インストラクション ライディング
栞が麗奈に話し掛ける。
「麗奈先輩。ご一緒していいですか?」
「どうぞ。・・どうだったA班は?」
「レインウェアを着るまではテンション上がってましたけど、やっぱり雨降るとトーンダウンしますね。髪も濡れちゃったし」
「髪はレインウェアの中に入れてたの? それともヘルメットの中?」
「レインウェアの中です。ヘルメットの雫が縁を伝わって中に入って来たみたいです」
「私は雨女だから、ロング、セミロングはもう諦めたわ。ショートカットで男の子みたいだって言われるけど」
「似合ってますよお」
「ありがと」
「麗奈先輩は濡れてませんよねえ。レインウェアのメーカーが違うせいかしら?」
「雨女だからねえ。降られるのが前提。有名メーカーでレインウェアにはお金掛けてるわよ。でもね、耐水圧と透湿性がそれなりにあれば、ノンメーカーでも良いと思うわ。バイク用だから防水性より耐水圧をよく見てね。フロントは二重、ハイネックカットは勿論、できれば袖も二重になっているヤツがいいわね」
「ハイカットでも雨が入ってきちゃうんです。首細いから」
「女の子特有の悩みよね。そこでね。私はこういうの、使ってるわ」
「なんですか? ネックウォーマー?」
「構造は同じだけどね、外生地が防水になっているから、これを被って口の下でコードを締めて、ヘルメットの縁の内側にくるようにして這わせれば、かなりの確率で雨の浸入は防げるわよ」
「へぇ! いいですね」
「メーカーによってはフェイスガードと一緒になっているヤツもあるし。値段もいろいろ。これは自作したの」
「わあ、探してみます」
和風御膳はどちら? 蕎麦定は? 作務衣を着た女性が料理をテーブルに次々と並ぶ。
「あのお、麗奈先輩?」
零士は恐る恐る尋ねてみた。天気の変化が事前に判って、幽霊を探し求めて走るなんて、この人は本当に龍神の使いなのか? 確かめてみたかった。
「なにかしら」
「なんで天気が判るんすか?」
「なんでかしらね?」
「まさか天候を操っている、とか?」
「あら、わかっちゃった?」
「からかわないで下さいよ」
「いいわ、教えてあげる。私ね、昔っから耳が弱いの。体質ね」
零士はぽかんとした顔で、それが関係あるんですか?と重ねて聞いた。
「大ありよ。つまり、もの凄く気圧の変化に敏感なの。ほら、飛行機とか高山列車とか高度が上がって気圧が低くなると、耳が詰まった感じになるでしょう? あれの敏感版」
「それで天候の変化が判るんですか?」
「それだけじゃないわ。私は自分が雨女であることを自覚してから天気の勉強をしたの。それで気象予報士の資格も取ったし。半径二、三百キロくらいの気象データは常に把握してるわ。今はハンディの気圧計も湿度計もあるしね。それらから天気を予測しているのよ。いわば限定地域に特化した気象予報士ね」
「そういうカラクリだったんですか」
「私はね、雨を楽しむことに決めたんだ。せっかく遊びに行くのに、雨だから中止、じゃつまんないじゃない? 中止にした後で晴れたらムカつくし」
「そうですね。今日も助かりました。バイクは走りながらレインウェア着る事できないですものね。途中で止まる場所が見つからないとそのまま走り続けなきゃいけない」
「それにバイクで雨は危険よね。路面のミューは下がるし視界は悪くなるし、車からだってバイクは見えにくくなるわ。雨水で服が濡れたら不快だし、夏場は蒸れる。秋からのスリーシーズンは逆に体が冷えるしね。でもね、アイテム次第では楽しめる、私はそう思ってるの」
「ああ。だからブランド品のウェア。お金を掛けているわけですね」
「メットのシールドだって、撥水加工してあるのよ」
「参考になります」
「体を濡らさない最大限の工夫と、悪条件の回避。そうすればあとはただの滑りやすい路面ね」
「スリップダウンを防ぐ方法なんて、あるんですか?」
「曲がるときに極力バイクを傾けないこと、かな。白バイ乗りってやつ? ニーグリップガチガチのリーンイン」
「ああ、あれかあ」
