禁断の果実
零士が大学の構内を歩いていると、ばったり麗奈と会った。遠目でも美人だと判る。零士は不思議だった。入学してから四ヶ月近く経ち、ほぼ毎日構内を歩いているのに、どうして今までこんな美人が大学にいたことに気が付かなかったのだろう。
「こんにちは、麗奈先輩」
「感心ね、ちゃんと授業に出るなんて」
「学生の本分は学び、ですから。そうだ、俺、BOMに行ってきました」
「どうだった?」
「エンジンのオーバーホールは必要みたいで、でも今回はチャンバーの清掃とキャブのチューニングをお願いしました」
「そう。店長は昔NSRでレースしてた人よ。安心して任せられるわ。いつだったか忘れたけど、NSRのワンメークレースで、HRCに勝ったって自慢してたわよ。店にその時のカップがあるわ。その話を振ったら、小一時間は自慢話を聞くことになるけどね」
そう言って悪戯っぽく笑った。
「麗奈先輩も、NSRに乗ってたんですか? NSRじゃなくて他の2stマシンとか? 俺、2stのエンジンの掛け方なんて、初めて教わりましたよ」
「ああ、あれね。あれは門前小僧のなんとやら、よ。見様見真似で覚えたわ。私はNSRも2stのマシンも乗ったことはないわ」
夏の陽射しの中、すぐ近くの木でセミがうるさい。
「昔、自二部でNSRに乗っていた人がいたんですか?」
「ごめんね。今ゼミの先生に頼まれて、お使いの途中なの。ゆっくり話している時間はないのよ」
「すみません。じゃああと二つだけ。俺、レース、やっぱりやってみたいです。BOMでいろいろ話を聞いて、今度サーキット走ることにしました。それと、自二部は辞めません。あそこなら工具も使わせてもらえるし、ケミカルも格安で使わせて貰えますから」
「そう。・・・そうか、そうね。じゃあ頑張ってお金貯めないとね」
「はい、八月はバイトに明け暮れる予定です」
二人は別れて歩き始めた。
八月、自二部としての活動ツーリングはなかったが、部員同士、適当に走っているという情報は頻繁に流れた。
バイクの楽しみ方は人それぞれだ。バイクを相棒と呼ぶ人もいるし、下駄だという人もいる。日常的に通学に使う者、キャンプ道具を満載にして走る者、ラーメンやコーヒーを飲食するためだけに走る者、ナイトランを楽しむ者、港巡りや寺巡り、ダム巡り、城巡りなど特定の対象を目的地として走る者もいる。そして、スピードに魅せられた者も。
零士はバイトの都合で、日曜日だけNSRで走る。朝の四時から七時まで。GSXに負けた峠を走る。BOMでのファインチューニングのおかげで格別に扱いやすくなったNSRは、しかしやはりパワーダウンしているという。
「谷間は消しといたから、6,500rpmからはストレスなく吹けると思うよ。・・ただ、エンジンを開けてないからヘッドのカーボンは落とせていないし、シリンダーの傷も判らない。一、二割くらいのパワーロスはあるかもね。走行距離から、たぶん一度はオーバーホールをしているんじゃないかな。零士君のお父さん? に聞けたら聞いてみてください、どんな整備をしたか」
桂木はそう言っていた。
零士は毎週、新谷を探して峠へ出掛けた。そして三週目、台風の影響で前線が伸び、土曜日の朝から降り続いた雨は、ピークは越えたものの止むことなく降り続いていた。
「雨か・・・。あいつ、雨でも出てるって言ってたよな」
ツナギの上にレインウェアを着て、峠へ向かった。雨のせいで路面状態がよく見えない。後輪にいきなりトルクが掛かると、それだけで一気に滑ってしまいそうな感覚があった。雨男を自認しているが、雨の中での走りが得意なわけではない。何回か下と上の駐車場を往復したが、バイクも車もすれ違わなかった。零士は展望駐車場で休憩をした。今日は雨だから誰もいない。本当に来るのか?既に二回空振りしている零士は疑心暗鬼になっていた。
零士はふと、麗奈は雨の走りを得意としているのではないか、と思った。ひと月前に出会ったとき、雨の中を結構なスピードで走っていたような気がする。実際に見たわけではないので、なんとなく、カンでだけれども。
そこへ大型バイクの野太い排気音が聞こえ、GSXがやって来た。新谷だった。
「こんな日に物好きなヤツもいるもんだと思ったら、君か」
