母
あなた、あなた…。
私はしばらく、あなたが死んでから何も考えられなかった。警察署の方からは、多額のお金が支払われ、「この度は、申し訳ないことをした」と謝りにも来た。命を落とした代償として残ったのはお金だけ。
恨みたい犯人だって、もうこの世にはいない。
ねぇ、聞いてる?
私はどうしたらいいの?
息子一人をあなたなしで、育てられる自信がないわ。父のいない息子は不自由を強いられることでしょう。私の愛情だけで、息子は成長してくれるかしら。
この世から生きる感覚がなくなった気がする。
食べることも、着ることも、どうでもよくなっちゃった。
愛する人を失う。いずれはその経験をすると思っていたけど、こんなにも早いなんて。
朝の「いってきます」の言葉が最後になってしまったわね。
最後、終わり、永遠。
あなたのせいよ、目が赤くなっちゃったじゃない。涙の出し過ぎね。
でも、止まらないわ、止められない。
私は、どうしたらいいの?
**
私は夫が居なくなってから、一度、実家へ戻ることにした。ここにいても、今までの貯金と多額の謝罪金があったので、生活を続けることはできたと思う。
けど、ダメね。私の精神が参っていた。
まともに家事や教育をやりたくなかった。
私は疲れていたから、息子を連れて、帰郷することにした。
「パパ、帰ってこないね。どこに行ったの?」
電車に乗っている時に、息子が尋ねてきた。
「パパはね、少し遠い所におでかけしちゃったの。しばらくは帰ってこないのよ」
「パパと早く遊びたいなぁ」
「………」
涙がポロポロとこぼれ落ちる。息子の前では元気なママでいようと思っていたのに。
「どうしたの?ママ?」
「なんでもないのよ…なんでも」
私は息子を抱きしめた。私がいるからね。
「そろそろ着くわよ。降りる準備をしようね」
「は~い」
息子は鞄にオモチャをしまった。
「私がいるから」
ボソリと呟いた。
電車から降りて、バス停へと向かった。私の家は駅から30分電車を乗り継いで行くことになる。どこにでもある田舎町。
「ただいま~」
私は家に入ると、母に驚かれた。
「あら、どうしたの?」
「少し疲れちゃったから戻ってきたの。急に来たけど大丈夫だった?」
「当たり前でしょ。あら、こんにちは」
母は息子に気づいたのか、挨拶をした。
「こんにちは、おばあちゃん」
「可愛いわね。これくらいの年頃が一番可愛いときなのよ」
小さな私を思い浮かべているのかほくそ笑んでる。
「おばあちゃん、トイレに行ってもいい?」
もじもじしながら聞いた。
「それは大変。すぐそこよ」
息子と一緒に案内をする。
「急がないと漏れちゃう、漏れちゃう」
扉を閉め、母はこちらに振り返った。
「いいわよ」
「えっ?」
「しばらく泊まっていきなさい。ゆっくり体を休めて、元気なママに戻らないと」
「ありがとう」
母は私の行動などお見通しだった。私はその言葉に甘えることにした。
**
私は実家にお世話になることになった。母は還暦を迎えている。この間、電話で「物忘れが激しくなってね…」と、私にぼやいていた。
私の父は、既にこの世から去っている。母は今、一人で生きている。
「私と一緒に暮らさない?」と聞いたことがある。母は「お父さんの家だから、離れたくないの」と言い断られた。
父は、私が成人を迎える前に亡くなってしまった。父との別れにも、涙をこぼしていた。ガンの病に蝕まれた父。病院へ見舞いの度に、やせ細り、活力を無くしていた。見たくはない姿。ご飯も喉に通らず、点滴だけの生活を余儀なくされている時に、私は思った。いや、看病に来ていた人は思っていた。
(先がもう長くない)
父は最後にこう言ってくれた。
「幸せになれよ」
簡潔な言葉だった。不器用な父は、きっと短い言葉しか思いつかなかったのだろう。
お父さん、私は元気を無くしているけど、大丈夫。また立派なママに戻って帰ってきます。
仏壇の前でそう思いながら、私は手を合わせていた。
