部活ツーリング
九月最後の日曜日、朝七時。自二部のメンバーは大学の正門に集合していた。山田が参加者の確認をする。麗奈と新谷もいる。
「瀧本さん、今日は天気、どうですか? 天気予報じゃ降水確率40%でしたけど」
「そうね、たぶん降られても小雨が短時間だと思うわ。午前中だけね」
「カッパは要りそうですか」
「ナイロン系のライディングジャケットを着てるなら、要らないかな。デニムで来てる人たちは着た方が良いと思うけど。午後は晴れるから乾くと思うし、その人次第ね」
「解りました、ありがとうございます」
山田はいつも部室でするように手を叩いて皆の注目を集める。
「皆さーん! グループ分けしまーす。よく聞いて下さーい!」
ガヤガヤとしていた二十人近い人間が、一斉に山田を見た。
「A班、立石先輩が班長です。直行班になります。B班は僕が班長をします。遠回り班です。班ごとにブリーフィングしますので分かれて下さーい」
班分けで人数はほぼ半々になった。栞はA班、零士、麗奈、新谷はB班だ。Aの直行班は国道を中心に走り、数回の休憩は景観の良いビューポイントか道の駅がほとんどだ。Bの遠回り班は、県道を織り交ぜて峠道を走る。A班とB班では一日の走行距離では百キロ違うこともざらだ。ツーリングが一旦始まれば、合流するのは十一時の早めの昼食のときと十五時の集合写真のときだけだ。
山田は集まったメンバーに新谷を紹介した。
「OBの新谷さんです。新谷さんは現役のレーサーなので、決して抜こうとしないで下さい。抜いたら先輩のプライドと自信が傷つきます」
皆が一斉に笑った。
「というのは冗談ですが、いつも言っているように無理無茶は厳禁です。基本千鳥でお願いします。市街地のパスは禁止。峠に入って前走車を抜くときは必ず右から。信号とイエローラインだけは厳守して下さい」
「OBの新谷です。抜かれると傷つくのでしんがりを走ります」
「そう言って峠でごぼう抜きにするつもりでしょ?」
誰かがツッコミを入れて、場が笑いに包まれた。
「ルートに自信のない人は僕の後ろについて下さい。じゃあ、五分後に出ますので各自準備して下さい」
各々が自分のバイクに近寄る中、新谷が麗奈に声を掛けた。
「ようレイニー、久し振りだな。元気してたか?」
「元気でしたよ。就職も決まったし。新谷さんは? 相変わらずですか?」
「ああ、俺は変わらない。変わっていないよ・・・。ああ、今日の情報は山田経由じゃなくてあっちのレイニー君から貰ったんだ」
「え? 九頭龍君のこと、知ってるんですか?」
「ああ、峠でね。二回凹ましてやった」
「大人げない」
「何を言う。レーサーが峠の走り屋に負けたらそれこそ問題だろうよ」
「それはそうでしょうけど・・・」
「結構良い走りしてるよ。レーサー志望なんだってな?」
「そうみたいですね」
「レイニーは、まだ再開しないのか?」
「今はまだ・・・」
「そうか。その気になったら、連絡くれよな」
「はい」
「栞、気を付けてな。安全運転」
「解ってる。立石班だもの、飛ばさないわ」
「結局は自己判断、自己責任だからな、バイクは。じゃあ昼食で」
「零士君もね、気を付けて」
十台のマシンが一斉にエンジンに火を入れると、近所迷惑にならないようにすぐに走り始めた。立石班の十台はそれを見送る。栞が手を振る中、零士他数名が手を挙げてそれに応えた。
山田が先頭を走り、市内をリードする。後続は指示された通りポジションを交互に左右に振り分け、大人しく走った。
比較的早く一回目の休憩に入った。市街を抜けたコンビニ。
「この先の信号を左折したら、フリーランにします。最初の方は民家がありますから注意して下さい。休憩集合場所は山頂付近の駐車場です。一本道ですからね」
B班の皆はこういうシュチエーションが大好きなのだ。よっしゃあ、という声が誰からか上がった。麗奈は静かに笑っている。
