紅葉と雲海
十月の第三日曜日、麗奈と零士、栞はツーリングに出掛けることになった。栞が雲海を見たいと麗奈に頼み込み、麗奈が気象条件を読みながら場所を決めたのは金曜日。それを栞が零士に伝えると、零士も行きたがった。
大学正門に十二時集合、湖西から山の方に西回りで走る。解散は二十時、寒さ対策要。簡単なメッセージが送られてきた。
自二部の全体活動は十一月の大学祭に模擬店とツーリング写真展示会になるから、部内の小グループ活動という感じだ。自二部では活動に大きな制約はなく、全員での活動は新入生勧誘、大学祭、卒業生の追い出しコンパくらいなものだ。本来なら五つあるチームの活動に誰もが自由に参加できる仕組みを作ったため、チーム単位での時期をずらした活動があり、それ以外は小グループで好きに走り回っている。ツーリングチームは一月を除く奇数月が定例のツーリングであり、他のチームが活動中止の今は、事実上自二部としてのイベントはそれだけだ。
指定の時刻の十分前に大学の正門に着くと、栞が既に来ていた。
「やっほー、零士君」
「よっ! ・・・ツーリング行くのになんでこんな遅い時間なんだ?」
「雲海の発生時間に合わせたんじゃない? 麗奈先輩に任せっきりだからよく解んないけど」
「気象予報士の勉強、はかどってる?」
栞は麗奈に感化され、気象予報士の資格を取るために勉強をしていた。
「結構ムズイのよ。合格率5%の難関だし、こんなのに小学生が受かるなんて信じられないわ」
「がんばれー」
「わ。棒読みされた。感情込めてよ」
そこに麗奈がやって来た。
「こんにちは。またいちゃついてるわね。すぐに出るわよ」
エンジンも切らずに麗奈は言った。
「ちょ、ちょっと待って下さい。ルート聞いてないんですけど・・・」
「湖西から西回り、ってメールしたでしょ? 私が先頭を走るから栞ちゃん、九頭龍君の順について来て」
「説明、それだけですか?」
「うーん、困ったわね。ミステリーツーリングにするわけじゃないけど、場所場所で確認しながらだし、細かいルートは決めてないのよ。いくつか場所の目星は付けているけどね」
「解りました。それじゃあ後ろ、ついて行きます。ところで今日も降るんですか?」
「今日は大丈夫、雨は降らないわ」
零士の後ろでCBRの排気音がした。栞はすっかりやる気になっている。九月の定例ツーリングからこっち、毎週栞は零士と走っていた。新谷に教わったことの復習だと言って、栞は零士に峠をせがんだ。それまでは海沿い、シーサイド・ランを好んでいたのがえらい変わりようだ。
「ちょ、ちょ、ちょ。インカムくらい合わせて下さいよ」
「だーめ。女子トークするんだから。零士君は繋げないで」
「・・・意地悪だ・・」
零士がジャケットのジッパーを上げてヘルメットを被り、グローブを着けると、二人はオーケー繋がった、と親指を立てた拳を突き出していた。零士がNSRのエンジンを掛ける。
「出るよ!」
ウィンカーを出して麗奈がスタートすると、栞がすぐに続き、それを見た零士は、やれやれせっかちなお嬢様たちだ、と呟くとギアをローに入れた。
市街地を抜けて国道を北に走り、琵琶湖大橋を通って湖西線へ、きっちり一時間走った所で休憩を取った。コンビニで清涼系タブレットを買い、ほんの少しだけ居場所を借りる。麗奈は栞に、休憩の度にストレッチをすると疲労が溜まり難いわよ、と話している。
高島市に出て今度はそこから西に向かう県道はスリリングなターンが連続した。栞はコーナーの手前で十分に減速し、バイクをターンさせると加速して行く。タイトなコーナーも危なげなくクリアし、すっかりライダーしている。
国道を少し南下して、ガソリンスタンドで給油し、トイレを借りた。そこから西に進路を取るが、この県道にはコンビニがない。