「白バイはね、職業柄絶対に転倒できないの。まあたまにはする人もいるでしょうけど。だからああいうバンクに余力を残したターンの仕方をするけど、あれ、ウェット路面の街乗りには最強だと思っているの、私」
「ハングオフでも同じじゃないんですか?」
「フルバンクハングオフだと、緊急回避し難いわよ。そこからさらにインに切れ込むだけの余裕が態勢にないから」
「あの。さっき後ろを走っていて、麗奈先輩はしなやかで優しい走りをするんだな、って思ったんですけど、それも関係あるんですか?」
「雪道で車を運転するときにやってはいけない事、急が付く動作」
「急ハンドル、急発進、急ブレーキ、ですね」
栞は既に車の免許も取っている。
「それのバイク版かな。乗馬でいうところの、馬なりって感じ。馬を気持ちよく走らせるために余計なことは極力しない。馬がそうなるように仕向けるの、解るかなあ」
「バイクは非生命体、意思なんて持っていませんよ?」
「バイクと意思疎通ができなきゃ無理ね。君にはまだ早いかな」
麗奈はクスっと笑った。
「でも、第二休憩から後の走り方は良かったわよ」
零士と栞の二人を見ながら話した。
「ハングオフはサーキットのような場所を走るための特殊なフォームね。条件的には、それがどんなコーナーかが判っていること、それから路面のギャップがないこと、ね。フルバンクしているバイクは遠心力と向心力でバランスしている、ライダーはその内側に入って遠心力でバイクを押さえ込む技術。体が内側に落ちているから、内側の足ではニーグリップはできない。ギャップでバイクが跳ねたら押さえ込めないわ」
あ、そうか。零士は理解した。確かに俺はギャップで暴れたマシンを制御してたとは言い難い。
「フルバンクでターンする人とバンク角に余裕を残してターンする人、同じコーナリングスピードなら後者の方が転倒するリスクが低いの、解るでしょう?」
二人は同時に頷く。
「例えば、フルバンクでリーンウィズなら、体をインに入れる分だけターンに余裕があるし、白バイ乗りなら、そこからまだバイクを倒し込む余裕が残ってる。この二つは体とバイクのどちらかにまだ余裕があるってこと。でも二つを使い切るとあとはアクセルワークとブレーキワークよね? こっちはタイヤのグリップにも関係があるし。サスのセッティングにもよるわ」
「サスペンションですか?」
「よく、ダンパーの伸びも縮み側もガチガチにしている人の話も聞くけど、公道じゃ逆に危険ね」
「サーキットのセッティングが速く走るためのセッティングでしょ?」
「ブブー! 君、赤点ね。サーキットランと公道ランは全く別物なのよ。サスもギアもね」
「私、サスペンションなんていじったことありません」
「栞ちゃん、プリロードは出してる?」
「それは最初に買った店でやってもらいました」
「なら取り敢えずそれでいいわ。ダンパーはメーカー基準値で基本オーケーだから。ダボはダンパー調節できたっけ? 今度見て上げる」
麗奈は栞にウィンクすると零士の顔を見た。
「レーサーのセッティングは千差万別。自分で見つけるしかないわ。でもね。公道ランのためにはダンパーは一番柔らかいところから始めるのが基本ね。それでギャップで跳ねるなら、伸び側を締める。コーナリングで暴れるようなら縮め側を締める。安定するところを見つけたら、プラス一、締める。それで試すといいわ。最初はふわふわしてマシンの挙動が大きいと感じるかも知れないけれど、逆にアクセルの開閉でラインをコントロールし易いはずよ。そこからライディングに合わせて徐々に詰めていけばいい」
「知りませんでした」
「そうね、ほとんどのライダーは知らないし触らないわ。さっきも言った通り、公道を普通に走る分にはメーカーの基準値で大丈夫なところだから。それに、サスペンションのセッティングは沼よ。半端な知識でいじり始めると抜け出せない」
たった三つしか違わないのに、知識も経験もテクニックも全く足元にも及ばない、零士はそんな気がした。そしてライディングに対する考え方、バイク思想とでもいうのだろうか。広く、深い。