そして出発。先頭の山田FZRが信号を左折し、しばらく速度を抑えて走ったが、いくつか民家の前を通り過ぎると、一気に加速した。負けじと追走する部員たち。零士は中盤にいたが、速度を抑え気味にして走った。先行車との車間がみるみる開いて行く。後ろから新谷のGSXが、やはり来た。抜かれた瞬間ギアを落として加速しようとすると、もう一台新谷を追いかけるバイクがいた。麗奈だった。新谷を追う麗奈、その後ろを零士が加速する。
三台は次々と先行車両を追い抜き、新谷は山田FZRのテールを確認した。コーナーを一つクリアする度に山田との距離が詰まる。零士は後ろから新谷の走りを観察していた。
「やっぱ、うめえや」
ブレーキングの鋭さ、マシンを一気に倒し込む豪快さ、S字の切り返しの速さ、加速のタイミング。他の部員とは一味も二味も違うことを零士は感じた。
「しかし。新谷さんが速いのは知ってたけど、まさか麗奈先輩がこんなに走る人だったなんて・・・」
新谷は今、全開ではないにしろ、かなりのペースで走っている。麗奈もそれについて行っている、ということは新谷のワインディング巡行速度に麗奈も順応しているということだ。
「そうか、麗奈先輩もレース経験者、だっけ。でもサーキットを走ったり、レース経験があるというだけで、そんなにも走りの速度領域が変わるものかな?」
零士は疑問に思った。
新谷が左コーナーで山田をパスして、その次の右コーナーでは麗奈は仕掛けず、左のコーナーを待って山田を抜いた。零士もそれに続く。
「今、なんで右で抜かなかったんだろう? 右ならインを取る形になるから、左よりよっぽど抜きやすいのに・・」
零士の前にいる麗奈との距離は5mほど。その前を走る新谷と麗奈の差は20m近い。パスをするタイミングだけでこれだけのアドバンテージを与えてしまった。
零士は焦った。このままじゃ新谷との差を詰められない。しかし麗奈を抜けない。右コーナーも左コーナーも右側からしか抜けない、なんて縛りのせいで、麗奈への攻撃パターンは限られている。いや、そもそも麗奈のコーナーワークも相当キレているのだ。
零士は何度かアタックを試みたが抜くところまでは至らない。麗奈もまた、零士の攻撃パターンを見切ったかのように絶妙にラインをブロックしている。そのためだろうか、新谷との車間は思うように詰められず、結局三台の車間距離はほぼ一定のまま、休憩場所の駐車場に辿り着いた。
「麗奈先輩、なんで右コーナーで山田さんを抜かなかったんですか?」
ヘルメットを脱いで指で髪をすく麗奈に、零士は尋ねた。
「レースじゃないんだ。右でも左でもどっちでも良いってわけじゃない」
そう言ったのは新谷だ。
「素人を抜くにはストレートが一番いいんだ。それが一番安全。左のカーブで抜くのはこっちがアウトから被せて抜く形になるから。内側にいるバイクはバンクしている最中でも、そこで抜く分には問題ない」
「でもね、右のカーブで右から抜くのは危険を伴うわ。相手のインを取る形になるから、人によっては倒し込みのタイミングが遅れたり、倒し込みができなかったりする、そうするとアウトに膨らんでコースアウトするかもね」
あっ、零士は声に出した。
「峠はね、サーキットじゃないのよ。ツーリングはレースじゃないの。気持ち良く走るのが最大の目的。レースの練習なんて、公道でするものじゃないわ。レースの練習はサーキットでするべきよ。ね、新谷さん?」
「レイニーに一票!」
新谷は小さく言った。
「でも新谷さんだって、峠を走りますよね? あの峠だって、一年以上通ったんでしょう?」
「昔はともかく、今の俺は練習のつもりでは走っていないよ」
「ええ? そうなんですか? あんな走りをしているのに・・・」
「別に流しているわけじゃない。アクセルはちゃんと開けるさ。ほどほどにな」
