レイニー
「何で七月の第二週なんだろ? まだ梅雨明けしてないよな、その頃」
「ひと月以上先の天気は正確には予想できないわよ。・・・でも麗奈先輩の思うところがあるんでしょ?」
大学の部室で零士と栞が写真整理をしながら話している。
「まあいいや、そっちは麗奈先輩任せってことで。こっちは梅雨に入る前にもう一本走っておきたいね」
「零士君、今週はサーキットでしょう? 来週か再来週、行けるの?」
「第三週は試験があるから、来週かな。それならまだ梅雨入り前でしょ」
「去年初めて麗奈先輩に連れて行ってもらった雲海の里、覚えてるでしょう?」
「勿論」
「あの近くにキャンプして、朝焼の雲海、なんてどう?」
「あそこは西側に開けた谷だぜ? 朝焼けで映えるの?」
「あの近くで東に開けた谷はないのかしら? 探してよ」
「夕焼けの雲海と朝焼けの雲海を一泊二日で見るつもりかぁ、欲張りだなあ」
「私は欲張りな女ですぅ!」
二人は笑った。
土曜日はゆっくりと出掛けた。途中のアウトドア専門店で零士はコッフェルと簡易コンロを、栞は焚火台とランタンを買った。テーブルは低いタイプのものを、ローチェアは色違いのものをそれぞれ選んだ。
「お揃いだね」
「カップルですから」
お互いのバイクに荷物を括り付け直し、二人は進路を峠に取った。
栞が名付けた雲海の里にはキャンプ場がない。ひと山越えるのが一番近いキャンプ場だが、管理しているのは村の役場だ。遅い時間のチェックインはできないから、食料を買ってから先にチェックインを済ませ、テントを張ってから雲海の里へ戻って来て、峠の展望台の先にある小スペースにバイクを停めた。午後五時。昨年の秋の寒さとは違い、今は初夏だ。気温も湿度も上がってはいるが、逆に日中の温度差がないと雲海は発生し難い。栞は勿論、零士もそのことは解っていた。
「どうですか? 気象予報士さん、雲海は見れそうですか?」
「ちょっと難しいかな。夕焼け雲海には条件が悪いですから」
「やっぱり、麗奈先輩って凄かったんだな。マジ、ピンポイントで予測して的中させてたから」
「瀧本の龍は、水の神様。雨の神様。麗奈先輩は雨女って言うんじゃなくて、やっぱ持ってたんじゃないのかな。でも零士君も龍でしょ?」
「俺のはただの雨男の称号」
二人はその瞬間を待った。が、しかし雲海は発生しなかった。
里は田園の小さな集落だった。稲が生長し、水田の隅々まで青々と茂り、風に揺れると緑の波が繰り返し寄せて来るようだ。
「栞、これはこれで良い風景じゃないか」
栞は既にカメラを構えてシャッター切っている。
「雲海が発生しないのなら、このアングルじゃないわね。零士君、ローアングルに目線を変えよう」
栞が呟いてカメラをバッグに仕舞うと、零士はひとつ頷いてヘルメットを手に取った。零士が先行して峠を下る。去年は夜の闇の中をヘッドライトの照明と前走車のテールランプだけが頼りだったが、今は日の入り前で明るい。下りであることを踏まえ、栞との車間距離を意識しながら軽快に走り抜けた。タイトな峠道も栞もこんなコンディションであれば危なげなく走ることが出来る。
零士が撮影のポイントを探しながら走っていると、栞からインカムが入った。
「稲と水平じゃなくて、もう少し高い所が良いわ、少しだけ見下ろす感じの」
「方向は? 西向き? 東向き?」
夕陽を入れるなら西向きだが、稲はシルエットになってしまう。
「東向きが欲しい」
零士は下って来た峠の、Y字になる左の道を選んだ。そして絶妙なアングルの場所を見つけた。
「零士君、サイコー」
インカムを切った栞は、ヘルメットを脱いで急いでカメラを構えた。緑の海、そう呼べるような水田の稲穂は、夕陽の角度によって色を変えていった。徐々に赤く染まる稲穂。ずっと見ていると、色の変化が、ある一瞬を境に急激に色を失ってゆく。胸が切なくなる瞬間だ。零士はまたもや涙が溢れそうになったのを、栞に知られないように指で拭った。
すっかり日の暮れたキャンプ場で、二人は食事の用意を始めた。とは言っても調理するものは何もない。コンロで湯を沸かし、カップスープに注ぐだけだ。今日の夕食もスーパーでの惣菜弁当だ。おかずは弁当箱に入っているだけでは寂しいと、他に5品追加したから、メニュー的には相当豪華な多種品目のおかずになった。