途中で県道を北上して進むと、山々の紅葉が見頃になっていて、赤や黄色の鮮やかな風景を楽しみながら走ることができた。すっごい景色だ。零士はそう呟いた。女性二人はインカム越しに紅葉や楓を見ながら、きれい、を連発している。
標高が上がると雲の中に入ったようだ。視界が極端に悪くなり、三人は慎重に減速した。零士はひょっとして幽霊が出るのではないかと心配したが、杞憂に終わった。滋賀と福井の県境近くまでやって来ると、頭上には青空が広がり、雲の中を突き抜けたようだ。展望台には車が数台入っていて、しかし麗奈はそこには止めず、先に進んだ。
峠の、ちょっとしたスペースに麗奈はバイクを入れた。上げたシールドから吐く息が白い。夕方の四時、エンジンを切ってサイドスタンドにバイクを預けた。グローブを外して、ヘルメットはミラーに掛けた。二人も倣って同じようにした。
「寒いですね」
「そうね、ここは標高で800mを越えているし、大陸から張り出した高気圧のせいで上空は寒気ね。晴れているけれど朝昼夜の寒暖差が大きいのはそのせい。気温の上昇と共に上がった水蒸気が冷やされて雲になる、それが今度は気温が下がって降りて来ると・・・」
麗奈が解説している間にも目の前の雲が下界に降りて行くのが解った。逆に雲の中から山と紅葉した木々が顔を出した。まるで雲の上に浮かんでいるような景色だ。
「わあああ」
栞が感嘆の声を上げる。
「こりゃあすごいわ」
零士も相槌を打った。
「ねえ、この景色景観は一見の価値あり、でしょう?」
麗奈は満足そうだ。
「でもね。実はまだこの先があるの」
「なんですか?」
「まあ、説明は後ね。ただ待つだけ」
麗奈に言われて、二人はただただ、雲海を眺めていた。あ、っと栞は小さく声上げると、ウエストバッグからスマホを取り出した。
「あまりの景観に写真撮るの、忘れてた」
スマホを雲海に向けて微笑む栞を、横から麗奈が写真に収めた。
「うん! いい顔してる」
そして麗奈は零士に顔を向けた。
「峠の、路面とRしか見ていない人にはこの景観は解らないでしょ?」
「そうですね」
「日本には良い景色が沢山あるわ。美味しいものもね。それを探すツーリングだってあるのよ。公道でね、レースまがいのことをしては駄目。周りが見えなくなっちゃうから」
零士は照れたように、静かに言った。
「この前の、自二部のツーリングでも新谷さんに思い知らされましたよ。あの人は速く走るだけじゃない。初心者ライダーのインストラクションだってこなすし、走りに幅があるというか、懐が深い。いくつもの引き出しを持っていて、相手に合わせて、目的に合わせて自在に走り方を変えることができるんですね」
「そうね。新谷さんはロードレースも楽しむし、キャンツーにも行くわ。部にいた頃は後輩の面倒見も良くてね、皆に慕われてた。バイクは楽しい乗り物だから、楽しく乗らなきゃ駄目だ、っていうのが口癖だった」
「・・・」
「私は君に何も押し付けたりはしないわ。今日のツーリングもね、こういうツーリングをしなさい、なんていう気はさらさらないの。でもね、君がこの景色に感動してくれるのなら、それはバイクに乗る上での正解の一つだとも思うの。だから君も、バイク、イコールスピード、なんて考えを人に押し付けちゃ駄目よ。楽しんでナンボのものだからね、バイクは」
「あ!」
栞が声を上げた。
「そろそろね」
夕日が山に隠れ始めると、それまで白く輝いていた雲海が、薄いオレンジになり、それが色濃くなり、そしてピンク色に変化していった。
「きれい・・・」
その色が一層濃くなったと思ったら、今度は、雲は次第に色あせてモノトーンになっていく。