「でも、俺にレース、吹っ掛けましたよね?」
新谷は頭をかきながら、
「たまーにね、峠の走り屋風情のヤツを見つけると、説教したくなるんだ。ここでそんな走りをするんじゃない、一般のバイカーたちに迷惑だろう! ってね。そのために力の差をまず見せつける」
「俺、説教なんて受けていませんよ?」
「あの時、君は二本目を断った。闘争心を煽ろうとしても、いなしたじゃないか。君は無理や無茶はしないって判ったからね。知っている人間にわざわざ言う必要はないだろう?」
「新谷さん、麗奈先輩も。今だって相当速いペースじゃないですか。皆をごぼう抜きにして」
新谷と麗奈は顔を見合わせた。今のはただのクルージングよ、そう言ったのは麗奈だ。
「君が無茶しないようにブロックはしたけどね」
「俺たちは、鬼突っ込みはしていない、それは見ているよな? 俺の重量級のマシンで鬼突っ込みするのはリスクを高める以外の何ものでもない。タイヤのグリップの限界を探るようなブレーキもバンクもアクセルワークも、峠では必要ないんだ」
「限界?」
「だいたい君は、限界がどこにあるか知っているのかい?」
零士は問われて答えられずにいた。ここが限界、これがギリギリ、峠で走る時、何度も思ったことなのに言葉にできない。
「100%が解らなくては、どこが80%で何が90%なのか、判らないよな? レースではいつも限りなく100%に近いものを求められる。ブレーキやアクセルワークでね。それがタイムを縮めるんだ。でも100を超えた瞬間、転倒してレースは終わってしまう。ライダーはいつだって、九十九点何パーセントを探って走っているのさ」
自二部、十台目のバイクが駐車場に入って来た。
「でもレースでは他にも走っている連中がいて、ラインの奪い合いをする。サーキットだっていつも同じコンディションじゃない。その時そのとき、ケースバイケースで状況は変わる、その中で全神経を研ぎ澄ませて限りなく100%に近いものを探し、それをコンスタントに使い切る、レースっていうのはそういう作業さ」
麗奈が話を引き継ぐ。
「でもね、ライダー一人ひとりで感覚は異なるわ。私と新谷さんの感じる限界は違う。勿論君もね」
「了はさあ・・・」
新谷の言葉に麗奈の体がぴくっと揺れた。それを横目に新谷は続ける。
「了は、大学でマシンの挙動変化を勉強したかったんだよ。それを安定させるにはどうすればいいか、どんな仕組みで何を制御すればいいかをね。いつでもどこでもどんなときでも、マシンの挙動が安定すればライダーはもっと安全に走れるようになる、そう言ってた」
「日下部さんは、自分の走りを分析して、システムにフィードバックすることをいつも考えてたわ。学生なのに、プロみたいだった」
「より速く、より安全に走れるバイクを、楽しいライディングを、あいつは自分なりに探していたのさ」
零士には目の前の二人が、そして今ここにいない日下部了という人物が、別次元の人に思えた。自分はそんなことを考えて走ってはいなかった。ただ速く走るために、それだけだった。自分が浅はかに思えて悔しかった。と同時に、日下部のことを語る全てが過去形であることが悲しかった。
会話が途切れて、麗奈はスマホを取り出して何かを確認すると、空を見上げた。
「山田くーん!」
麗奈が大声で山田を呼んだ。山田が少し離れた場所から走って来る。
「何ですか?」
「ごめん! 朝の予想より、雨、強くなりそう。全員にレインウェア着ることを推奨するわ。立石君にも電話して」
「了解です!」
そして麗奈は二人に振り返り、
「レインウェア着た方が良いですよ」
と言った。零士はそれを聞いて不思議に思った。自分も雨男と散々言われてきた。それはイベント参加時の雨が、偶然にしてはあまりにも頻度が高いからだ。でも、麗奈のように予測なんてできない。この人は何故判るのだろう、零士はそう思った。