「待ってましたよ。リターンマッチは受けてくれるんですよね?」
「もちろんだ。で、先行か後追いか?」
「一本目は、また後追いからお願いします」
「解った」
ゆっくりとGSXが駐車場の出入り口に止まり、その後ろにNSRが付いた。新谷が右手を上げ、零士が右手で応え、そしてGSXが猛然と飛び出して行った。後を追うNSR、GSXの上げる水しぶきでさらに零士の視界は悪化した。
零士は、真後ろには付けない、そう判断すると五十センチほどラインをずらした。新谷は前に走ったときよりもブレーキの開始ポイントは数メートル手前で、流石に慎重になっているようだ。零士は最初のコーナーでいきなり仕掛けた。新谷よりも遅く強いブレーキングでGSXのインに飛び込んだ。よしこれなら理想的なラインで加速できる、フルバンクに近い状態から道幅いっぱいを使って加速するその横を、GSXはクロスしたラインでスルスルと前に出て行く。
「そんな馬鹿な」
このコーナーのベストラインはこっちだろう? 何故GSXの脱出速度の方が速いんだ? 零士は信じられない思いでGSXのテールランプを見た。二つ目、三つ目とコーナーを曲がり、S字をこなす、その後ろ姿はドライコンディションより明らかにキレがない。そうだ、新谷もウェットな路面に対して慎重にならざるを得ないのだ。でも、なら何故ファーストコーナーで抜けなかったのか。零士には理解に苦しんだ。その先はタイトなヘヤピンが二つ続く、そこで勝負を掛けないと勝ち目はない、そう判断した零士は一つ目の右コーナーを観察し、その次の左コーナーで勝負を掛けることを選んだ。この峠を知り尽くしている新谷もおそらくそれを読んでいるだろう。車重の差、パワーの差を考えれば、軽量なNSRが仕掛けるには絶好のポイントだ。問題は右と左のどちらで来ると読んでいるか、だ。
新谷は車重を気にして早めのブレーキングで、GSXをインにつける。ここでGSXと同じ動きをしたら新谷のことだ、本命は左コーナーとすぐに読むだろう。そう考えた零士は突っ込みでアウトへ振り、そこから倒し込んだ。コーナーの中ほどでラインが交差する。接触しそうだ。GSXのコーナリングスピードが遅過ぎる!
「ヤバッ」
ラインを塞がれ仕方なく外にNSRを持って行った。そこで零士は目を疑った。遅過ぎるコーナリングスピードのGSXはライダーの体をインに残したまま車体を垂直に立て、猛然と加速したのだ。零士のNSRはまだバンクしたまま、アクセルが開けられない。
「・・そうか、そういうことか」
バンク中でもタイヤが路面をグリップしてくれるドライコンディションなら開けられるアクセルも、ウェットでは開けられない。新谷はコーナリングスピードを犠牲にして、バンク角を最小限最短時間にして、クリッピングポイントで車体を起こすことをやってのけたのだ。カラクリは解った。しかし俺にもできるだろうかと、零士は迷った。こんな操作、今までやったことがない。いやこれができなければGSXには勝てない。零士は覚悟を決めた。一か八かの運任せではない、確実にスピードを殺して車体をいち早く引き起こす。ここで勝負を掛ける。
左のヘヤピン、前コーナーと同じように早めにブレーキを掛けるGSXにNSRは一気に差を詰めた。インにつけるGSX、アウトから被せるNSR、しかし零士はコーナリングスピードをGSX並みに落としバンク角を残していた。GSXの外側でクリッピングポイントに付けると、自分の体をハングオフのまま、外脚に荷重を掛け、ハンドルをほんの少しインに切った。途端にNSRは起き上がり、零士はマシンにぶら下がるようにしてアクセルを開けた。エンジンはダイレクトに反応し加速する。零士がコーナーの横Gを感じなくなった時には、NSRは完全に前に出ていた。よし、勝った。零士はそう思った。残りのコーナーは自分が好きなようにラインを取れる。零士は特にブロックラインを選ぶことなく、自分のできる最大限のスピードで走り切り、一本目の前半を折り返した。