きれいな景色だった。美しい色だった。誰もが息をのみ、ただ、時間だけが静かにながれた。これは・・・病みつきになるな、零士はそう思った。
「さあ、いつまでも余韻に浸っていたいけど帰るわよ。灯りはヘッドライトしかないから、慎重にね」
唐突に麗奈が言うと、もう既に麗奈の表情が読み取れないほどの暗闇が近づいていた。栞と零士は慌ててバイクに近寄るとキーを差し込み、捻ってニュートラルランプを灯した。
翌日大学に行くと、語学教室には既に栞が来ていて、彼女の周りにちょっとした人だかりができていた。
「おはよう。何の騒ぎだい?」
「あ、おはよう零士君。これ、昨日の写真を皆に見て貰ってるの。雲海も、雲海の夕焼けもすごかったよね?」
スマホの写真を見ると、オレンジ色に輝いている雲海が、その複雑な形によって作られた陰影があってものすごい立体感を作り出していた。改めて見ると、本当にすごい景色だ。
「うん、俺、久し振りに感動した。写真もすごいけど、生で見るともっとすごい」
「いいわねえ。ねえ、場所を詳しく教えてよ」
「良いけど、気象条件が整わないと見れないらしいわ」
「ぃやーん」
「雲海だけなら、朝の方が出易いらしいけど。この夕焼けの色は、朝焼けでは出ないんだって」
「えー? そうなの?」
「うん。先輩がそう言ってた」
「零士君、私、もっと勉強するわ。気象学極めれば、またこんな景色に出会えるもの」
「麗奈先輩に頼めばいいじゃん?」
「だって四年生だよ? 来年卒業だよ? 卒業したら頼み難いわ。そうだ、麗奈先輩、どこに就職したんだろう?」
「マーケティング何とかって会社だって、言ってた」
「ええー? 勿体ない! あんなに美人で気象予報士の資格持ってるなら、普通はお天気キャスターでしょう? 朝のニュース番組出まくりの」
「何が普通かよく判んないけど」
「もう! でも憧れちゃうなあ。才色兼備?天は二物を与えずっていうけど、麗奈先輩は三つも四つも持っている気がする」
「そおかあ?」
零士は、でも失ったものだってあるんじゃないか? そう言いたい気持ちを抑えた。日下部さんの話題になると未だに声を詰まらせ、幻のライダーを追って涙をこぼす、そんな彼女の姿は、たぶん自二部の中でもほんの一握りの人間しか知らないはずだ。
本当は、麗奈先輩は幽霊ライダーに会いたくて気象学を勉強したんじゃないだろうか、零士にはそんな気がしていた。
「美人で、頭が良くて、スタイル抜群。バイクの運転が上手くて・・。ほらこれでもう四つじゃない」
恋人の死を三年経っても受け入れられず、天候を予測して、幽霊ライダーを探して山々を走り回る女性ライダー。それが麗奈先輩の本当の姿なら、やっぱりそれは悲し過ぎる。自分だって、バイクは楽しんでナンボの乗り物だからって、言ってたじゃないか。零士は胸の中で呟く。
「優しいし、服のセンスは良いし。持ってる人は違うのよ。きっと」
「決めた!」
「なに? 急に何?」
「俺、麗奈先輩の卒業まで、麗奈先輩と一緒に走る」
「え? ええ? じゃあ、私も!」
「・・・栞。新谷さんの言うことが本当なら、たぶん麗奈先輩は霧や小雨を探して走っているんだ。バイクには悪条件の中を、一人で走っているんだ。だから誰かがサポートしなきゃいけない、俺そう思うんだ。でも栞。麗奈先輩と走るってことは、視界の悪い峠や冷たい雨の中を路面のミューを気にしながら走るってことだぜ? スイーツやグルメツーリングや、工場夜景巡りをする訳じゃないんだ。走るのがキツイ場面だってあると思う」
「ちょっと意味解んないんですけどお? なんで麗奈先輩は霧や小雨を探して走るわけ? 雨上がりの虹や、雲海を探しているんじゃないの?」
「しぃ! 授業が始まる」
零士は強引に話を終わらせた。