「ねえ、麗奈先輩。前に、雨は好きだ、って言ってましたけど。あれ、どういう意味ですか? 雨の、ウェットの路面が得意って意味ですか?」
和風御膳のご飯を飲み込んだ零士が話掛けた。
「ツーリングはレースじゃないって、何度も言っているじゃない。・・・確かにレースならウェットを得意とするライダーはいるわね。でもドライよりタイムは落ちているし、他のライダーと比べてタイムの落ち幅が極端に少ない選手ってことよね。それはタイヤのチョイスとかセッティングにも拠るから本当にレースだけの話」
「でも。さっきもご自分で言ってましたけど、雨は危険ですよね。路面のミューは下がる、視界は悪化する、視認され難い。それに服が濡れたら不快だし、レインウェアで夏場は蒸れる、秋からは体が冷える。景色景観だって晴れと雨では大違い、じゃないですか。雨が好きっていうのはちょっと・・・」
「私もね、一日中降り続く雨は遠慮するわ。でもね、途中で上がる雨なら許容できるの。君もこの前見たでしょ? 彩雲。それと虹ね。晴れの日ばかりじゃ虹は見れないわ。・・・私、虹の根元、虹の中にいたことがあるの」
「わぁ! それってどんな感じなんですか? 虹の中にいるとどんな風に見えるんですか?」
「霧よりも少し粒が大きいかしら。細かい水の粒が空中を漂っている感じ。その中にいると周りがキラキラ輝いて見えるわ。外から見える七色じゃなくて、白っぽくパステルカラーに輝くの」
「いいなあ!」
「あれを体験すると、虹を探したくなるわ。条件を選んでわざわざ雨の中を走ったりしてね」
「季節とかも関係するんですか?」
「やっぱり夏場ね。あと時間も。太陽がなるべく高い位置にあった方がいいわね」
「発現条件が厳しいんですね。夏場の日中で短時間に降って。雨上がりは陽が射していなきゃダメでしょ?」
「それでも場所は運任せね。経験上、千メータークラスの山中、北から東が谷側で開けているような場所、かしら」
「うわぁ。一人じゃ探せそうもありませんね」
「雨とはちょっと違うけど、湿度の高い時期に朝晩と日中の温度の高低差が大きい時なら、山中の盆地で雲海が見れるわよ」
「雲海!」
「場所にも拠るけど、周囲が山で囲われてすり鉢状になっている所とかね。下から上へ走っている最中は雲の中を走っている感覚だし、それを突き抜けて標高の高い所へ出ると、雲を突き抜けて空の上に出たように感じるわ」
「すてき・・・」
「私、午後はB班に移ろうかしら」
栞がポツリと呟く。
「いいんじゃない? 午後は、日差しは難しいかも知れないけれど、雨には降られないわ。路面も半乾きくらいにはなるはずだから、タイヤのグリップも良くなるわ」
「あ、栞はゆったりクルージング派ですから、麗奈先輩みたいな走りはしませんよ」
栞は顔の前で手を振った。
「そういう意味じゃなくて。県道の峠道も走ってみたいなあ、って思ったの」
「前にインカム繋いてツーリングした時、コーナー毎に大声で叫んでたじゃん? ギャーとか、ヤメテーとか、来ないでーとか。俺、耳が壊れるかと思ったよ」
「いいじゃない、叫ぶくらいの余裕があれば。本当にヤバイ時は声なんか出ないわよ。体が固まってガードレールに一直線だわ」
「虹を探すのも雲海を突き抜けるのも、峠を走らないと辿り着けないんですよね? だったら山越え谷越えを克服しないと」
「思い立ったら吉日、ってか?」
「私、立石さんに班替えのこと言って来ます」
「山田君にもね」
「はーい」
食後のお茶を飲みながら、麗奈は言った。
「いい子ね」
「ええ。でもバイクもウェアも親から買ってもらったボンボンですから」
「それを言うなら、いとはんよ。親が許すならそれでいいじゃない。他人様の家庭環境に口を挟むべきではないわ。だいたい、君だって親のバイクでしょ?」
「まあそうなんですけど。俺のは中古だし、親父のお下がりだし、ニーゴーだし」
「男の子がブツブツ言わない」
「栞、折角ヨンダボに乗っているのに全然スピード出さないですよ。レプリカなんだから、ブアーっと走ればいいのに。そう思いませんか?」
