27:ハート
わずかなランタンの光を頼りに歩き続ける。
歩くたびに明かりが揺れ、光と闇の境界線がさらに曖昧になる。着ているプレートがカチャカチャと音を立てているが、周囲から聞こえる音はそれだけ。
わずかに浮揚しているので、自分の足音すらしない。
重い空気が辺りを支配していて、筋力など関係なく押しつぶされそうだ。
暑くもないのに汗が額から流れ、口が渇く。
どれくらい歩いたのか。
感覚が狂っている気がした。
随分と歩いた気がしているが、多分、それほど時間は経っていないだろう。
前方の壁際に、もたれかかるように巨大な鎧が目に入る。
一瞬ドキッとしたが、すぐさま三日月刀の柄を握り、盾を構える。
慎重に近づくと、それがここで力尽きた巨人の遺体だとわかった。
かなり古いものだ。
鋼の鎧は至る所が錆び付いていて、肉体は完全に白骨化している。
僕はその場に膝をついて、この巨人のために祈った。
「月の神よ、この者の魂が、正しく輪廻の輪に戻りますよう、お導き下さい」
僕の声が何もない洞窟に響き渡った。
その瞬間、奥から強烈な感情の波が押し寄せてきた。
奥に向かって盾を構える。
次の瞬間、僕の体は宙に投げ出されて、激しく地面に転がった。
気を失っていたのだろうか、僕はゆっくりと目を開ける。
目の前に転倒した馬車が見えた。
あれ、ここは……?
そう思った瞬間、倒れた馬車の向こう側から男の声が聞こえた。
「けっ、舌を噛みやがった。せっかくの上玉が台無しじゃねえか!」
「お前が慌てるからだろ。ちゃんと猿ぐつわくらい、噛ませとけよ」
「俺は死体じゃ楽しめねえ。好きにしろ」
盗賊の類か――こうしてはいられない。
僕は慌てて立ち上がって、馬車の反対側へと駆け寄る。
そこで目にした光景に、僕は呆然として立ち尽くした。
衣服が酷く乱され、横たわる女性。口元から血を流している。
その少し向こう側に、地に伏せて動かない男性。
僕はこれが、過去に起きたこと、僕の記憶であることは理解できていた。
だけど、その時の僕の感情もまた鮮やかによみがえり、その境目が分からなくなっていた。
「か、かあさま?とうさま!」
僕の口が自然に動いた。
足が震える。
「うわあああああああああ」
僕は叫びながら走りだしていた。
「何だ、ガキがいたのか」
背後から声が聞こえたかと思うと、腕を取られてねじ上げられる。
「離せ!離せよ!!」
このとき初めて周囲の状況が見えてきた。
武装した男の集団10人とちょっと。半数が、旧王国軍の装備を身に付けている。兵隊崩れの野盗と思われる。
「エルフのオスのガキか。売り飛ばすにゃちょうどいい」
別の男が近づいてきて手際よく僕の体を縛り上げる。
抵抗しようとしたが、全く相手にならなかった。僕の体は子供のそれだったのだ。
これは僕の記憶?
「猿ぐつわも噛ませとけよ。舌を噛むとは思わんが、うるさいからな」
僕は猿ぐつわを噛まされて、さらに大きな麻の袋に詰め込まれた。
状況が理解できない。
直前にいたのは巨人の砦の地下の洞窟。
意識を集中して考えようとするが、もう一人の僕の意識がそれを邪魔する。
子供の僕の意識。
―殺してやる。みんな殺してやる―
これは紛れもなく、子供の僕が思ったこと。
僕はこの時、明確な殺意を持っていたんだ。
そう思った瞬間に意識が途切れた。
背中を引き裂くような痛みが走った。
「奥様、お許しください、お許しください」
痛みと自分の叫び声で、意識が戻る。
僕は腕輪で両腕を固定されて、吊るされていた。
激しい痛みが背中と腹部にある。
僕は涙を流していた。
「許してほしいの?」
僕の目の前で声がする。
仮面をつけた女性の顔がそこにあった。
高価な生地を使った、過剰にタイトなドレス。
その女性の手が僕の顔を持ち上げた。
「はい、痛くて死んでしまいます。どうかお許しください」
僕は懇願していた。
女性と目が合う。
仮面越しに見えるその目に宿るのは、狂気の色。
「そう。人間は簡単には死なないよの?ああ、そうだった。あなたはエルフだったわね。エルフはどうなのかしら?」
彼女は赤い唇を歪に曲げながら、僕の頬を舐める。
僕の体は自然と震えていた。
「可愛い反応をしてくれるのね。ゾクゾクするわ」
ビシッ
「ぎゃあああああっ」
そう言うやいなや、革の鞭で僕の太ももを強く打った。
皮膚と肉が裂けるような痛みが走る。
「可愛い声ね。でも、もう少し楽しませてくれないと、元が取れないわ」
ひゅんと空を切る音が聞こえた。再び鞭が振るわれたのだ。
目を閉じ、身を固くする。
パシンッ!