授業が終わると栞は、零士に話し掛けた。
「何か麗奈先輩のことで隠し事があるの?」
零士は中途半端に口にしてしまったことを後悔した。栞は好奇心旺盛だ。心に沸いた疑問は解消しなくては収まらない。栞のくりっとした眼が、零士を問い詰めた。
栞に隠し事をして、変に勘繰られても後々面倒になるかも知れない、零士はそう思って、栞に自二部がレースをできなくなった理由を話した。麗奈の恋人、日下部の死のことも、麗奈が日下部との思い出を大切にしていることも、その影を未だに追いかけていることも。
「そうかあ。そうなんだあ・・・」
栞は目を潤ませている。
「でもなんで霧や雨なの?」
「さあ? 事故と同じ状況に拘っているのかな」
零士はその部分だけは言葉を濁した。
「同じシュチエーションかあ・・・。解ったわ。でも麗奈先輩って、そんなに速いの?」
「ああ、先輩が本気で走ったら俺も千切られるかも知れない。公道だから抑えて走ってくれているけど、底は見えないよ」
「確かに、そんなスピードで雨の中を走られたら私はついて行けないし。サポートどころか足手まといになっちゃうかも。でも。麗奈先輩、零士君と一緒に走ってくれるかしら?」
「そこが問題だよなあ。でもほら。俺、サークルの後輩だし、そこは頼むしかないから」
ところがその問題はあっさり解決した。
「え? 私と一緒に走りたいって? 私、雨女よ? それでもいいの?」
「何言っているんですか。俺だって雨男ですよ。雨に降られるの、慣れっこです」
麗奈先輩の走りを学びたい、零士がそう言うと以外にもあっさりと承知して貰えた。
「基本毎週日曜日ね。あと、気象条件によっては早朝もあるし、帰りが遅くなるときもあるわよ。君、バイトあるんじゃないの?」
「バイトは平日の夕方から深夜なんで、日曜祝日と朝なら大丈夫です」
「栞ちゃんも?」
「彼女は週末ならたいていオーケーですけど。麗奈先輩のマジペースはキツイんで、合わせられる時だけ。」
「ほんとは私とじゃなく、部活の現役の子と走って欲しいんだけどなあ」
「あと数か月、卒業までの間ですから」
時間と場所の指定は、麗奈がショートメッセージで二人に送る。状況から見てキツそうな時は、栞は参加しない。栞と零士は受け取ったメッセージを見て二人で相談して栞の参加を決め、返信をすることにした。
三重、奈良、和歌山、京都、福井、岐阜。滋賀を起点にして二人、もしくは三人で走り回った。本当に雨に降られる事が多かったが、雨の日のライダーズハウスは空席ばかりで、店主からは
「こんな雨の日にようこそ」
と言って、特別サービスを受けることもしばしばだった。
ある日のツーリング、強くなった雨を避けて一時的に避難したファミレスで零士は尋ねた。今日は二人だ。食事が来るまでの間、麗奈が雨の向こう、遠いところを見ているような気がして、気になったのだ。
「日下部さんは、どんな人だったんですか?」
一瞬、どうしてそんなことを聞くの? という表情をした麗奈だったが、言葉にはせず、話始めた。
「一言でいうと、バイク馬鹿、ね。幼い頃からレースをしてたから、勝つことには人一倍執着心があった。そういう意味では君と似ているかもね」
零士は頷いた。
「でも、単純な速さだけじゃなくて、もっとトータルでバイクの乗り易さとか安全性とか考えていた。エンジン特性、サスペンション、ハンドリング、バイクの挙動について話始めたら何時間でも話したわ」
「メーカーの、開発者みたいですね」
「そうね。ライダー目線で開発に携わりたかったみたい。でもね。これが万人受けのセッティング、コッチは俺専用のセッティング、って二つ言うもんだから、いつもこんがらがっちゃった」
そう言ってガラス窓の向こうに目をやった。