食事を終えて二人は焚火をしようと思ったが、ここは薪を売っていない。零士と栞はスマホのライトを頼りに山に入り、なるべく湿っていない枝を拾って来た。だが初心者キャンパーの二人では結局火を付けることが出来ず、途方に暮れた。栞は疲れてローチェアーに腰を下ろし、のけぞった瞬間。
「あ!」
声を出した栞に零士は驚いた。毒虫に刺されたのかと思ったのだ。
「すっごい星・・・」
栞の声は途中から零士には聞こえなかった。零士もまた夜空を見上げて絶句していた。漆黒のはずの宇宙空間に、一体幾つもの天体があるのだろう。星々の隣接している太陽からの放射線の反射光か、或いは星そのものが発行体なのか、数えようもない光が、目に映っていた。
「・・・・栞、これ、写真に撮れるのか?」
「わかんないよ・・・。とにかくスマホじゃ駄目だと思う。カメラを固定して、アングル決めて、絞り開放でシャッタースピードを落として・・・あーん。どうしよう」
朝三時に、零士のスマホのアラームが鳴った。零士は静かに目を開けると体を捻り、スマホを栞の頭に近づけ、起こした。
「朝日見るんだろう? 見逃すぞ? 起きろよ、栞」
ううーん、という栞を残してテントの外に出ると、全ての物が夜露で濡れていた。これは期待できると思った零士は、ニヤリと笑ってタオルでバイクの夜露を拭った。近隣のキャンパーには申し訳ないがこの時間帯でしか見れない景色があるのだ、と心の中で言い訳をして、零士はキャンプ場の入り口に当たる村道までNSRを押し出した。テントに戻ると栞がライディングウェアでそこにいた。
「おはよ」
「行ける?」
「勿論」
短い会話のやり取りで、お互いの意思疎通が出来た。零士はCBRを後ろから押して村道まで歩いた。月が照らす音のない空間で、栞と零士の二人だけの吐息が漏れた。CBRがNSRの横に着いて、栞はCBRに跨り、静かにセルボタンを押した。4stインジェクションのヨンダボは静かに目を覚ます。零士はNSRのチョークを引いてキックを二発。甲高い排気音が山里に木霊する。NSRには悪いが、今ここでウオーミングはできない。零士はチョークを引いたままバイクをスタートさせた。こもった音のままNSRは峠を下り、数百メートル離れた所で零士はチョークを戻しつつアクセルを開けた。ぐずる子どもような反応は、レーシングさせる度に鋭敏になり、白煙を上げていたチャンバーからは青白い燃焼ガスが出始めた。インカムは繋がっているけれど、二人は無言でアクセルを開けた。
零士たちが狙っていた峠とその谷は、二人が立っている場所まで立ち込めていた。濃い夜霧がうっすらと明るくなり、朝もやの中で徐々に色が取り戻されていく。夜と朝が入れ替わる瞬間だ。不思議な空間だったが、しかし彼らが期待した風景にはならなかった。
「・・・残念だったね」
そっと零士が栞に声を掛けた。栞は素の表情のまま目を伏せた。
「仕方ないわ。天気はそういうものだから。いくらデータを積み重ねて予測しても、絶対はない。解っているの」
「ベースに戻ろう。俺、朝ごはん作るよ。一緒に食べよう」
二人がキャンプ場へ戻っても、まだ周囲のキャンパーは起きてはいなかった。二人は村道でバイクを止め、テントまで押して歩いた。なるべく音を立てないようにして、零士は湯を沸かした。二人分の水はコッフェルの中ですぐ沸き、零士は具の入ったカップスープとサンドイッチを栞に差し出した。
「これ食べたら少し仮眠しよう」
「こんな濃霧になるなんて、天気って不思議。さすが雨男さんね」
「ちぇ」
二人がキャンプ場を出たのはそろそろ午前九時を回ろうか、という時間だった。まだ霧は濃く残っていた。
「栞、思い切ってもっと標高の高い所まで上がってみよう」
二人は荷物を括り付けたバイクで村道から県道に出て、山道を駆け上がった。零士は視界の悪さを気にしてペースを落とし気味に走った。交差する県道の、行先表示板さえ目前にならないとその存在に気が付かない。視界は二十メートルあるかないかだ。