革の鞭が床を打って、小気味よい音を立てた。
痛みに襲われなかったことを安堵しながらも、僕の震えはより大きくなっている。
両目から止めどなく大粒の涙が流れている。
仮面の女性は満足げに笑っている。
彼女は少し離れた場所の長椅子に体を横たえてから、何かの合図を送った。
僕は吊られた状態から地面に降ろされると、近くにいた女性がやってきて、僕の首に巻かれた首輪に鎖を繋ぎ、それを引っ張る。
ふらつきながら仮面の女性のもとに連れていかれた。
「少し休ませてあげるわ。私の体を綺麗になさい」
そう言うと僕の顔に右足を押し付ける。
「はい、奥様」
僕はそう答えてから、彼女の足を両手で抱え、指示に従った。
「そう、なかなか上手よ。もっと。そう、その調子」
足裏は部屋の石畳と同じ味がした。
寝台の上で目が覚める。
昔のことをこんなに一気に思い出すなんて初めてのことだ。
「なんかひどい目にあった気がする」
僕はそう呟く。
「今日の客も酷かったからね。治療は終わってる。細かい痣は少し残ってるけど、2、3日で消えるってさ」
え?
僕は寝台に起き上がる。
そこには一人の女性の姿があった。アンナさん。
娼館で僕の世話をしてくれる女性。
周りを見渡すと小さな部屋で、小さな窓が高い位置にある。
そうだ。仕事を滞りなく終えたと思ったら、突然剣で刺されたんだ。
そっか、父様と母様が殺された時の夢も、初めて客に接したときの夢も、僕が死にそうになったから見た夢か。
そう思ったときに違和感を覚える。
あれ?
何かを忘れているような気がする。
そう思ったときに、何か表で騒ぎが起きたようだった。
「なんか騒がしいね、何事だろう?」
アンナが部屋の外に出て、すぐに戻ってくる。
見張り役のゼッペ爺さんの姿もあった。
「館が襲撃を受けてる。このままじゃマズい。坊主、行くぞ!」
そう言うと僕の手を引き部屋の外に出た。
下から何かが燃える臭い。火がつけられたようだ。
「こっちだ」
ゼッペ爺さんが奥へと向かい、僕とアンナはそれに続く。
娼館の中は迷路構造になっている。
脱走を防ぐためもあるが、主に客同士が顔を合わせないで済むようにだ。
「厨房に行くぞ。外に出られる」
奥まった通路から従業員用の階段を下って厨房の脇に出ると、
「いたぞ、あそこだ!」
そんな声が聞こえてきた。
「アンナ、坊主を連れて厨房の奥の2番目の戸棚だ、いけ」
ゼッペ爺さんはその場で剣を抜いて、兵士のような男と切り合いになる。
「早くいけ!」
アンナは僕の手を引いて走り出した。
厨房に入り、奥の食品倉庫の2番目の戸棚の前に立つと、アンナは戸棚ごと前に引き出した。
棚は軽くスライドし、奥に通路が現れる。
「坊主、入りな。運が良けりゃ逃げ延びられる。お前はまだ先があるから生きるんだよ!」
「まって、アンナも一緒に行こうよ」
「あたしが一緒に行ったら、この通路を誰が閉じるのさ?追われて二人とも捕まっちまう。いいから行きな!」
「でも、でも!」
アンナは僕を強く通路に押した。
僕はふらつきながら、通路側に倒れる。
同時にアンナは引き出した戸棚を押して通路を閉じた。
最後に、
「あたしらの分も生きるんだよ」
そう言い残して。
狭く暗い通路を進むと上から月の光が差し込んでくる。
そうだ、僕はあの月を手に入れるんだ。
そう思ったときに、再び違和感が襲ってくる。
「何かを忘れている……何か大切なことを」
僕がそう口にした瞬間に、世界は暗転した。
真っ暗な空間を僕は漂っていた。
上も下もわからない。何もない虚無な空間。
なんだか疲れた。
みんな僕の前から消えて行ってしまう。
神様は助けてはくれなかった。
僕は何をしてるんだろう。
どうしてこんなところにいるんだろう。
ここはどこなんだろう。
ああ、なんだかどうでもよくなってきた。
なんだか眠い。
そうだ、眠ってしまえばいいんだ。
嫌なことは全部忘れて。
ずっと眠っていれば、いつかすべてが終わってる。
体の感覚が失われていく。
浮遊する空間に吸い込まれていくように。
闇と一体になっていく感覚なのだろうか。
気持ちがいい。
このまま……
―おい、聖職者。お前にはまだ仕事が残っているだろう!―
僕はハッと我に返る。
聞いたことのないはずの、聞き覚えのある声。
何度も僕を救ってくれた声。
忘れるはずがない。
僕は静かに祈った。
「わが神、月の神よ。今一度、僕に立ち上がる勇気を与えてください」
祈りの詞と共に、闇が一方向に収束していく。
僕の足は確かに大地を踏みしめていた。
娼館から逃げ出したときの僕ではなく、今の僕自身の足で。
僕は確かに『ここに』戻ってきた。
目の前で闇が人の形を取る。その姿には見覚えがあった。
その男はゆっくりと口を開いた。
「お前の目の前で、両親も、お前を助けようとした奴も死んだ。この世界は糞溜めだ。そう思わないか。弟よ」
「ええ、そうかもしれません。ですが、神は常に見ておられますよ。オースティン・ヘイワード」
そこに現れた姿はかつての月影の司教、オースティン・ヘイワードだった。
「俺は死んだが、こうやって復活した。俺を殺したパラディンはどうなった?神に救われたか?違うだろうが!
