされる妖怪『遣ろか水』のくだりである。
今、不良少年が少女に変じた怪異もまた、この『遣ろか水』に類するものの仕業ではなかろうか。