「この後、雨が予想されます。かなり強くなるかも知れませんので、ここからカッパを着ましょう!」
山田が全員に話し掛けた。
「次、峠を下って一旦国道へ出ます。国道は左折です。2㎞ほど走ったら信号のない脇道を右折しますから注意して下さい。次の峠は途中に停める所がありません。一気に登って一気に降りてきますからね。降り切って市道に出ると右手にコンビニがあります。そこが集合場所です。間違えないで下さいねー!」
山田は三人に向いて話し掛けた。
「新谷さん、龍本さん、九頭龍君も。先行って下さい。三人は速過ぎますから、混ざって走るとその気になっちゃう人も出てきますんで。この先の峠は道幅狭いし、僕は後の六人連れて行きます」
「了解」
三人は準備が整うと、零士、麗奈、新谷の順にスタートを切った。零士は楽しく走ることの意味を推し量っていた。バイクを意のままに操る感覚。マシンと人馬一体、いや人車一体となる感覚、俺がマシンの一部、ライダーというパーツになる感覚。違う、逆だ。マシンが俺の手足となるのだ。操作するという意識さえも消え去り、意識だけでコーナーを駆け抜けるとき、それはライダーにとって喜びでしかない。それが楽しさ。速さは楽しさを追求した結果、あるいは副産物、そういうものかも知れない。
国道を左折し、右折する脇道の入り口で零士は止まった。後ろにつく麗奈と新谷。しばらくすると、ハザードを出して後ろを見ていた麗奈がウィンカーに切り替え、前に出て右折した。零士と新谷が振り返ると遠く後方にヘッドライトの集団が見えた。山田たちだ。零士と新谷が続いて右折し、三台は徐行した。ヘッドライトの集団が右折したのを確認して麗奈たちはスピードを上げた。
一年生の時の麗奈先輩は鬼突っ込みだったって言ってたけど、さっきも、今も、ブレーキングには余裕が感じされる。麗奈先輩の、新谷さんとも違うその走りはなんと表現すれば良いのだろうか。丁寧な走り、余裕を持った走り、バイクに無理をさせない走り。・・・そうか、麗奈先輩の走り方はしなやかで優しいのだ。バイクを振り回しているような感じは微塵もない。新谷さんの走りは豪快だが荒っぽさも感じる。ギャップで暴れるバイクを強引に抑え込んだり、あるいは振り回したり、力業もあった。それが麗奈先輩にはないのだ、零士はそう思った。
三人が谷川の横を走り、川から離れて九十九折をいくつも越えて標高が上がると、前方に白いモヤが掛かっているのが見えた。雨? いや霧か。気温が急激に下がる。モヤに突っ込むと、既に路面は濡れていた。極端に悪くなった視界は、霧だけのせいではない。シールドについた水滴もまた、ライダーからは自分が雲の中に入ったような錯覚を起こさせる。先頭を走る麗奈は視界の悪くなった分、慎重にブレーキングポイントを手前にずらし、極端なリーンインでコーナーを曲がった。ハングオフではない、まるで白バイ乗りだ。最小限のバンク角で鮮やかにコーナーをクリアして行く麗奈は、新谷や零士のそれとはまるで違う。
「うわ、速ええ」
零士は呟いた。薄々感じてはいたが、麗奈先輩は雨に強いライダーだ。
こんな視界の中、ウェットの路面でそれまでとあまり変わらないスピードで麗奈はコーナーを駆け抜ける。やや車体を起こし気味にハングオフで走る零士は、路面のギャップで暴れるマシンに手を焼いた。
上り坂をいつの間にか超えていた。峠は下りになり、より一層ブレーキを慎重にせざるを得ない。
と、その時、前を走る麗奈のエンジン音が変わった。
「あれ? 前走車がいたのか。追いついたのか? 麗奈先輩が抜きに掛かっている」
麗奈の前に一台のバイクがいる。零士は瞬間的にそう思った。先行車に追走する麗奈、それを追う零士、新谷。四台はほぼ等間隔で走っているようだ。
「麗奈先輩があのスピードで走って抜けないなんて。先頭のヤツ、速いぞ」