「こっちにはどのくらい滞在するつもり?」
母が後ろから話しかけてきた。
「うんと…」
目星はついていなかった。心の整理が終わるまで。
「わからない」
「そう。半年くらい居てもいいのよ」
半年。その間には、自分の心に決着をつけないといけない。
「ゆっくりしていきなさいよ」
「それ、さっきも聞いたよ?」
母は少しハニカみながら笑った。
私はこれからどうしようか。少し考えることにした。
**
「こんにちは~」
「あら、来たのね」
突然の来訪者。この声は、もしや。
「おじゃまし…久しぶり。元気にしてた?」
「ええ、元気だったわよ」
彼女は昔からの知り合いで、私の幼なじみである。時々、母を訪ねて手伝いをしてくれる。心配である母を彼女に任せていたから、向こうでも安心して生活ができた。
「昔の馴染みが戻ってきたし、まずはお喋りでもねえ」
紅茶を用意し始めた。
「何でも知っているのね」
「そりゃ、毎日来ているようなものだし、自然と覚えちゃってねえ」
彼女がコタツに入り、世間話をすることになった。話したことは些細なことだったけど、馴染みの顔と束の間の休息を楽しむ。自然と笑みがこぼれていた。
「あ、そろそろ夕食の時間ねえ。子供がピーピーうるさいからお暇しますか。またねえ」
「いつでも待ってる」
彼女は帰って行った。これから顔を合わせる機会が増える。楽しみが1つ増えた。
**
私は実家で半年程度、休養を取っていた。ただこのまま甘えてはいけない。私とあなたの家に戻ることにした。
戻ってからは、息子を幼稚園に入れた。
今でも元気にやっています。あなたは今でも元気ですか?
仏壇の前であなたに話しかけた。
あなたがいなくなってから、私は仕事を始めたのよ。会社の人たちと上手くやっている。仕事もだんだんと慣れてきたし、順調に働いているわ。
ただ1つ、心配なことがあるの。それはね、息子との時間が減ってしまうこと。朝の送り届けはできても、夜のお迎えが遅くなることが多くて寂しい思いをさせている。
私はしっかりとママをやれている?パパの不在を補えている?大丈夫よね?
大丈夫だと思って、仕事に出かけた。
「ねえ、ママ。動物園に行きたいの。ゾウさんやキリンが見たいの」
自動車で送り届けている時に、息子が話しかけてきた。
「今度の休みに動物園に行きましょう」
「本当に!?やったー」
とても喜んでいる。楽しそうにしているのは久しぶりかもしれない。そうね、私の都合で引っ張り回していたっけ。
そして休日。私は準備をして、早めに動物園へと向かった。
私は浮かれていたんだと思う。絶対にはやっていけないことをしてしまった。
歩きで動物園へと行っている途中。信号が青から赤へと変わろうとしているときに、息子が急に走り出した。
「ちょっと信号を無視しちゃダメよ」
目を離している内に、危ない。すぐに引き戻さないと。
「戻ってきなさい」
トラックが猛スピードで来ている。
「ダメ」
私は走りだし、息子の元に。トラックは私たちに気づかずに、突っ込んでくる。
キキッー。
大きなブレーキの音。
ぶつかる。息子だけは守らないといけない。
ブシャァァァ。
トラックの動く音が止まる。
息子は、怪我一つもない。良かった。
ドクン、ドクン、ドクン。
カラダジュウカラチガデテイル。
「ママ?どうしたの?ケガしているよぉ」
「大丈夫…よ」
声が上手く出せない。私の右側が失われている。
トラックの運転手は、飛び出し、携帯電話を取り出し、連絡をしている。きっと救急車を呼んでいるんだろう。
意識が徐々に薄れてきている。体全体が震えている。寒い。
「ママが…いなく…なっても…一人で…がんばれ…る」
頭が働かない。出血の量が尋常じゃない。血の海ができている。
「強い子…だもの…だって…私…と…あなたの…子…だから」
息子は、どんな顔をしている?見えない。
ごめんなさい。最後に抱きしめさせて。ごめんね。
私はあなたのところに行きます。
待っていてね。