駐車場でUターンし、入り口に付ける。零士が右手を上げ、新谷が右手を上げると、後半戦がスタートした。先行すれば好きなラインが取れる、さっきと同じように最速ラインで走れば問題ない、零士はそう考えていた。しかし、新谷はアウトからインからプレッシャーを掛ける。新谷のGSX-R750は749ccフォーストロークの四気筒エンジンだ。高回転からのエンブレはNSRより効く。200kg近い車重があるから慣性力がついてしまい、下りでは車体のコントロールが難しいものの、折り返しの上りでは明らかに突っ込みは鋭くなった。そして77psの高出力はどんなラインからでもその車体をいとも簡単に加速させていく。
零士は右から左からプレシャーを掛けられ、結局ブロックを強いられていた。
「くそう、パワーに差があり過ぎて弄ばれてる。自由なラインで攻められない」
新谷には余裕があった。どこでパスするのか、そのシナリオを考えていた。
「しっかり逃げろよ。前半の高速コーナーで抜かなかったのは、ずっとプレッシャーを掛け続けるためだからな。さっきからチラチラ見えてるぜ、君の欠点が」
零士は慣れないブロックラインで後方を気にし過ぎている。結果としてコーナリングスピードが低いので早くアクセルを開けることに集中できているが、もしドライの路面ならあっさりと抜かれているはずだ。
新谷はS字を抜けた後の、左、右、左の三つのコーナーに焦点を合わせた。
「たぶん、彼はこの左もインベタ気味に走るだろう。その方が次の右には合わせやすいからな。ところがここで俺がアウトから並べば次の右では俺がインを取る。抜かせまいとアウトから被せてアクセルを開ければ最終コーナーはインにつきづらくなる。膨らんだところでインを刺せば終わりだ。よしんばその手前で彼がアクセルを開け切れなければ、最終コーナーは俺がブロックして終わる。どちらにせよ一本目の上りは俺の勝ちだ」
そして。新谷が描いたシナリオ通りにGSXはNSRを抜き、一本目が終わった。
「一本目は引き分けだな。二本目、すぐ出るかい?」
少しシールドを上げた新谷が怒鳴る。
「いえ、止めときます。降参です」
零士は余裕を持って抜かれたことにショックを受けていた。仮に自分が先行して下りを走り切っても、最後の上りでまたやられてしまう、そう思わざるを得ない。新谷は変幻自在のコーナーワークで底が見えない。このウェットの路面で今以上のスピードを求めるのは命を削ることになり兼ねない。いくつのも思いが零士にストップを掛けた。
「でもさ、君、いいセンいってるよ。バイクの軽さを生かした突っ込みもいいし、ウェットの走り方は俺の真似か? クレバーに戦略も立てられるみたいだ。あとは、すぐにギブアップしない闘争心があればな」
「俺、峠では闘争心を出さないことに決めたんで。闘争心むき出しでガチの走りをするのはサーキットだけです」
「・・・サーキット、走るのかい? 君はレースに出ているのかい?」
「まだ走ったことないけれど、レーサー志望です」
「そっか。じゃあ峠はほどほどにしとかないとな。レーサーが公道で事故っちゃシャレにならない」
新谷は空を見上げて、止まねえなあ、と呟いた。
「君はきっともっと速くなる。サーキットを走って、レースの経験を積めばスピードの次元が変わる。そうなった頃にもう一度走りたいね。・・・君、名前は?」
「九頭龍零士。レイニーです」
「? レイニーだって? 麗奈と同じかよ」
「麗奈先輩を知ってるんですか?」
「はあ? 麗奈先輩って・・・。君、鳳凰大の自二部か?」
「そうですけど、・・・まさかウチのOBですか? あ、新谷って名前、そうか、日下部さんの事故の話で聞いた名前だ・・・」
「驚いたな。了の事故のこと、知ってるんだ」
他に誰もいない展望台の駐車場、二人を雨が包んだ。
街のファミレス。レインウェアをバイクに掛けて、タオルを首に掛けて二人はコーヒーを飲んでいる。朝食のセットメニューを食べ終えて、朝一のファミレスはまだ客は多くない。
「鳳凰自二部は、もうレース活動はご法度のはずだけど?」
「聞きました。それで麗奈先輩に大森町のBOMって店、紹介してもらって。お金貯めて、そこで整備やチューニングをしてもらってレースすることにしたんです。自二部での活動ではありません。自二部はツーリングだけです」
「そっか」
「あの、新谷さんは日下部さんの事故の時も一緒に走っていたんですよね?」
「ああ」
「あの、そもそも。なんで日下部さんは自分のモトクロスのレースを休んでまで新谷さんを手伝うことにしたんですか? 新谷さんと日下部さん、仲が良いって聞きましたけど、二つ違いですよね?」
