表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
レイニーレイニー  作者: 田代夏樹
2/12

街道レーサー

「大森町にBOMってバイク屋があるわ。一度そこに相談に行ってごらんなさい。NSRに関してはめちゃくちゃ詳しい人が店長をしてるわ。私に紹介されたって言えばいい。それから。もうここではレースはできない。あなたがレースをしたいなら部活ではなく、一人で行うか、あるいは自分で仲間を募るか、どこか既存のチームに入れてもらうか」

「零士君、レースするの?」

いつの間にか栞がすぐ近くにいた。零士は曖昧な顔をしている。

「全てを一人でやるのも、もちろんできないことはないけれど大変よ。学生といえども授業はあるしバイトもしているのでしょう? イニシャルコストは結構な額になるし、ランニングコストも掛かるわ。時間もお金もいくらあっても足りない、そんな世界よ。それでものめり込む人は大勢いるけどね」

「麗奈先輩だって、やっていたんでしょ? 一年生のときは」

「そうよ、だから大変さはよく知ってる。・・・レースのこともBOMの店長に相談してごらんなさい。アドバイスくらいはもらえるわ」

 麗奈はワンピースの裾を気にしながら、じゃあ私は上がるわね、そう言って帰っていった。お疲れ様です、部員が口々に叫ぶ。麗奈は振り返って大きな声で。

「九月の定期試験明け、ツーリング企画教えてね! 参加するから」

「了解でーす」

山田が叫んだ。そして小さな声で

「龍本さん来るなら、雨だな」

と呟いた。

「龍本先輩、雨女なんですか?」

「そ。しかも強烈な雨女。龍本さんが参加するツーリングは夕立や通り雨も含めると、ほぼ百パーセント雨」

「えー? だって部活ツーリングは雨天中止でしょ?」

「いや、それがね。龍本さん、わかるんだよ。何処でどのくらいの雨が何時間くらい降るのか。だから龍本さんが、当日のルート修正をしてくれるわけ。逆に龍本さんが出る日は一日中雨ってことはないの。龍本さんがダメ出しした日だけが雨天中止」

「誰が呼んだかレイニークィーン。もっともその呼び名、彼女嫌ってるけどね」

「彼女をレイニーって呼べるのは四年生以上だよ」

「俺もあだ名、レイニーなんすけど」

「九頭龍君、この部で君をそのあだ名で呼ばないのは龍本さんがいるからだよ。皆知ってて紛らわしいからね。龍本さんが卒業したら呼んであげるよ」

「ケミカル使った人はちゃんと使用料払ってね~。CRCは五十円、パークリも五十円、チェーンクリーナは二百円、チェーンルブは三百円~」

山田は集金を始めた。


 土曜日の午後、早い時間に零士は大森町のバイク屋BOMに来た。あまり大きな店ではない。店頭に中古車両が六台、店の中には修理車両が三台、メカニックはたぶん二人だ。

「こんにちは。あのう、店長さん居ますか?」

「はい私が店長の桂木ですが」

五十代? 六十代? の痩せた男性が作業の手を止めた。エアコンが効いているのだが、青い作業ツナギは汗染みがすごい。

「あのう、龍本さんの紹介で来たんですけど」

「ああ、NSRの人ね。麗奈ちゃんから聞いてるよ。電話があった。でもごめん。今こっちの手が離せないから、ちょっと待ってて」

カウンターには常連と思しき中年が、煙草を片手にバイク雑誌を見ていたが、顔を上げて言った。

「ここに座んなよ。店長、作業中に話し掛けてもほとんど返事しないから」

言葉に促されて零士はカウンターのストールに座る。オイルの匂いと煙草の匂い。女の子ならこの空間の匂いには顔をしかめるのではないか、彼にはそう思えた。

 店の中には所狭しと置かれたパーツの山。壁には写真とポスター。棚にはカップがいくつか並んでいた。写真は色あせたものが多いが、そのほとんどは数台のバイクが並んでコーナリングしている写真だ。レースの時のものだろうか。カップもくすんでいたが、優勝の二文字が見える。80年代、90年代のものだ。