「雨の日のツーリングは、休憩場所が喫茶店とかファミレスが多かったから、こうやって差し向かいでバイクの話ばっかり。私は、映画や食事やファッションの話もしたかったけど、あの人、バイク以外はてんでからっきし」
「お付き合い、されていたんですよね?」
「やだ、誰に聞いたの? 岸君?」
「いえ、新谷さんから」
「もう。新谷さんたら、余計な事を・・・」
「もしかしたら。麗奈先輩が雨を好きなのって・・・」
「・・・。雨の日はあの人と一緒に過ごす時間が、いつもより長いから。晴れの日は走ってばっかり。インカム繋いでもほとんどしゃべらないし。雨の日に走って、こうやって休憩を長めに取るの。沢山おしゃべりできたわ」
「今もそうやって思い出すの、悲しくないっすか?」
「馬鹿ね。彼は私の中で生きているわ。皆が彼を忘れても、私は忘れない。悲しくなんかないわ」
日下部さんが麗奈先輩の心の中に居続けたとしても、その彼の手が麗奈先輩を抱きしめることはない、零士にはそれが切なかった。
「あらやだ。勘違いしないでね。一日中降る土砂降りは嫌いだし、そんな日に走っても楽しくはないわ。雨上がりの虹を探して走るのが好きなのは本当よ。ほら。話を湿っぽくしないで」
そう話す麗奈は、しかし目が赤い。
「いや、ほら。麗奈先輩が遠くを見てたから」
「え? 私、雨のことを考えていたのよ。最近、私の予想より強く降ることが多いから、何のデータが不足しているのかしらって、それを考えていたの」
「俺も気象学、勉強しようかなあ」
「やってみたら? 栞ちゃんと一緒ならモチベーションも上がるでしょ?」
「経済学部で気象予報士かあ。バイトもあるしなあ」
「資格を取らなくても勉強するだけでも良いと思うわよ」
「そうですね」
「今日の虹は出現が早そうね。雲の流れが早いわ。食事を済ませたら山へ入りましょう」
十二月の初め、紅葉も終わり樹は葉を落として山はすっかり冬模様だ。峠道にも落ち葉は積り、雨に濡れた落ち葉はタイヤを簡単にスリップさせる。麗奈は慎重にラインを選び、それでもかなりのペースで峠を駆け上がった。零士は麗奈の選んだラインをトレースして後に続いた。右へ左へとバイクをリズミカルに振る麗奈。今日の麗奈のラインの取り方は道幅を使わない。車線のほぼ中央だけを走っている。まるでそこにレールが引かれているようだ。麗奈は独特なライディングフォームでバンク角を最小限にして駆け抜ける。
いつしか零士も、同じようなフォームで走っていた。確かに公道で、どこにギャップがあるかも判らないような道では、きっちりとニーグリップしている方が車体は安定する。お尻が落ちていない分、ウェイトもリアに乗っている気がした。丁寧に減速と旋回と加速を繰り返し、麗奈のラインと谷の向こう側を交互に見ながら走った。
峠の中腹から雨が上がっているようだった。空は薄曇りの所と、場所によっては陽が射している。
「あっ」
麗奈が声を出した気がして、零士は状態を起こし、減速した。自分の体が、乳白色の淡いパステルカラーの光に包まれている気がする。麗奈も減速し、路肩ギリギリにバイクを停めた。零士は麗奈のすぐそばまで行って路肩にバイクを寄せた。周りの空気が輝いているようだ。
「・・なんですか、これ?」
「解らない? 私たち今、虹の中にいるのよ」
零士は中学生の時のスキー合宿を思いだした。
「ダイヤモンドダストみたいだ・・・」
空中に浮遊する光の小さな粒。空を見上げると淡い虹が見える。
麗奈は前後を見渡した。谷を挟んで直線で二百メートルくらいだろうか、向こうにガードレールが見える。
「君、ここにいて。私あそこまで行って写真を撮ってみるわ」
「それなら俺が行きますよ」
「いいから、じっとしていて! 道幅狭いし、車には気を付けてね」