「了にモトクロス教えたの、俺なんだよ」
「え?」
「俺の親父も、了の親父も、趣味でモトクロスをやってたんだ。小学校に上がったとき、俺の親父が子供用のちっこいヤツ買ってくれてさ、それで俺もコースを走り始めた。俺が小学五年生、だったかな、了が了の親父とコースにやって来て。ユースケ君、そのミニバイク、了にも乗せてくれないかな、って。親父たちは友達だったし、俺はもう体がそのサイズのバイクじゃ合わなくてサイズアップしたかったし、いいよって簡単に言ったら、ついでにバイクの乗り方も教えてやれって親父に言われてさ。それからだよ、了との付き合いは」
「そうだったんですか」
「ん。俺、ジュニアでは全然勝てなくて、中学でモトクロスは辞めたんだ。でも了はメキメキ上達して、ジュニアでは全日本チャンプになった。二年連続な。それからノービス、IBでも勝ち続けて、高校三年でIAに昇格したんだ」
二人はコーヒーのおかわりをウェイトレスに頼んだ。
「了を大学で見掛けたときは吃驚したよ。雑誌は読んでたし、てっきりプロに転向するもんだと思ってた」
「文武両道を目指していたんでしょ?」
「そりゃ表向きの理由」
「裏があるんですか?」
「裏ってほどのものじゃないけどな。八歳かそこいらからずーっと休日はモトクロスだけをしてたんだぜ? 普通じゃないってことくらい、自覚はあるさ。大学でカジュアルな格好をして女の子といちゃつきたい、それが本音さ」
「はあ」
「でもまあ、やっぱりバイクが好きだから、コッチの世界に居場所を求めちまう。自二部でもモトクロスを選んで、つっても部活より元々のチームでの活動があるから、自二部としてレースしてたわけじゃない。・・・でもな、高校のときに無理したんだろ、腰と膝を怪我して、医者からは最低一年はモトクロスはするな、完治を待てって言われてたんだと」
「それじゃあ?」
「一年迷って、いよいよ無理が効かなくなって。二年生になったとき、モトクロスは一年休むって宣言したんだよ。痛いとは一言も言わなかったけどな」
「それで新谷さんのサポートを?」
「そういうこと。ロードレースだってやれば体には負担が掛かる。ツーリングや普通の生活には支障がなくてもね。だから裏方」
「そうだったんですか」
「・・・まあ、実はレイニー狙いだったって、俺は思ったけどね」
「え? マジっすか?」
「ああ、でも付き合ったの三ヶ月だけな。あいつ死んじまったから」
「・・・もしかして、日下部さん、NSR乗ってました?」
「なんだ、そんなことまで知ってるのかよ」
「いえ、それは教えてもらえませんでした。でも麗奈先輩、2stっていうかNSRのことやたら詳しんで」
「さっき君が言ってたBOMってバイク屋、了がNSRの整備を頼んでいた店だよ」
「・・・そうだったんですか」
二人はコーヒーを飲み干した。
「あの、日下部さんの事故の話、ちょっと疑問があるんですが」
新谷は不思議そうな顔をした。
「小さい頃からモトクロスしてたんですよね? 動体視力とか反射神経とか、人並み以上だと思うんですけど。雨で転倒したのも集団で走っていて巻き込まれたって聞きました。でも立ち上がったって。転倒の怪我とかショックとか、なかったのでしょう? それなのに何故、後続の転倒車両を避けられなかったのか、不思議なんです」
「俺も不思議に思ったよ。了なら躱せたんじゃないかってな。本当のことは判らない。でも、もしかしたら転倒のときに腰か膝の古傷をやっちまった可能性はあるよな。立つのがやっとのことで、それ以上は動けなかったのかも知れない」
新谷は空のコーヒーカップを弄んでいる。
「レイニーは自分を攻めた。私が雨女だから事故にあったんだって、無茶苦茶な話しやがって」
新谷は乱暴にカップを置き、店内に大きな音が響いた。ウェイトレスが二人を見る。
「それでも。了が目の前で死んでも、レイニーも俺もバイクを降りようとはしなかった。一旦スピードに魅入られた人間は、もうその世界から逃れられないのかも知れない。スピードという名の、禁断の果実」
「なら、俺もそうかも知れませんね。普通にツーリングするだけじゃ物足りない。やっぱりスピードを求めてしまう。バイク屋の店長には叱られましたけどね」