 桂木はアナログメータの計器をファンネルに取り付け、整備していた車両のエンジンを掛けた。大型排気量の四気筒エンジン。レーシングで軽やかに吹け上がるその音は、たぶんバイク乗りなら誰もが心地よく感じるはずだ。桂木は満足そうにニヤリと笑うと、エンジンを切った。手早く計器を外すと、ファンネルとフィルターインテークに交換し、エアーフィルターを組み上げた。

 熟練の作業というものは無駄がない。見ていて飽きが来ないのはどんな職人の動きでも同じだ。零士はその作業をじっと見つめていた。

 桂木がタンクを組み付け、シートを嵌め込むと、奥の手洗い場に一旦引っ込み、ボロボロのタオルで手を拭きながら出て来た。

「お待たせしました。店長の桂木です」

零士は自分が麗奈の後輩であること、昨日NSRの音を聞いた麗奈がここを紹介してくれたことを話した。

「自分ではそんなに悪いとは思っていなかったんですけど」

「とりあえず、音を聞かせてください」

二人は店の外へ出た。零士がエンジンを掛ける。桂木は昨日麗奈がやったように、エンジンの回転数を上げ、排気色を見ながらレーシングさせた。

「88だね。エンジンをバラしたことは?」

「僕はないです。以前は父が乗っていたので、その頃は知りませんが」

「チャンバー清掃は?」

「していません」

桂木はレーシングしながら少し考えた。

「エンジンのオーバーホールはやった方がいいね、クランクも心配だ。あとキャブの同調を取り直して、エキパイから先のカーボン除去か、いっそ買い替えか」

「どのくらい掛かりますか? その・・・時間じゃなくて、金額的に・・・」

桂木は眼鏡のずれを直すと、ギョロっとした目で零士を見た。

「君はこのバイクをどうしたいの? ただ走ればいいってものでもないでしょう? 現状維持なのか、復調させるのか、パワーを出したいのか」

「もちろん、きちんとチューニングして欲しいですが、先立つものがなくて・・・」

「ま、学生さんならそうかもね。とりあえずエンジンのオーバーホールは置いといて、キャブとエキパイはやってみたらどうかな? 今よりはぐっと良くなると思うよ」

「・・・あのう、いくつか質問があるのですが」

「なんですか?」

桂木はエンジンを切った。

「その、エンジンを掛けたときのアクセルの操作、何か意味があるんですか? 昨日、麗奈先輩もやっていましたけど」

「ああ、あれはね。ツーサイクルエンジンの掛け方。特にチョークを使って掛けたときはやった方がいいよ。最初は濃い目のガソリンが入るからね。最初にプラグをきちんと焼く所作」

「麗奈先輩もNSRに乗ってたんですか? やたら詳しいみたいですが」

「麗奈ちゃんはNSRには乗っていないよ。これに乗っていたのは・・・、いや止めとこう。それは麗奈ちゃんに聞いてみて」

「もう一つ、僕はロードレースがしたいんです。でも大学にレーシングチームがなくなっちゃって。麗奈先輩には、一人でやるか、仲間を集めるか、どこかのチームに入れば、って言われたんですけど」

「・・・それで?」

「何もかも初めてで、セッティングのこともエントリーのことも何もわからないのです。一体何から手を付けたらいいのか・・・」

「レースはお金が掛かるよ? それは個人でやってもチームでやっても同じことで。参加するだけじゃなくて、勝ちに行くのならなおさらね」

 桂木は店の中へ零士を入れた。外は暑い。

「レースといっても様々だしね。市販車ベースかコンペモデルか、スプリントか耐久か、スポット参戦か年間エントリーか、金の掛からないものから新卒サラリーマンの年収くらい吹っ飛ぶものまでね。君・・・」