零士はそう思った。山の中でエキゾーストノートが幾重に反響してとんでもない方から音がする。
「いけない。この音に惑わされるとカーブを見誤る」
零士は先行するバイクの赤いテールランプを凝視した。麗奈のペースが上がっている。追走する零士と新谷も麗奈に引きずられてペースが上がっている。新谷はこれ以上のペースアップはヤバイ。レイニー、無理に追うな。先行車を煽るな。そう思った、その時。
先頭を走るバイクが消えた。あ、事故った! 零士と新谷はそう思った。谷に落ちたと。しかし、麗奈が右のコーナーを抜けたその先に、また先行するバイクが現れたのだ。
「げっ! まじか・・・。どうやったらそんなに速く走れるんだ⁈ 今、消えたように見えたぞ」
新谷は驚いた。その後も麗奈の前を走り続けるバイク。四台は霧の中を疾走する。
ふいに周囲が明るく感じられた。霧の、一番濃いところを抜けたのだ。
「あ!」
右のコーナーで先行車が消えてしまった。慌ててブレーキを掛ける零士と新谷。麗奈はそのまま走って行く。二人は路肩にバイクを止め、ガードレール越しに下を覗き込んだ。
「何処だ? 何処に落ちた?」
モヤの中を、一生懸命目を凝らすが、何も見えない。零士は怒鳴った。
「おーい! 聞こえるかあ! 何処だあ!」
零士の大声は霧の中に消えて行く。
「そんな馬鹿な・・・」
ガードレールを確認して呟く新谷。
「新谷さん、警察呼ばなきゃ。転落事故ですよ」
慌てる零士に対し、新谷はゆっくりとヘルメットを取った。
「九頭龍君。見てごらん。ここガードレールだよ。君はバイクがぶつかった音、聞いたかい? ガードレールがあるんだ、バイクがぶつかった衝撃で人が飛ばされて落ちても、バイクは落ちないよ・・・。それにこの辺、傷なんてないじゃないか」
零士もヘルメットを脱ぐ。
「そんな・・。まさか本当に幽霊が走ってたってことですか? ありえない・・・」
「レイニーは行ってしまったな。彼女、前走車が落ちたんではなく、消えたってことが判ってたんだ。追おう」
二人はバイクに跨った。心臓が、とんでもない鼓動で胸を叩いている。
「九頭龍君! 冷静にな。落ち着いて走るんだ」
霧だと思っていたが、いつの間にか小雨に変わっていた。視界は先ほどよりずっとよくなった。二人はあまりペースを上げられずにいたが、コンビニの手前で麗奈と合流した。麗奈も大きくペースダウンしていたのだ。
コンビニに着くと、三人は短い軒下でヘルメットを脱いだ。麗奈の目と鼻は赤く、泣いていたようだった。
「飲み物、買って来る」
小さな声で、伏せ目勝ちに店内に入る麗奈を二人は見送った。
「なんか、とんでもないものを見ちまったな」
「俺ら三人の、白昼夢ってこと、ないですよね?」
「馬鹿言え。ライディングの最中に三人揃ってそんなもん見るかよ。・・・ただ、あれが了かどうかは、俺には判らん」
「速かったっすよね」
「ああ、あの視界じゃあれがいっぱいだろうな。路面どうこうの問題じゃない、視界の問題だ。レイニーも前を走る幽霊にけん引されたのか、それとも後ろから煽られた幽霊がスピードを上げたのか・・・。どちらにせよ、あれ以上はヤバイ」
小さな缶コーヒーを三つ持って、麗奈が出て来た。
「新谷さん。私の言ってたこと、信じる気になりました? あれは日下部さんよ」
「なにを。顔を見たわけでも声を聞いたわけでもないだろうに。なにを根拠にそんな」
「ライン取り。ブレーキングもアクセルも、峠の走り方はみんな日下部さんが教えてくれたのよ。私が見間違えるわけないわ」
ぶるっと、零士が大きく体を震わせた。
「そんなにビビるなよ。憑りつかれたわけでもあるまいし」
「いや、雨が、襟元から侵入してシャツを濡らしたんで」
「タイミング良すぎだわ」
コーヒーを一口、口に含む。香りが鼻に抜ける。これは現実だ。零士はそう思った。今しがた見たものは、現実、ではないのか?