ひとしきり走って、零士は驚いた声を上げた。
「わっ! あぶねえ。舗装が切れている!」
その直後、路面工事を示す看板が現れ、山側の片車線が封鎖されていた。
「きゃっ!」
栞の小さな叫び声が零士のインカムに届く。零士は慎重に右車線に移り、左カーブを抜けていった。上りの坂道、零士は低めのギアを選んでいたが、NSRではパワーがあり過ぎてリアを数回滑らせてしまった。零士の視界からガードレールが消えた。工事のために外されたのだろう、橙色のコーンとコーンの間にかろうじて黄色い工事用のロープが見えた。
「栞、トラクション抜くと失速するぞ。アクセルワークを丁寧に」
栞は無言でひたすらNSRのテールランプを追いかけていた。NSRが左の車線に戻るが、そこが左カーブの延長なのか、車線変更なのか、栞は判らずについて行った。右カーブ、目前に山肌が見えるとNSRのテールランプが光っては揺れて右へ消えていく。左右のカーブをクリアするたびに標高は上がっているはずなのに、一向に霧は薄くならない。
いきなりアスファルト舗装が戻って、展望台の看板が見えた。零士はアクセルを抜いて減速、栞にインカムで展望台に入ることを告げた。
「わあ、何にも見えない」
「まるで雲の中だな」
二人はヘルメットを脱いで話した。レインスーツは水滴がびっしりだ。栞はスマホをバイクから外して零士に向けた。アンテナは立っていない。電波の受信圏外でナビや電話の役割を果たしていないから、今はただのカメラだ。栞は動画モードで録画ボタンを押した。
「零士君、雲の中にいる感想は?」
「不思議な浮遊感があります。東西南北がさっぱりわかりません」
その時、山に排気音が木霊した。峠を下って来るようだ。高回転を維持したレーシングが、バイクを連想させた。音は見るみる近づいて来る。零士は振り向いて霧の中を、目を凝らす。栞も連れてそちらを向いた。
「あ!」
零士は驚いた。霧の中で幾つものヘッドライトが横並びに見えたのだ。それが重なり、二つになり、一つになると、霧の中からデュアルヘッドライトのバイクが飛び出してきた。この視界でとんでもない速さだ。バンクした車体はあっという間に霧の中へ消えて行った。
「零士君。今の、麗奈先輩?」
零士には栞の声が頭に入らなかった。たった今見たものを反すうしていた。複数のヘッドライトが二つになって一つになった。何なんだ、今の。反射、消えた? 蜃気楼みたいに? 零士の頭の中で考えが渦のように回った。温度差、空気の層、光、二つ目のヘッドライト。
「零士君ってば! 今の麗奈先輩じゃなかった?」
「え⁈」
バイクの消えた方向を二人で凝視する。白い霧の中を、時々光り、消える。
「やだ、幽霊みたい・・・」
急に排気音が止んだ。谷から一瞬だけ、光が差した気がした。
「・・・落ち・・た?」
「栞、行こう!」
二人はバイクに跨った。落ち着け、零士は呟いて、しかしインカムの電源を入れるのも忘れて走った。ただ、バックミラーに栞のヘッドライドがあることだけは確認しながら慎重に走った。下りの坂道は勝手にバイクの速度を上げてしまう。低いギアで回転数を上げたエンブレで、カーブの度にリアブレーキとアクセルを併用してトラクションを保持した。
下りの右カーブの入り口、そこにあるはずのコーンとロープがない。零士はゆっくりとバイクを停め、ヘルメットを脱いだ。栞がすぐ後ろに続いた。砂利の路面は大きく削れている。谷をのぞき込むとほぼ垂直の崖に、コーンがロープでぶら下がっている。栞も事態が飲み込めたようだ。零士は必死の形相で谷を睨んだ。
「おおーい! 聞こえるかぁ!」
その時零士の気持ちが届いたのか、風が谷から舞い上がり、下の方が見えた。ライダーが木の根元に引っ掛かっている。二人には見覚えのある、ピンクとイエローのレインウェア。
「いやあぁぁぁ!」
栞が悲鳴を上げてその場にへたり込んだ。とてもそこからライダーの元へ下りれそうにはない。零士が震える手でスマホを取り出すと、液晶画面には圏外の文字。
「栞、助けを呼んでくる」