「零士です。九頭龍零士」

「零士君はサーキットの走行経験は?」

「ありません。地元の峠を走って練習してました」

「地元じゃ敵なしって感じ? でもそれはもう止めた方がいいね。公道をいくら攻めてもレースの練習にはならないから」

 カンターに座った、中年男性が話に加わる。いつの間にか常連らしき客が増えている。

「君はレーサー志望かい? 速くなりたいのかい? だったらまず金を貯めることだ。いいマシンに乗って、サーッキットに通い、タイヤを何十本も何百本も潰して走ることだ。それが速くなる、一番手っ取り早くて確実な方法さ。中古のコンペマシン買っても、勝てないぜ」

「そんなものですか?」

「そんなものさ。峠出身のレーサーなんて、二、三十年も前の話さ。いまどき流行らない。どっかの頭のイカれた奴らが事故を起こす度に、峠は二輪車が通行止めになる。ツーリングライダーの悲劇、それが現状さ。速くなりたいのなら、速くなるために金を使うことだ」

「小林さんはもう二十年以上レースをしているんだ。嘘は言わないよ」

「もし本気でレースをするなら、マシンはこの店で面倒を見てくれる。チームに入らなくても、整備、修理、チューニングはやってくれる。一人でやりたいのなら、ここで面倒を見てもらって、自分はサスのセッティングとタイヤ交換ができればいい。国内のサーキットならギアのデータは揃ってるしな。今はオンボードカメラとECUからのアウトプットでギアの使い方と回転数がわかるから、ベースデータから君の乗り方にアレンジすればいいのさ」

「あの。もしそうやってプライベーターでレースするなら、どのくらいの費用が必要ですか?」

「・・・トランポは軽トラじゃなくてバンがいいな。軽バンの中古なら格安で手に入る。それでも250ccのレース車両とトランポなんかで、初期投資は二百は要るだろう」

「二百・・・」

「それだけじゃないぜ。サーキットに通えば、一回で一万以上は飛ぶ。ガスもオイルもタイヤも消耗品だからな。レースに出れば予備のタイヤとレインタイヤ、できればホイール込みで常時何セットか用意しておきたいな。まあ金がなきゃタイヤは都度交換だけどさ。レースウィークはエントリーも含めれば十万単位で消える。年間エントリーすれば三百は要るだろう」

「スポンサーなんて結果があって初めて声を掛けてくれるもんだ。無名の新人に金を出す酔狂はいない。つまりは自腹ってことさ」

「・・・とまあ、脅すわけじゃないけど、本当にお金の掛かることなんだよね」

「それで借金こさえて首括った奴もいるしね」

「ほら小林さん、脅さない」

「君、菅生じゃレンタルバイクのレースもあるんだよ。あまりお金の掛からない、敷居の低いレースっていうのもあるんだ。まあ、入門用のレースだけどね」

「レーサーではない、市販車カテゴのワンメークレースだってあるさ」

「ロードレースってのはホント金食いだけど、オフのエンデューロとか、安い系のレースもあるのにな」

皆、この手の話題は楽しそうに加わった。

「零士君。どんなに敷居が低くても、レースの世界に足を踏み入れて、沼にハマる人だって沢山います。もちろん私らはソッチの世界の人間だから、君がレースをするのはむしろ嬉しいことです。どうでしょう? 一度NSRで鈴鹿を走ってきたら。保安部品外すくらいなら大した手間じゃないし。講習を受ければMFJのライセンスも取れるから。練習走行なら、アクセル全開にできますよ」