「だからサーキットに行くのさ。俺も、君もね」
「新谷さんはまだレース続けているんですね?」
「まあな」
「麗奈先輩はもうレースはしていないんですか? していないんですよね?」
「レイニーは・・・、レイニーはまだ踏ん切りがついていないのさ。そして了との思い出も封印できない。彼女にとっては了とのことはまだ終わっていないんだ」
「どういうことですか?」
「レース活動はしていないけど、でもいつかまた、レースを始めるさ。俺はそう思っている。たぶん彼女も、今頃何処かを走っているよ」
新谷は窓越しに遠くを眺めた。しかしその目は景色ではなくもっと別のものを見ている。零士は新谷が何か隠しているような気がした
「部活にはもうほとんど顔を出していませんよ」
「了がまだ生きていた頃のレイニーはとんだ跳ねっかえり娘でさ、もの凄い負けず嫌いで、丁度君のような突っ込みでインを刺すのが得意だった。でもそれじゃ危な過ぎるからって、俺や了が伴走してツーリングに行ったもんだ。もちろん、了と二人でもな。普通、女子大生とデートと言えば、ショッピングとか映画とか遊園地とか、そういうもんだろ? でもあいつらバイクばっかり。レイニーも了もきっと心臓は単気筒ツーバルブで、血液の代わりにオイルが流れてるんだ、皆そう言ってからかったものさ」
「話が見えないんですけど」
新谷は大きなため息をつくとウェイトレスを呼び、コーヒーをおかわりした。零士も付き合ってもう一杯頼んだ。
「レイニーは了との思い出を風化させないために走ってるのさ。了ならこう走る、ここでブレーキして、ここでカットイン、ここでアクセルオン! ってな。思い出して、真似して、了のラインをトレースしようとして・・・。そして、幻、いや幽霊を探して走っている」
「・・・幽霊、ですか?」
「ああ。今までに二度、そいつに会ったって言ってた。あれは了の魂が成仏できずに走り回っているんだ、ってそう言い張ってるよ」
「そんな馬鹿な」
「俺もそう思うよ。そんな馬鹿な、ってな。仮に幽霊だとしてもさ、バイクに乗った幽霊なんておかしいだろ? 幽霊ってのは、脚がないんだ。シフトチェンジできないじゃないか」
「え? そこですか?」
新谷はニヤッと笑って。
「今のは冗談だ。どうもこの話は辛気臭くてな。冗談を入れたくなっちまう」
ウェイトレスが丁寧にコーヒーをカップに注ぐ。
「レイニーが言うには、雨だか霧だかよくわかない、中途半端な天気の日、あるいは視界がメチャクチャ悪い濃霧の日を狙ってそいつは現れるらしいんだ。自分の目の前に突然すーっと現れて、どうしても抜けない。視界が悪いから鬼突っ込みはできないけれど、そいつの走りも尋常じゃないってな。追いかけて抜けなくて、走っているうちにそいつがまた突然ふっと消えるんだと」
「そんな、すーっと現れて、ふっと消えるんじゃ、それじゃまるで幽霊だ」
「だからそう言っているだろう?」
「それが日下部さんだと?」
「そう彼女は言い張る。あのラインは私と同じだってな。それはつまり了のラインでもある。レイニーしか見ていない幻の幽霊ライダー。まさかそんな狂言を言うとも思えないし、真相は解らんよ。でも、レイニーは幽霊、いや了に会いたくて走っているのさ」
「・・・なんか、悲しいっすね」
「だから早く立ち直ってもらいたいのさ。死んだ人間のことを忘れろとは言わない。いやむしろ忘れちゃいけない。でもそれは引きずるんじゃなくて、区切りを付けて胸の中に大事に仕舞っておくものさ」
ゆっくり時間つぶしをして店を出ても、まだ雨は続いていた。
「ごちそうさまでした」
「いいさ、このくらい。君は後輩だからなあ。あ、そうだ。次レイニーが参加するツーリングが判ったら連絡をくれよ。俺も久し振りに会いたい」
「次は九月の定期試験明けって言ってましたけど。スケジュールはこれからです。判ったら連絡します」
「頼むよ」
零士はアパートに帰ると丁寧にバイクにシートを掛け、部屋でレインウェアを脱いだ。きっちりと首や手首をガードしていたはずだが、雨は侵入していて袖と、首からへその近くまで濡れていた。
ツナギを脱いでハンガーに掛けると、ざっくりとタオルで拭き、自分はシャワーを浴びて横になった。これから少し寝て、夕方から栞とデートをする予定だ。