零士は膝に力を入れてバイクに向かって歩き始め、栞のCBRにぶつかった。そのはずみで下り坂に停めたCBRのサイドスタンドが外れ、倒れた。ガチャンっという大きな音は、かえって零士に冷静さを呼び起こした。回り込んでヨンダボを引き起こし、頭の向きを変えて停め直した。下り坂で前から停めちゃ駄目でしょ、ギアも入れずに。そう呟いた。
零士がNSRで走り出し、随分長い時間が経った気がする。泣きすする栞のところに、ようやく零士が帰って来た。
「すぐに救急車とレスキューが来てくれる。麗奈先輩に反応は?」
「わかんないよ。私、怖くて見れない・・・」
栞の顔は涙でくしゃくしゃになっていた。
「麗奈せんぱーい! もう少し頑張ってくださーい! 今助けを呼びましたからーっ!」
やがて遠くからサイレンが聞こえて来た。
病室の麗奈は、思ったより元気そうだった。事故から二週間経って、試験前に安心しておきたい、そう言って栞と零士は見舞いにやって来た。右鎖骨の骨折と肩の脱臼、左大腿骨の骨折。崖から滑落してそれだけの怪我で済んだのは、正に奇跡としか言いようがない。
「スリップダウンで右をやって、そのまま谷に落ちて木にぶつかって左をやったのね。頭と内臓が無事で良かったわ」
「良かったわ、じゃないでしょ。警察から電話があったとき、私は心臓が止まるかと思ったんだから」
姉妹と言っても通るような若々しい女性、麗奈の母親がそう言って二人に椅子を勧め、飲み物を買いに病室を出た。
「あなたたちが警察に通報してくれたんですってね。ありがとう。ああは言ったけど、あの天候で発見が遅れたらヤバかったかも知れないわ。母には言えないけど」
缶コーヒーを二つ、母親が手に持って病室に戻って来たが、二人は丁寧に、でも遠慮をした。
「じゃあ、僕らはこれで。安心したんで試験が終わったら、また来ます。・・・あ、そうだ。新谷さんにも伝えておきましたから、そのうち見舞いに来ると思いますよ」
「君ったら、何でそんな余計なことを!」
「ち、違いますよ。一緒に走る約束をしたのに、連絡が来ないって新谷さんに叱られて。その時にぽろっと、ね。決して報告した訳じゃないです」
二人は、お大事になさってください、そう言って病室を後にした。
大学の定期試験が終わって、零士と栞は麗奈の見舞いに来た。病室に母親はおらず、代わりに新谷がいた。彼も今来たばかりだと言う。
「しっかし、レイニーが事故るとはねぇ。霧の中っていうことは、アレか、やっぱり原因は幽霊ライダーか」
ベッドから上半身を起こした麗奈は、はっきりとした口調で言った。
「いつになくハッキリと見えたわ。やっぱりあれは日下部さんよ」
栞はきょとんとしている。
「了がお前を誘った、っていうのか? そんなこと、あるもんか」
「日下部さんが真っ直ぐ行くもんだから、ブレーキポイントを見誤ったのよ。あの世でソロツーリングはやっぱい寂しいのかしら?」
「幽霊ライダーって? 二人とも一体何の話を・・・」
口を開いた栞を、零士が制した。
「幽霊なんていないっすよ。いや、いたとしてももう麗奈先輩の前に出ることはないです」
「何だよ、断言するじゃないか。いつぞやは君も見ただろう? 君もビビッてたじゃないか」
「ええ。でももう、正体が解りましたから」
「正体が解った? 解ったらもう出ないって言うの? どういうこと?」
真剣な表情で麗奈が聞き返した。零士には怒っているようにも聞こえる。ノーメイクの、むしろその方がキツく見える麗奈に、零士はここで説明しても良いんですか? そう聞いた。頷く麗奈を見て、新谷も同調した。零士は栞にあの時の動画を麗奈に見せるように言った。自分のスマホも同じ動画がコピーしてある。データを呼び出すとスマホを新谷に渡した。霧の中を突っ走るバイクの動画。たまたま栞が動画モードで録画したまま向きを変えたために映った、偶然の映像だ。
「スローで再生してください」
「ヘッドライトが反射して見えるな・・・。霧の中からYZF-Rが飛び出して来て、向こうに消える・・・。これがどうした?」
「ヘッドライトが反射して複数見えるの、変じゃないですか?」