「ツナギやブーツはあるんでしょ?」

「ええ、それはあります」

「差し当たりのトランポは、レンタカー屋で軽トラでも借りればいいしね。大学で保安部品外してレーシングタイヤを履き替えて。そのくらいは自分でできるだろうから」

「あの、まだ車の免許持ってなくて・・・」

「いいよ。前日までにここに来てたら、俺のトランポに相乗りさせてやる」

小林が言った。

「月二回は行ってるから。こっちの予定を合わせてくれたらいい」

零士は丁寧に礼を言い、ちょっといろいろ考えさせて下さい、そう付け加えた。

「NSRの方は、どうします?」

桂木が声を掛けた。

「作業時間はどのくらい掛かりますか?」

「んー・・・、一日頂戴。必要なら代車のスクーターは出すから」

「じゃあ来週、入れに来ます」

零士はそう言って店を出た。


 アパートに帰ると、零士はインターネットでサーキット走行やロードレースを検索しながら考えた。

「今のバイトで月四万チョイ。二百貯める頃には大学生活は終わってるわ。・・・いっそ、NSRを売っちまうか? 今なら百近くにはなりそうだ。でも次の購入資金を貯めるまでサーキットはおろか、公道も走れねえ・・・。参ったな、こりゃ」

「排気量を下げれば、当たり前だけど価格も下がる、か。100ccか125ccくらいから始めるか、それとも市販車か。ほんと参ったなあ。車の免許取るだけでも三十は要るのに・・・」

「親父に借金を申し込むか? レース資金って言ったら鬼怒りだろうなあ。普免取るからって言ったら金出してくれるかなあ・・・」

ぶつぶつと呟きながら。

「よし。とにかくダメ元で親父に普免代の三十は頼んでみよう。バイト掛け持ちでシャカリキになって貯めれば二年後には百五十だ。その時市販車にするか、もう一年貯めてコンペマシンにするか、考えよう。それまではNRSで走ってテクを磨けばいい」

 零士は大学ノートに、全日本ロードレースに出る! と大きな文字で目標を書き、その下に、ひと月七万円貯金、サーキット練習走行は月一回、と書いた。そのノートをカッターで切り取ると、勉強机の前の壁に貼った。目標を明確にするだけでやる気が湧いて来る。

 そうこうしているとスマホのアラームが鳴った。バイトの時間だ。駅前の居酒屋は賄い付きですごく助かっているものの、このバイトだけじゃ月七万の貯金はできない。NSRの維持費、消耗品、サーキットの練習費用、メンテやオーバーホール代も考えれば月十万は稼ぎたい。二つ三つの掛け持ちか、時給の高いバイトにするか、長期休みの時にドカンと稼ぐか・・・。零士は大きなため息をつくと、バイトに出掛けた。


 日曜日の早朝、零士は久し振りに革ツナギを着ると、滋賀の山中にある峠を攻めていた。夜明け前にアパートを出て、今はすっかり日の昇った午前五時。峠には誰もいない。

 峠の高速コーナーは車線の幅が狭いから思い切って左右に振り回せない。ラインを慎重に選んでカットインのポイントを少しずつずらしながら、アウトでの膨らみを抑えつつアクセルを開けた。乾いたエキゾーストノートが響き、気分も高揚する。何回か往復していると、おそらくこれがベストではないかと思えるラインを見つけた。

 問題は連続したヘヤピンの低速コーナーだった。ローでは速度が足りず、セカンドでは回転数が落ちてしまう。麗奈が指摘した7,500rpmを常時越えていないと走らないのは解っているが、セカンドではどうしても7,000rpmを切ってしまう。