あいつも神に見放されて、死者の王を頼った!」
「あなたは二つ、間違ってますよ。一つはレイアは神に見放されたのではなく、自ら出来る選択をしたのです。彼女の意思で。
もう一つは、神は最後までレイアを見放したりはしなかった」
「お前がそう思いたいだけだろうが!」
オースティンは苛立たし気に叫んだ。僕に対する威嚇のつもりもあったのかもしれない。
僕は動じなかった。
「今この瞬間ですら、月の神はあなたを案じておられる。わかりませんか?神があなたを見捨てたのではなく、あなたが神を見限っただけだと」
「黙れっ!!」
そう言って、オースティンは僕に切りかかってきた。だがかつてのような鋭さはなかった。
大体の予想はつく。完全に復活したわけではない。
僕は慎重にステップで奴の剣を躱す。
少し間があいて、奴が次の攻撃に切り替える瞬間にポーチから銀粉を一つまみ撒き、聖印を切り、奇跡を願った。
「悪に対する防御陣」
地面に光が走り、瞬く間に光の魔方陣が完成した。
これで時間は稼げるはずだ。
オースティン・ヘイワードは魔方陣の放つ光のカーテンを超えることができずにいる。
その剣は僕に届かない。
僕はその場に膝をついて、祈りの詞を口にする。
「わが神、月の神よ。かつてあなたに使えた使徒に、赦しと恵みをお授けください。
この者の魂こそが、御身による救済を必要としているのです。
今こそ、この迷える魂を、御身のもとにお導きください」
「やめろ!赦しなど必要ない!こんな世界ぶっ壊してやる!」
叫ぶオースティンの体の周囲が洞窟の天井から降り注ぐ光によって包まれる。
彼は暴れるのをやめた。
その姿が、静かに輪郭を失い、光の粒となって宙へ溶けていく
「今は眠るときです。先達よ、安らかに」
僕は彼に向かっていった。
姿が崩れ行くその最後の瞬間に、僕は彼の笑みを見た気がした。
再び洞窟内に静寂が訪れた。
だが、僕はためらうことなくその静寂を破った。
「手駒の使い所を誤ったようですね、死者の王。そこで見ているのはわかっています。
姿を現したらいかがですか!」
オースティン・ヘイワードの魂を捉えることが出来るとしたら、最後の時、近くにいたであろう死者の王以外には考えられない。
僕は確信をもって洞窟の闇に向かって叫んだ。
それに応えるように、奥から禍々しい力を伴い、地を這うような、重く冷たい声が響いてくる。
― 小賢しきエルフよ。神に対してその傍若無人、なかなか見どころがある ―
「お褒めに預かり光栄ですが、ちっともうれしくありません。あなたがここにいるということは、この洞窟はあなたの領域なのですね?」
― ほう、ますます以て小賢しい ―
「取引をしませんか、死者の王よ。私はこの洞窟を通りたいだけだ。黙って見過ごしてくれれば、僕はあなたと戦わずに済みます」
― 取引になっておらん。お前が魂を差し出すと言うなら、その話乗ってやる ―
「欲をかくと、ろくなことにはなりませんよ。僕が差し出すものは何もありません。
もし僕と戦うと言うなら、お相手を致しましょう。あなたに対しては思うところもあります。
もちろん勝てるとは思っていませんが、僕を殺す代償として、あなたは十分すぎる痛手を負うことになるでしょう」
― 人の分際で、神を脅すか ―
「脅している訳ではありません。事実と僕の覚悟を述べたまでです」
僕の返答に死者の王はすぐに答えなかった。
― よかろう、早々に出て行け。今日の所は見逃してやる ―
そう告げると、その場に満ちていた禍々しい空気が消えていった。
彼は去ったようだ。もっとも、近くで監視されている可能性は否定できないが。
僕は再びその場に膝をついて祈った。
「月の神よ、お力添え感謝いたします。まずは最初の難関を抜けることができました」
月の神の返答はないが、僕は月の神に守られている実感がある。
光の届かない地の底であっても、神は奇跡の力と、邪神にも怯むことのない勇気を与えてくださっている。
心許ない小さな祈りであっても、信じ続ける限り、それは決して揺るがない。
僕は祈りの後に立ち上がり、洞窟を進む。
おそらく、もう一波乱あるはずだ。
僕には確信していた。