「君は若いのに固定観念ガチガチだね。じゃあ、ハーレーやトライアンフでラーツーしたらいけないわけ? モトグッチィでキャンツーも駄目なんだ?」
「いやそんなことは言ってないですよ」
「言ってるよ。いい? 君がバイクに速さを求めるのは君の勝手。でもそれは峠じゃなくてサーキットでしなさい。そうでないと他のライダーに迷惑なの。でもね、レーサーレプリカが車の後ろについてドコドコゆっくり走るのは誰にも迷惑を掛けないわ。それでキャンプに行ったって誰からも後ろ指を刺されることなんでないのよ。バイクをどんな風に使って何に楽しみを見出すかは人それぞれでしょ? 今のバイク、200psの市販車だってあるのよ? そんなの、公道で全開になんてできるわけないじゃない。それを全開にしなきゃバイクが可哀そうだ、なんて言うつもり? そんなの固定観念どころか、君の勝手な思い込みじゃない。最高速が300km/hに届くバイクの、フルスペックを使い切ることなんてできないかも知れない、それでもオーナーの所有欲は満たしているのよ」
零士は反論ができない。沈黙のあと、ようやく言葉を見つけた。
「でも、バイクにはバイクの、乗り方、走らせ方があるじゃないですか。コーナーだって、バイクとライダーが一体になってバンクし、走り抜けるのはバイクならではの世界じゃないですか」
「それは否定しないわ。バイクの乗り方は車のそれとは根本的に違う。それは構造上の特性の違いだからね。でもね。小型排気量の、15psや20psのパワーだって、一体何人の人がそれを使い切っていると言えるのかしら? 一般公道ではそれだって危い領域に飛び込みかねないわ。今のバイクはどんどん性能と機能が上がってライダーはいとも簡単にスピードを出せる」
「そうでしょ? メーカーはいつの時代だって、最高のテクノロジーをライダーに提供しているんじゃないですか」
「そうね、それも否定はしないわ。でもね、どんなにバイクが優秀であっても結局はそれを操作するライダー次第なのよ。テクニックも、ハートもね」
麗奈はそう言って、零士の胸を拳で軽く叩いた。
「なんの話だい? 随分盛り上がっているじゃないか」
新谷と栞がやって来た。
「班替えの了承頂きました。午後はB班で走ります」
「だ、そうなんで。午後は俺、栞ちゃんに峠ランのレクチャーをしながら走るから、二人は邪魔をしないように」
「栞ちゃん、まずは基本フォームからおさらいしようか」
二人で駐車場に歩いて行く。零士は追い掛けようとして、二人の背中に言った。
「そんなの、俺がしますよ」
「新谷さんに任せた方がいいわよ。新谷さん、初心者にはすごく丁寧だし、理論派だから一から十まで説明ができるわ。君はどうみても感性派だもんね」
「ちぇっ」
「レースをするのなら感じたことを数値化したり、きちんとメカニックに具体的に要望を伝えたりできなきゃ駄目よ。ギューとかウァンウァンとか言っても伝わらない」
「セッティングも自分でするなら」
「毎回感性でするの? そんなの、いくら時間があっても足りないわ。気温、路面温度、湿度、気圧、その他諸々の外部要因と自分のコンディション、基準値がないと何が悪いのか、何をどのように変えるべきなのか、限られた時間で判断できないわよ?なるだけ数値化して記録しなさい」
零士が遠くに目をやると、サイドスタンで傾くCBR400RRのステップに栞が立つのが見えた。ちぇっ、そのくらい俺にだってできるさ、と呟いた。
麗奈はレインウェアを丁寧にパッキングすると、ウェスで車体を丁寧に拭った。
「じゃあ午後の部、出発しまーす! 立石さん、お願いします!」
山田の声が響く。
「ほいよ。A班の皆、準備できてる? 桜井さんが班替わりしたから、こっち九名ね」
立石が皆の顔を見回す。八名と目を合わせると大きな声で言った。
「オーケー。A班出るよ!」
立石はV-Strom650で先導し、セロー、ジクサー、MTと続く。しんがりはSRX。B班のメンバーが手を振って見送り、山田が声を出した。
「えーと。新谷さん、桜井さんの伴走お願いします。しんがりは九頭龍君で。龍本さんは、中盤でコントロールして下さい」