「ギア比がイジレないならスプロケで調整するしかないか・・・。しかしスプロケを換えると各ギアでの速度域が全て変わるな。トップスピードも変わるだろうし・・・」

 六時頃になると、ちらほら街道レーサーやギャラリーが集まってきた。展望駐車場にもいくつかグループができている。零士はそろそろ帰ろうかと思っていたが。

「君! ここじゃあんまり見ない顔だね?」

GSX-R750のライダーが零士に声を掛けた。革ツナギの上に、袖を落としたGジャンを着ている。

「二回目、かな。この前来たのは四月だったし」

「走り屋、なのかな? 良かったら、一緒に走るかい?」

「この峠は結構走り込んでいるんですか?」

「そうでもないけど。ここは一年くらいかな。月二か三で走ってる。雪の時を除いてね」

「雨でも走りに来るんですか?」

「レースだって台風じゃなきゃ雨でもやるだろう? 俺にとってはそれと同じさ。それより、やる? やらない?」

「やる」

男はにっこりと笑うと、GSXのエンジンを掛けた。4in1のマフラーから野太い排気音が聞こえる。

「ここをスタートして下の駐車場で一旦停止。そこから再スタートでここに戻ってくる、下り上りのペアで一本。前後を入れ替えてもう一本」

零士は頷くと、NSRのエンジンを掛けた。

「直線区間は長くないから、排気量ハンデはなしだ」

「どっちが前を走るんですか?」

「好きな方を選んでくれ」

「じゃあ最初は後追いで」

零士は現時点での自分の走りと、一年通ったライダーがどのように攻めるのか違いを見てみたかった。

「前のヤツが出てから一分以上経過してる。すぐに出るぞ!」

「オーケー!」

二台のバイクが駐車場の出口に並んだ。男は右手を上げた。その右手をアクセルグリップに戻すや否や回転数を上げた。零士が同じように回転数を上げた瞬間、男は飛び出して行った。NSRも続く。

 フロントを持ち上げながら加速するGSX、それを追走するNSR。一つ目は中速の右コーナー。NSRの三速が更け切ったと同時にブレーキの開始、速度を三十キロ程落としてコーナーに突っ込む。GSXのリアタイヤにNSRのフロントが触れそうなくらい近づいた。NSRはラインをもう少し右に入れて接触を避け、そのまま刺そうとするがGSXは出口で猛然と加速し、リードを作った。突っ込みはNSRが軽さを武器に勝り、コーナーの脱出速度はパワーで勝るGSXが速かった。

「あのラインじゃあ、そうなるよな」

零士は冷静に分析した。突っ込みでインを刺さないと出口でのライン取りが不自由だ。

 二つ目、三つ目とコーナーを曲がり、S字をこなすとその次はタイトなヘアピンだ。右のヘアピンはしかも下りの勾配がキツイ。零士は早めにカットインを始めたGSXの、車体二つ奥からカットインを始めた。コーナーの中盤、ラインが交差する。零士は貰ったと思った。しかしNSRのエンジンは反応が鈍かった。アクセルを開けても追従しない緩慢な時間がコンマ何秒かあって、その間にGSXが加速して結局抜けなかった。

 次の左下りのヘヤピンではGSXにラインを塞がれてしまった。学習能力の高いライダーだ。零士の目論見は既にバレている。ワンパターンの攻め方では抜けそうもない。高速コーナーでも差を詰められず、そのまま二台はコーナーを駆け抜けていった。男が上半身を起こしてブレーキ、GSXを駐車場に入れたとき、入れ替わりで出てくるバイクとすれ違った。

 男は駐車場でUターンすると出口にGSXを止め、グローブのかぶらをめくって時計を見る。零士はNSRを後ろに付ける。

「くそう、下りで勝てなきゃ活路がないぜ、どうする?」

零士が呟き、攻め方を考えたが、どうにも抜き方がイメージできない。

 男が右手を上げた。スタートだ。上り勾配をものともせず加速するGSX、重いナナハンも上り道なら減速が効率的に利かせられる。もちろんブレーキの開始はNSRが遅いけれど、コーナーへの進入速度は結果としてあまり変わらない。NSRの鋭い突っ込みがあっても、排気量で劣るNSRが上りで抜くのは無理か。零士はしかしその考えを否定した。

