ラブレター
コンテストの応募したものの供養。
祖父が亡くなって十年が経つ。それまでは固定資産税の関係で空き家はそのままに、何の手入れもせず放置という手段を取ってきたが、そろそろ老朽化が著しく倒壊の危険もあるから取り壊して土地を売ろうという話になった。そうした経緯から、私と母で遺品の整理を行うことにした。吹き荒ぶ風に生暖かさと花粉が混じり、春の足音がすぐそこまで迫っているのを感じる。記憶の中の祖父は厳格な人だった。本人から直接聞いたことはなかったし、そもそも祖父と話をした記憶すら十年以上も前のことで、最後に見たのは老人ホームのベッドで横たわる枯れ枝のような姿である。しわがれた声で、母に対して「ミツコ、緑茶がええ」と言っていたのを覚えている。母の名前は貴美枝なので、さては爺ちゃん、とうとうボケたなと、その時はそう思った。くすくす笑いながら、お茶が入ったペットボトルの蓋を開ける母の背中は優しかった。
母の話によれば、祖父はかつて陸軍に所属していたらしい。母が子供の頃から冗談など一切言わない男であったから、初めて両親に父を紹介するとき、父は死にそうな顔をしていたという。私自身祖父の記憶はほとんどないものの、口を開けば「あれはいかん」「これはいかん」と忠告のようなことばかり言うので少なからず苦手意識は抱いている。
取り壊すからと土足のまま空き家に上がれば、そこは今にも崩れ落ちそうだ。流石に床が抜けているということはなかったが、それでも雨風に晒された柱や床は一部が腐り、手や足が触れるたびにミシミシと音を立てるのが怖い。祖父母が亡くなったあとすぐに荷物の類いは廃棄したが、それでもまだ祖父の書斎などいくつかの場所は手付かずのままだったので、今回はそれらを漁り、必要最低限の品だけ持って帰るという寸法だった。といっても今更持って帰るものなどないだろうに、母は一体何を探しにきたのだろう。埃を吸わないよう着けたマスクを指先で直しながら、先を歩く母に続く。二階へ上がる勾配のきつい階段の横を抜けると奥には木製の古ぼけた扉があり、ネジが取れているせいで役目を果たしていないひねり錠を指で弾いてそれを開けた。祖父の書斎へ入ったことは一度もない。人付き合いを好まない寡黙な男が過ごした部屋と考えると好奇心が湧き、小柄な母の肩越しに中を窺った。
「あら、思ったより綺麗」
母が呟いた言葉の通り、書斎の中は雑然とはしているものの、ここに来るまでに通った玄関や居間のように木材や砂利が散乱しているわけでもなく、埃こそ積もっているものの当時のままの形を保っているように見える。窓の向こうに雨戸がしているので、窓ガラスが壊れることなく残っていたお陰かもしれない。もしこの窓が割れていたらきっと他の部屋と同じ様相になっていたことだろう。
「何取りに来たの?」
私は母にそう問いかけた。肩口に顔を置く私を振り返った母もまた同様にマスクをしていたが、その目が笑っているのは分かる。
「ラブレター」
その一言だけだった。迷うことなく書斎に足を踏み入れた母が、窓の前に置かれた机へと移動する。軍手をはめた手で窓の鍵を開け、窓ガラスと雨戸を横へ引くと風と日差しが薄暗い部屋に吹き抜ける。重厚な机は木目の美しいアンティーク調だが白く積もった埃のせいで見窄らしく、手を動かすたびにキラキラと埃が日に輝くのが見える。その見窄らしい机の脇にある引き出しに母は手を伸ばした。取手を掴み、古いせいで建て付けが悪いのか幾度も力を込めて引き、やがて少しずつ口が開く。
「ほれ、あったあった。私も子供の頃に一回だけ見せてもらっただけで、場所変わってたらえらかったけど。あって良かったわ」
私に言っているのか独り言を言っているのかは分からない。黒っぽく四角いブリキ缶を引き出しから取り出し机の上に置き、蓋を開けると、その中には茶色い写真が数枚収まっていた。
「なに、これ。母さん?」
「違うよ。母さんの母さん。爺ちゃんの嫁さんよ」
ということは祖母だろう。私は軍手を外して写真の縁を掴んで持ち上げた。傷みの少ない写真の中では、硬い面持ちの男性と、その男性の腕を抱く柔和な表情の女性が写っている。二十年以上前にこの世を去った祖母は遺影でしか見たことがないが、セピア色の写真に写る女性は母とよく似ている。何気なく裏面を見ればそこには達筆な字で「光子と」と書かれていた。
「爺ちゃんの宝物よ。思い出してよかった。回収しておかないと、怒られちゃうでね」
そう言った母は窓から差し込む白い光を浴びて、写真の中の若々しい祖母のように目を細め、くすくすと笑っていた。