「ちょっと待って、新谷さんのインカム、なかなかつながらなくて」
栞が慌てたように言う。
「しょうがない、インカムは諦めよう。コーナーは上半身を捻るイメージで、セルフステアを意識して。あと、ブレーキワークとアクセルワークはなるべく俺の真似してみてね」
「はい」
「よし、B班出まーす!」
十一台のマシンのエンジンが掛かった。山田は右手を上げるとバイクをスタートさせ、皆がそれに続いた。
峠に入ると徐々にペースが上がり始めた。だが栞のペースはやはり上がらない。零士は後続車がいないことを確かめるとペースダウンして栞との間隔を広げた。そこから攻めるような走りはせず、でもアクセルワークのオンとオフは丁寧に操作して走ると、それだけでもすぐに車間は詰められた。
零士はふと思いつき、先ほどの麗奈の言っていた白バイ走り、つまり極力バイクをリーンさせないフォームで走ってみた。巡航速度が低いのでいろんなことを試してみる。フォームを変え、ラインを変え、アクセルワークも変えてみた。
「バイクの楽しみ方が千差万別、十人十色、人それぞれなのは知っているさ」
「マシンだけじゃない、ハートもコントロールしなければならないことも知っているさ」
「マシンの性能を引き出すのも殺すのもライダー次第だってことも解ってるさ」
ヘルメットの中で零士は呟く。先ほどの会話が零士の頭の中を繰り返し巡っている。そう言えば、BOMの桂木店長にも同じようなこと、言われたな。そう思った。
このペースで走っていると、いろいろな事が感じられる。それまでは路面と自分のラインと前走車のラインしか見ていなかった。タイヤのグリップとブレーキのギリギリを見極めるように神経を集中し、どこでどんな風にパスするか、それだけを考えていた。ところが今、走るため以外の事に気持ちを分散させていると、ライダーの五感が解放され、バイクとバイクを通して外界にリンクしている、そんな気がした。いろんなモノが意味を持つようになる。雲が薄く切れ掛かっている、西の上空は風が強いのだろうか。風に吹かれて木の枝が揺れている。その枝には小鳥が羽を休めている。林の中に鹿がいる。二頭、親子だろうか。対向車のドライバーの表情さえ見える。助手席の彼女と楽しそうだ。そしてバイクは、ライダーとしての本能が操っていた。頭の中を空っぽにしてラインをトレースしているだけなのに、右手は加速と減速のことを考え、腰はバランスを考え、お尻はグリップを感じている。耳はエンジンの回転数を聞き分け、視界から入ってくる情報は瞬間的に右手や肩腰に伝達される。
零士が休憩場所の駐車場に入ると、新谷と栞はヘルメットも脱がずに話し込んでいた。
「エンジンブレーキを引きずったままコーナーに入ってるよね? あれは止めた方がいいな。ハーフアクセルでリアタイヤに駆動力を伝えた状態でコーナーイン、で、バンクを始める」
「はい」
「それとやっぱり反り腰になっちゃってるね。骨盤は立てて走らすのが基本。唯一寝かすのはブレーキングの時だけ」
「難しいですね」
「今までそういうこと、してこなかったでしょう? いい機会だから体幹で体を支える癖をつけようね。習慣化したら無意識にできるようになるから」
「はーい」
零士はヘルメット脱いで、しかし口は出さずに二人の会話を聞いた。少し離れた場所で麗奈と山田が他の部員と話している。時折聞こえる笑い声。麗奈は何処にいても人の輪の中心にいるような気がした。
短い休憩のあと、同じ隊列で走り始めた。零士は栞の後ろにいながら、新谷の走りを見てみた。基本に忠実でツボを押さえた走りだ。彼のラインをトレースして、アクセルワークを学べばそれなりのライディングに見える。実際栞の走りは今までの走りとは違って見えた。スローイン・ファーストアウト。CBRがバンクし、コーナーを旋回する、その先にはGSXがいる。CBRはGSXのラインを正確にトレースし、そしてGSXのアクセルオンに少し遅れてCBRが加速する。二台のバイクはまるでダンスをするかのように息の合ったコンビネーションでコーナーを駆け抜けて行った。