 勾配のあるコーナーの脱出加速、GSXはパワーに物を言わせ、グイグイ昇って行く。負けたくない! 零士はコーナーの入口で揺さぶりを掛ける。アウトからインから、チャンスを伺う。ギリギリのブレーキでインに飛び込むが、GSXは余裕でアウトから被せて来る。GSXの、完全に前に出た位置までNSRを持って来ないとベストラインで加速ができない。結果としてNSRはGSXの前には出れず、問題の九十九折りに近づいた。セカンドを使う限り、下りのそれよりも加速不良は顕著に表れるであろうことは容易に想像できた。勝負を掛けるならローを使うしかしかない。零士はハードブレーキとシフトダウンでローを選んだ。11,500rpm。もうエンジンはギリギリだ。インをキープしようとするGSXに対し、アウトからアタックし、ラインを交差させた。フルバンクの状態からマシンを起こし、アクセルを捻る。12,500rpm、もう少し引っ張りたいが、これ以上のオーバーレブは避けたい。アクセルをそのままにしてシフトペダルに足を差し込んだ。ほんの一瞬アクセルを緩め、シフトアップ。すかさずアクセルを煽る。次の瞬間、リアタイヤはグリップを失ってラインが外に流れた。タイヤがグリップを取り戻し、横に流れた車体を前へ押し出すことができるようになったとき、既にGSXには大きく水を開けられていた。

 展望台の駐車場にバイクを入れると、一本目は俺の勝ちだな、GSXのライダーは笑ってそう言った。

 二本目。先行するNSRをGSXはぴったりとマークし、下りを終えた。零士がどんなに引き離そうとしても背後に男の気配を感じた。

「くそう! 今度こそ千切ってやる!」

 NSRはライダーの意思を受け取り、フロントを持ち上げながら駐車場を飛び出して行く。零士は充血させた目でコーナーを睨み、今までにない速度で突っ込む、が。バックミラーに一瞬GSXが飛び込んだと思った瞬間、コーナーの出口で並ばれ、そのままあっさりを抜かれてしまった。ブロックする間もなかった。心が折れそうになるのを零士は必死で堪えた。

「抜かれたら抜き返せばいいんだ。腐るな、俺」

零士は自分に言い聞かせた。しかしGSXは零士のラインをブロックしながら走り、結局零士はパスポイントを見つけられず、GSXとNSRはそのまま駐車場に入った。先に止まったのは零士の方だ。ギアを抜き、しかしアイドリングのままのNSRにGSXは大きくUターンして隣に来た。

「リターンマッチはいつでも受けるよ。ここに来たら探してくれ」

ヘルメットのシールドを上げ、男が言った。零士は悔しさでやり切れない気持ちを悟られないように静かに返した。

「あの! 名前は?」

「新谷! しーんーたーにー!」

GSXの男は怒鳴ると駐車場を出て行った。零士は新谷という名前を最近聞いたような気がして、しかし思い出せなかった。


 火曜日に授業が終わると、零士はBOMにNSRを持ち込んだ。

「あの、7,500rpmくらいでトルクの谷間っていうか、息つきがあるの、直るんですか?」

「直すよ、それは大丈夫」

「あと。日曜日、峠で負けちゃって。ヘアピンでローだと回転が上がり過ぎでセコだと回転が落ちちゃって加速できないし。どうしたらいいっすかね?」

「峠でレースはダメだって言わなかったっけ? しょうがないねえ、君も。トルクの谷間は消すからある程度は改善するけれど、パワーバンドが広がるわけじゃないから。峠レベルでいいのなら、ドライブのスプロケかドリブンスプロケを換えて低速に振る。NSRはパワーがあるからセカンドの8,000rpmで回れるようにすればいいんじゃない?」