四台のバイクがコンビニに着いた。
「おつかれーっす」
零士が努めて明るい声を出す。
「あれ? 山田君はどうした?」
新谷が尋ねた。
「一台、下りのカーブでコケちゃって。面倒見てます」
「もう一台は?」
「一緒です。僕らに先行けって、言われたんで」
「怪我は?」
「いえ。あの霧でしょ? 皆おっかなびっくり走ってたんで、スピードの出ていない、ただのスリップダウンですよ。怪我なんてしてないです。すぐに来ますよ」
「そうか」
「あ、来た」
山田がバイクを停め、短い軒下に全員が横並びで雨宿りを始めた。
「ちょっとぉ! 龍本先輩、聞いてくださいよお。山田さんひどいですよ! コケたバイク、起こす前に記念写真が先だって、写真撮るまで転がっとけって。写真撮ってから助けるのなんて非道でしょう? 人の道から外れてますよ、人の皮を被った鬼ですよ」
「あ、それ? 自二部の伝統だから」
麗奈はあっさりと言う。
「でも、大した転倒じゃないってときだけね。大事故でそれやったら、それは問題だから」
麗奈はヘルメットを脱いだ山田に話し掛ける。
「いい写真取れた?」
「バッチリです」
皆ニヤニヤ笑っている。
「あ!」
零士が叫んで周りの部員が一斉に振り向いた。
「あ、いや。何でもないです。雨水が襟から入っただけです」
零士は新谷の横でそっと話し掛けた。
「新谷さん、ドラレコ、付いてないんですか?」
「ない。君は?」
「俺もないっす。麗奈先輩は?」
「付いてないと思うけどな」
「これからは付けてもらいましょうよ。科学の目で、真相を明らかにしなければ」
「・・・もしそれに幽霊が映ってたら、それこそ祟られないか?」
「・・ヤバイっすかね?」
映っていればその正体が怖いし、映っていなければ目の前のバイクやライダーは存在するのにカメラに映らない物体だということになる。どっちも気持ちの良いものではない。
「すみません、誰かガムテ持ってませんか?」
転倒したライダーが皆に声を掛ける。どうしたの? カッパに穴開けちゃって。そんな声が聞こえてくる。コンビニで売ってるよと誰かが言い、彼はそのまま店舗に入って行った。
彼がガムテープで応急処置を済ませるのを待って、山田が声を張り上げる。
「この先は民家が増えますので追い越し禁止でお願いします。次は食事休憩の飯処です」
その声に全員がレインウェアを着直した。ハイカットの襟元をキッチリと合わせて、ヘルメットを被り、グローブを着ける。バイクに跨ってエンジンを掛ける。誰もが同様に準備をし、山田がスタートした。
雨はそのまま降り続くように零士には感じられたが、空が明るくなるとすぐに止んでしまった。十台が隊列を組み、前走車の水しぶきが掛からないようなポジショニングで走る。停まる気配がないのでレインウェアはこのまま、昼食まで走るつもりなのだろう。
「また麗奈先輩の予想が当たった」
零士は不思議に思い、ヘルメットの中で呟いた。
飯処の駐車場にはA班が既に到着していた。まだ五分と待ってはいないよ、そう立石が山田に話した。
「こっちは転倒者一名です。そっちはどうです?」
「なんだ、転んだ奴がいたのか? そんなにひどい雨だったのか?」
「いえ、雨より霧がひどくて目測を誤ったみたいです。ブレーキングのスリップダウン。ビビって速度が出ていなかったのがラッキーでした」
「そうか、こっちは全員グリーンだよ。龍本さん、もう雨は大丈夫なんですよね?」
「ええ、これから西に走る分にはもう降られないわ」
情報交換と雑談をしながら部員が店の中に入って行く。
「どうしたの? なんか変な顔してるよ」
栞が零士に話し掛けた。
「そおか? いつもと同じ顔だと思うけど。俺の顔、一つしかないし」
「もう!」
零士は自分の顔がまだ強張っているのか、そして栞には幽霊ライダーの話はできないな、と思った。いや栞だけには、ではない、ここにいる他の誰にも言えない。気味悪がられるか、信じてもらえないか、そのどちらかだろう。もしかしたら麗奈先輩と口裏を合わせて騙そうとしている、そう勘ぐられてしまうのではないか、とも思えた。新谷を見ると普通に他の部員と話をしているが、幽霊ライダーのことを話している素振りはない。そうだ、やはりそんなことは口にしない方が良い。零士は幽霊ライダーについては黙っていることにした。