「新谷さんは後ろにも目があるみたいだ。俺と峠を走った時も絶妙なタイミングで俺のラインを塞いだものな」
「それにあの加速、タイミングを一つ遅らせて栞のアクセルポイントに合わせてるのか。なるほど、そうやって引っ張って上げる、そんな教え方もあるんだな」
「新谷さんが麗奈先輩と走るときは、ロックンロール・ツイストだけど、栞とはワルツかタンゴ、スタンダードな社交ダンスって感じだ。さしずめ俺とはヒップホップのダンスバトルってとこか」
零士は午前中の第二休憩と昼食休憩を思い出した。
「日下部さんって人も、新谷さんと同じような走りをしたんだろうか? 麗奈先輩と同じような思想を持っていたんだろうか?」
自分は日下部さんと話すことも、日下部さんから教わることもできない。新谷さんや麗奈先輩の話は、間接的にでも日下部さんの言葉に近いのだろうか。
零士がふと気が付くと、栞のペースが上がっていた。CBRのバンク角が深い。いつもならインカム越しに大騒ぎが聞こえるようなスピードだ。
「おいおい、大丈夫か? 栞・・・」
零士は、栞が新谷に引きずられて実力以上の走りをしているのではないか、と心配になった。しかしそうではなかった。コーナーの立上りできちんとアクセルが開けられているからバイクらしく加速しているのだ。直線でスピードが乗っているので次のコーナーの進入ではブレーキがきちんとできていないと倒し込みが安定しない。この部分がすごく上手に捌けている。つまりブレーキングからバンキングがスムーズなのだ。
「驚いたな。栞がこんなライディングをするなんて。新谷さんのリードのせいか? すごいな。メリハリが効いている」
零士は改めて新谷の懐の深さを思い知った。自分にはこんなに上手く栞をリードできない。悔しいけれど、スピードだけだはない、インストラクションの部分でも完璧に負けた、そう思った。
その日のルート、一番高い展望台で、今日の参加者全員が集まった。二十台のバイクを隙間なく並べ、その後ろに全員が整列しての記念撮影。三脚を立てたカメラで構図を見ていた山田は、自身のバイクの後ろに立つとカメラを見てねー、と叫んだ。
「皆さんホンイチの笑顔でお願いしますね。はい、撮りまーす。さん、に、いち!」
山田がリモコンのスイッチを押すと、二十人の笑顔がメモリーに残った。
「零士君、さっきすごいの見ちゃった」
「なに?」
「鹿! 新谷さんの前に一頭の鹿が飛び出して来たの。その時はまだ距離が遠かったんだけど、鹿が横断した場所に近づいたら、また二頭。今度は続けて飛び出してきたのよ」
「へえ。それじゃあ新谷さんも危なかったんじゃあ?」
「それがね、鹿は群れているのがほとんどだから、一頭飛び出して来たら後がいると思ってるから、想定内だよって」
「そうなんだ」
「道路を横断した鹿たちがこっちを見て、私、目が合っちゃった。クリっとして可愛いの」
「へえ、どこらへん? 俺、気が付かなかったよ」
「この展望台の手前、九十九折りが始まる前くらい?」
「ちょっと開けてたとこか? ああ、そう言えば栞、よそ見してたなあ。あれかあ」
「うん。でもカーブに入る前はちゃんと前見てたよ。今日はなんだかすっごくバイクで走ったぁって感じ」
「いい感じで走ってたよ。後ろから見て驚いた。栞があんなに速く走ってるなんて。あんなにバンクさせて怖くないの?」
「それが平気なの。何故かしら、自分でもびっくり」
「インストラクターがいいからなあ」
新谷が会話に割り込む。
「新谷さん、今日は俺、なんかいろいろ勉強になりました。なんて言ったらいいか・・・」
「そうか? なんのことだかよく解らんが、まあ、折角学習したんなら今後に生かすことだな」
山田が手を叩いて皆の注目を集める。
「そろそろ出ますーよ。A班準備いいですかあ? B班が先に出ますよー。準備して下さーい!」
「さあ、栞ちゃん、今度は下りだ。上りも下りもやることは同じだけど、下りはスピードが乗りやすいから気をつけてな」
「はーい」