第3章:痛むはずのない言葉
序章
この章では、マフェルが日常の中で抱える仮面の重さと向き合い始めます。
カルロスの言葉が彼女の心に響き、
「本当の自分」と「周りに見せている自分」──
その境界を、初めて見つめ直すことになるのです。
カルロスの言葉が、頭の中で何度も何度も響いていた。
「無理に笑わなくていい。俺も疲れてる。思ったままを言えばいい。」
あの静かな声と、感情の読めないまなざしが、昨夜からずっと私の中に残っている。
眠ろうとしても、目を閉じるたびに彼の背中が浮かぶ。
自転車をこぎながら、私の“安定した日常”をあっさりと置き去りにしていく姿が。
そして今、私は鏡の前に立っている。
いつも通りの朝。
そう思い込みたくて、無理に笑う。
「おはよう、マフェル。」
小さくつぶやく。まるで自分に暗示をかけるように。
口角を上げる。完璧に計算された笑顔。
広すぎず、狭すぎず──“感じのいい子”に見えるちょうどいい形。
チャイムが鳴る。
いつもの声、噂話、笑い声。
そして、教室の奥に彼がいる。
カルロス・ガルバン。
たった一日で、私の仮面を壊した男。
私は“いつもの私”を演じる。
明るく、優しく、誰にでも感じよく。
けれど、会話の合間にどうしても彼を探してしまう。
彼は静かに席に座り、前を見つめている。
退屈そうでもなく、楽しそうでもない。ただ──そこにいる。
「本当は、どういう意味だったんだろう?」
私の胸の奥でその疑問が小さく鳴る。
彼は、私の“演技”に気づいているのだろうか。
「マフェル、マーカーをカルロスに渡してくれる?」
先生の声に、私ははっとして立ち上がる。
手が震える。足元が少し浮いたような感覚。
「はい。」
笑顔を作って、彼の机まで歩く。
「これ、どうぞ。」
カルロスは顔を上げ、軽くうなずいた。
「ありがとう。」
それだけ。
たった二音の言葉。
それなのに、なぜか“会話をした”ような気がしてしまう。
授業の間、私はまた彼を見つめていた。
ノートをとる手、窓の外をぼんやり見つめる横顔。
月曜日の空気には、似合わないほどの静けさをまとっていた。
彼がふとこちらを向く。
反射的に視線をそらす。
心臓が跳ねる。
何もなかったふり。
もう一度そっと見たら──
彼と、目が合った。
やばい。
鉛筆を握り、必死にノートに書き込む。
内容なんて頭に入っていない。
「マフェル、それ何書いてるの?」
隣のソフィアが笑いながらささやく。
「え、あ、これ? 重要なポイントを…」
「でも今、数学の時間だよ。」
……完璧。自分で自分にツッコミたい。
それから数日。
私は彼に話しかけるチャンスを探し続けた。
火曜日、廊下で。
「ねえカルロス、またみんなでサッカーするんだって。一緒にどう?」
「サッカーはあまり。」
「下手でも平気だよ、みんなそんな感じだし。」
「でも、いいや。」
軽く笑って、それだけ。
水曜日。
「食堂のピザ、もう食べた? あれ意外とおいしいんだよ。」
「学校のは避けてる。家から持ってきてるから。」
「……そう、なんだ。」
毎回、きれいにかわされる。
嫌味じゃないのに、距離が近づかない。
化学の授業でペアを組むことになり、私は迷わず彼の隣に座った。
「一緒にやってもいい?」
「うん。」
淡々と作業をこなすカルロス。
私はなんとか話をつなごうとする。
「科学、好き?」
「まあ。」
「先生、優しいよね?」
「うん。」
……沈黙。
無理に話しかけるたび、心が空回りしていく。
「私、どうしてこんな必死なんだろう。」
木曜日。限界だった。
何をしても、届かない。
笑っても、軽く流される。
その日の放課後、誰からも声がかからなかった。
「今日、どうするの?」も「一緒に帰ろう」もなし。
いつもなら誰かが言ってくれるのに。
「最近、私……変だもんね。」
そうつぶやいた瞬間。
「何が?」
背後から声。振り返ると、カルロス。
「な、なんでもない!」
あわてて笑う。
「じゃあ、また明日。」
「待って!」
思わず声が出た。
自分でもびっくりするほど大きく。
「少しだけ話せる? 図書室で。廊下だと…誤解されるかもしれないから。」
カルロスは一瞬考えて、うなずいた。
「わかった。」
図書室はほとんど無人。
時計の音が、やけに響く。
私は深呼吸して、彼の前に座った。
「カルロス、あのね……聞きたいことがあるの。」
「その前に。」
彼が穏やかに口を開く。
「勘違いされたくないから言うけど、恋愛とかは考えてない。そういうの、得意じゃないんだ。」
「えっ……!」
顔が一気に熱くなる。
「ち、違うの! そうじゃなくて! 私、ただ友達に──その、馴染めるように──」
「俺みたいに?」
静かにそう言われ、言葉が止まる。
カルロスは、軽く息をついた。
「なるほど。だから一週間ずっと“追いかけて”たわけか。」
「おい! 追いかけてなんかないよ!」
思わず声が大きくなる。
「ただ……助けたかっただけ。」
「助けるって、何を?」
「……。」
「“みんなとうまくやる方法”を教えてくれるの?」
その言葉が、まるで刃のように心に突き刺さる。
「マフェル。」
彼の声は穏やかだった。
だからこそ、痛かった。
「無理して作る関係なんて、結局、空っぽだよ。
誰かに好かれるために笑うなら、それはもう自分じゃない。」
「ちがう……私は……ちゃんと大事にしてる。」
声が震える。
涙が出そうになるのを、必死にこらえる。
「人を大切にするのと、“受け入れられたいから関わる”のは違う。
怖くて孤独を避けようとするほど、結局、人は離れていく。」
何も言えなかった。
「君は悪い人じゃない。ただ、疲れてるんだ。」
彼は立ち上がる。
「でも、俺は“仮面のマリア・フェルナンダ”とは友達になれない。」
ドアの前で、彼は一度だけ立ち止まった。
「“本当のマフェル”が話したくなったら、その時は、聞くよ。」
そして出ていった。
図書室の静けさが、急に重くなる。
私は机に顔を伏せた。
心の奥で、何かが崩れる音がした。
ずっと“演じること”が正しいと思ってた。
そうすれば、嫌われない。ひとりにならない。
でも──
「人と話すのが怖くて笑うなら、それはもう自分じゃない。」
胸の奥で、彼の声が繰り返される。
今度は、前よりも痛く。
目を閉じ、深呼吸をする。
そして、小さく一粒だけ涙が落ちた。
……そう。
カルロスの言う通りだ。
わかっていたのに、受け入れたくなかっただけ。
痛いのは、真実だから。