「バイクばっかりのデートなんてあり得ねえ・・・」
零士は呟いたが、実際自分も栞と付き合うようになって、バイク抜きで出掛けたのはほんの数回しかないことに気が付いた。ちぇっ、俺のはツインエンジンだよ、そう思ったが、心臓をエンジンに例えるからダメなんだって、と自分に言い聞かせた。そしてエアコンの効いた部屋で、あっさりと眠りに落ちた。
雨は結局、午前中いっぱい降り続いたが午後には止んだ。栞と零士は夕方、郊外の商業施設で待ち合わせ、食事の後に映画を見た。この前の映画は零士の好みでスパイアクション物だったから、今回は栞のリクエストで医療サスペンスと恋愛が混じったヒューマンドラマになった。零士は栞に気づかれないように何度もあくびを噛み殺した。
二日続けて降った雨のせいで気温は下がり、八月にしては過ごしやすい夕べだった。二人はバイクに乗って海岸線を流し、よく判らないプラントの横で工場夜景を見た。無機質な人工の建物、イルミネーションとは異質の照明、いくつのもパイプが建屋を取り囲み、水蒸気が立ち上る。
栞はCBR400RRのメインキーを回し、ライトを点けた。
「零士君、ちょっと離れて」
スマホを構えて零士をフレームの外に押しやると、CBRをフレームの右下に置き、背景の工場夜景をぼかして写真を撮った。
「なあ栞。普通女子大生とデートって言ったら、ショッピングや映画や遊園地が鉄板だろ?」
「そうね・・。あとレストランと。スキューバとかスノボとか、一緒のアクティビティもありよね。でも好きな人とだから、一緒にいられるだけで満足よ」
「そっか」
「まさか私以外の別の誰かとデートするんじゃないでしょうね?」
「しないしない! もしもそうなら、栞に聞いたりしないよ」
「本当?」
「神に誓って! 俺がデートする相手は、栞とNSRだけさ」
「・・・ねえ零士君、本当にバイクレースするの?」
「ああ、そのつもりさ。言ったろ? 八月は資金稼ぎでバイト三昧だって。そりゃデートの時間少なくなって悪いとは思ってるけどさ」
「違うの。バイト、キツイんでしょ? 零士君、この三週間で痩せたもの。そんなにしてまでレースしたいのかなあって。ねえ、普通にツーリングとかで走るだけじゃ駄目なの?」
「栞はさあ、俺がレースで一位とか大会で優勝とかしたら、嬉しくない?」
「そりゃあ嬉しいかも知れないけど。でも一秒を争うレースで転倒なんかしたら取り返しのつかないことになるかも知れないし。レースクィーン? さんにモテるのもやだ」
「そんな簡単に勝てる世界じゃないよ・・・」
「え? なに?」
「いや、なんでもない。ツーリングで仲間と走るの、嫌いじゃないよ。でも、大名行列で車の後ろでノロノロ走るのはごめんだな。俺はバイクらしく、ファストで走り抜けたい」
零士はCBRのシートを叩くとメインキーをオフにした。
「栞のヨンダボだって、それを望んでいるんじゃないのかなあ」
栞は複雑な顔をした。
「ごめん、いいんだ。バイクの楽しみ方は千差万別、人それぞれ。俺の価値観を押し付けるつもりじゃないんだ。ごめん」
「私は、他の人と競争なんてやだ。この子に跨って走れるだけで十分」
「解ったって。ごめん」
「きっと私は零士君を止められない、そう思ってるの。何かに夢中になっている男の子って素敵だしね。でもね、私を残して逝っちゃダメよ? それだけは約束して」
零士は一瞬、はっとした。逝く? 行く? 知っているのか? 日下部さんと麗奈先輩のこと。
「ね、そろそろ帰ろっか」
「そうだな、途中まで送って行くよ」
「途中? ちゃんと私の家までエスコートしてよ」
「はいはいお姫様、承知致しました」
二人はエンジンを掛ける。零士の乾いたエキゾーストノートが海風に流される。
「あ、栞。軸線は左にずらしてくれ。俺センターライン側を走るから」
「解った」
「チャンバー掃除してもらったけど、オイル上がりしているのかな、飛ばしがすげーんだよ。真後ろから右で付けると、後続車がオイルまみれになりそうだ」
「零士君も新しいバイクにしたら、そんな旧車じゃなくて」
「あ、NSRにケチ付けんなよ。いいバイクなんだぜ」
「はいはい」
「はいは一回!」
「さっき自分も二回言ったー」
そう言って栞は笑い、つられて零士も笑った。