麗奈はバイクをスタートさせた。僅か二十メートル移動しただけで身に纏っていた光が消えてしまった。
麗奈は自分に慌てるな、落ち着け、でも最速で、と言い聞かせて走った。左コーナーに入る度に後ろを振り向き、まだ虹があることを確認して、その下の部分が見える場所を探した。
「見えた!」
瞬間ブレーキがきつくなり、リアが滑った。麗奈は落ち着いてカウンターを当て、バイクを停めた。グローブを外すのももどかしく、タンクバッグからカメラを取り出し、ハンドタオルでレンズを拭った。ミラーレスのカメラ、35-100mmのズームレンズを装着している。
「まだイケル」
麗奈はそう呟くと、引き気味に構図を決めて連写した。絞りを微妙に変えつつシャッターを押すのに夢中になった。何度目かに顔をカメラから離すと、虹の色はなお一層薄れ、消えつつある。
「まだ! 消えないで!」
根元に近い部分をアップで。零士の顔は見えないが、両手を上げている。連写。麗奈がシャッターから指を離すと、虹は完全に消えていた。
麗奈はしばらく余韻に浸っていた。そしてガードレールに寄り掛かり、今撮ったばかりの写真を見ていると、やがて乾いた排気音が聞こえて来た。
「どうでしたか? 撮れました?」
エンジンを切った零士がゆっくりとバイクを降りた。
「100mmレンズだと人がいるのは判るけど、顔までは無理ね」
カメラを渡しながら麗奈は言った。
「いや、でもすごいっす。判ります、これ。俺、本当に虹の中にいたんだ。すげえ。栞、悔しがるだろうなあ」
「そうね。この季節にこの写真が撮れたのは奇跡だわ。君、今度は栞ちゃんを撮ってあげてね」
「すみません。本当なら俺が撮らなきゃいけなかったんでしょうけど」
「いいのよ」
「なんか感動したなあ。俺、レイニーツーリング、好きになりましたよ。い、いや。レイニーっていうのは・・・」
「解ってるわよ」
「でもこれ、本当に奇跡みたいな確率なんですよね?」
麗奈は頷いた。
「雨の上がるタイミング、太陽の角度、これらは天気予報の範疇で、ある程度予測することはできるわ。虹の発生方向もね。でも雲の切れるタイミングや何処に出現するかは運任せ。知識や経験ではどうしょうもない。本当に奇跡ね」
「雨を探して走る、か」
零士はふと思った。
「麗奈先輩はどのくらいの確率で虹が見れるのですか?」
「そうねえ。虹や彩雲の出現を予測して行ったときは70%くらいかしら。でも出現そのものの予測が立てられるケースが意外と少ないのよ。虹を見ることができても、虹の中にいられるのは確率としては1%もないわね」
「ひえぇぇ」
「そう。君は今日、貴重な体験をしたのよ」
「・・・幽霊ライダーと出会う確率は?」
「・・・三年間走って、四回、ね」
「夜は出ないんですか? 幽霊さんは?」
「夜は見たことないわ。霧か小雨の天候が不安定な日、あるいは濃霧の日。いつも日中で、季節はあまり関係ないみたい。場所は切り立った崖の峠道」
「ワインディング好きな幽霊ライダーか・・・。視界が悪いという条件なら夜、街路灯のないところも当てはまると思うんですけどねえ」
「・・・そろそろ行こうか。この季節三時を過ぎると急激に気温が下がるから」
麗奈は零士の問いには答えずに帰りを促した。
二台のバイクはほぼ同時にエンジンを始動した。セルとキック。4stと2st。違う機構のエンジン音に、それでもお互いを認め、信頼しているかのような鼓動を感じた。
「二人のレイニーかあ」
麗奈はそっと呟いた。
「なんですか?」
零士がインカム越しに尋ねた。
「ううん、なんでもない。独り言」
「準備オーケーです」
「よし、帰ろう」
カツンとギアが入り、麗奈と零士はゆっくりとクラッチを繋いだ。