「でも、それをするとロングストレートでスピード出ないんじゃ?」

「88だからね。まず電線イジってパワー出して、それから減速比を変えて、リミッター外して。街中とサーキットの使い分けはドライブスプロケの交換がセオリーかな」

「88ってそんな簡単にパワー出るんですか?」

「60ps。ホンダもあの頃は対ヤマハにムキなってたから・・・」

「60ps? そえだけあればあいつに勝てる。いや、無敵じゃん!」

喜ぶ零士を見て、桂木は一つため息をつくとこう言った。

「零士君。これだけは覚えていた方がいい。どんなにバイクが高性能でも、操るライダー実力以上の走りはできないよ。あの頃、88最強最速伝説って言われてね、皆こぞって改造したんだ。パワーが出る、イコールスピードが出る。でもそのスピードをコントロールできずにスピードに殺された若者が何人も出た。88はね、エンジンだけじゃないフレーム剛性もRS250Rから引き継いだマシンだ。そのガッチガッチのフレームは乗り手を選ぶとまで言われたものさ。だからホンダさんだってMC21じゃあフレーム剛性を下げてリアタイヤのサイズも下げたんだ」

「でも! バイクは速くてなんぼの乗り物でしょう? 軽いは正義、パワーは正義、スピードは正義じゃないんですか?」

「それを主張して何人、何十人、何百人の若者が死に、免許制度が変えられ、規制が変わり、峠では二輪車通行止め、なんて悲劇が起きたんだよ。しかも現在進行中なんだ」

桂木は煙草に火を付けた。深く吸って、ゆっくりと吐き出したあと。

「零士君。私らはもちろんスピードは否定しない。でもそれを公道で求めるのはおかしいって話さ。自分の恋人や子供を背中に乗せて、街中ではシグナルGP、高速では最高速チャレンジ、そんなこと毎回繰り返すのかい?違うだろう? ゆっくり走るツーリングも否定してはいけない。メットで風を切る、全身で風を感じる、マシンの鼓動を感じながら走る、それが好きなライダーだって、公道には沢山いるんだよ?」

「街道レーサーには街道レーサーの矜持があります。絶対にツーリングの連中を巻き込んだりはしません」

「矜持ときたもんだ」

桂木は苦笑した。

「本当にそう言い切れるのかい? いや、勿論君はそのつもりかも知れないけれど、絶対なんて言葉、簡単に使っちゃいけないよ。誰も事故を起こしたくて走っているわけじゃないんだから。・・・それでも、勝負になったら負けるのは嫌だ、勝ちたい、そう思って一か八かの突っ込みをして、皆事故るのさ」

零士は、負けたくない、勝ちたいという闘争心で無茶をし、一線を越えそうになったことを思い出した。それでも、自分は冷静だったはずだ。

「峠で鬼ごっこをするのをどうしても止められないのなら、もっと低い次元で負けを認める余裕がないとね・・・。もっともっと、と言い出したら切りがないよ」

桂木は煙草を一本吸い終わると、すぐにもう一本火を付けた。

「君がこのマシンでサーキット走行をするのなら、そういうセッティングにはして上げられる。でもね、そのままそれを公道に持ち込むのはやっぱりどうかなって思う。スプロケを変えて最高速度を落としても、パワーはそのままだ。心にブレーキが掛けられないようなら、今の状態で復調させるだけにしといた方がいい。NSRはノーマルでも十分すぎるほど速いバイクだからね」

桂木はじっと零士を見る。

「今回は、エキパイ、チャンバーのカーボン清掃と、キャブの清掃チューニングでお願いします」

「わかりました。明後日の、二時には仕上げときます。それ以降ならいつ取りに来てもらっても大丈夫」

「それから。コイツでサーキット走りたいので、エンジンのオーバーホールと、フルパワーキットの見積、二通下さい。公道では自重しますから」

桂木のぎょろっとした眼が、眼鏡越しに零士を見た。

「・・・解った。君がそう言うならね。あと、ブレーキも強化した方が良いから、その見積も作っておくよ」

「小林さんとも連絡取りたいんですが・・・」

「来たら伝えておくよ。君の電話番号は教えてもいいのかな?」

「構いません、お願いします」

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