「こんなの、映画やドラマでの夜間シーンで、よくある奴じゃないか。レフ板の反射がレンズに映り込んだだけだろ」
「レフ板を持った撮影スタッフなんていませんよ。もう一回見て下さい。ヘッドライトの光が、横並びの光が集まって来るの。ほら、一つになった。おかしいでしょ、YZF-Rは二眼、デュアルヘッドライトですよ」
「あ!」
声を出したのは栞だ。確かに変! そう言った。零士は麗奈に向かって話し掛けた。
「麗奈先輩のYZF-R、ヘッドライト変えませんでしたか?」
「ああ、レイニーが最初のツーリングでコケて、カウルとヘッドライトの左目、割ったんだ。それで了で直した。オークションで激安を見つけて。あれ、そのままか?」
麗奈は頷いた。
「日下部さんが直してくれたのよ。変えられないわ」
「たぶんそれ、輸出モデルの、だったのでしょう。だから左目が集中光で、右目も左目も前方集中光になってしまった」
「どういうこと?」
新谷が栞に説明した。
「国内向けの二灯ヘッドライトは、右目が集中光、左目が拡散光、なんだ。右を拡散光にすると対向車にライトが当たるから。右で前、遠くを照らして、左は前から左を照らすの」
「そして残念なことに光軸がずれて調整され、バイクの前方十数メートルで左右のライトがオーバーラップしてしまった」
「それで光点が一瞬ひとつに見えたのね・・・」
零士は頷いた。
「舞台で主役の人に複数のスポットライトを当てると、すごい立体感が出ますよね。バイクの前の霧にその現象が起きて、オーバーラップスポットの霧は立体的に見えた。でもそれだけじゃないです。路面から一メートルくらいの高さに空気の層、温度差による空気の層が出来て、光が反射して蜃気楼が現れた・・・」
麗奈の顔から血の気が引くのが零士には見えた。
「幽霊だと思ったのは、幾つもの偶然が重なった結果、いえ、奇跡なんです。幽霊じゃなくて蜃気楼、霧に映ったのは他でもない、麗奈先輩のYZF-R、そのものだったんです。コーナリングワークが同じなのも、そういうことです」
「そんな偶然・・・」
新谷は呟いた。そんな偶然が起きたってことなのか。
「幽霊ライダーの発現率が低いのも、これだけの偶然が重なるなんてことが滅多にないから、だったんです。コーナーの手前で、ふっと消えたように見えるのもブレーキでフロントが沈んで、立体映像のバランスが崩れたから。もし、麗奈先輩のYZF-Rがオーバークォーターで車検があったら、それだけでこんな事は起きなかったはずなんです。光軸のズレたヘッドライトじゃ車検は通りませんからね」
色の白い麗奈の、血の気が引いて青白かった顔、固くつむった両目から涙が流れた。瞼が開き、大きな瞳が揺れている。瞬きする度に、大粒の涙が頬を伝った。肩を震わせ、それでも声を出すことはなく、麗奈は静かに涙を流した。
「BOMの店長にお願いして、バイクを引き上げてもらいました。残念ですが、全損です。それとも、別のバイクで同じような光軸調整をしてみますか? そんなことをしても、あれは幽霊じゃなかった、日下部さんじゃなかった、ってことが解った今、意味があることには思えませんが・・・」
「・・・ごめんなさい。今日はもう、帰ってくれる? 新谷さんも、帰ってもらえますか?」
「レイニー、了がお前をあの世に誘う、なんてこと、やっぱりないんだ。だから吹っ切れ。了はもう思い出に変えろ。お前が、いや俺たちが忘れなければそれで良いんだ。だから」
「お願い! もう帰って!」
麗奈の叫び声が病室に響き、おいおい、静かにしてくれよ、カーテンの向こうから苦情が聞こえて来た。
「ごめんなさい」
栞が誤って、三人は病室の外へ出た。
「言い過ぎたか・・・」
新谷は頭をかいた。
「いえ、俺の方こそ。良かったんでしょうか? 真実を言ってしまって」
「前にも言ったろう? 吹っ切るしかないんだ、自分自身で。・・・ただ、真実が解った直後に言うべきじゃなかったかもな。反省すべきは君じゃない、俺の方さ」
「・・・あの。まだよく事態が解らないのですけど・・・。零士君、ちゃんと説明してくれる?」
零士はようやく全てを栞に話した。隠していた幽霊ライダーも、偶然が生んだ、奇跡の立体映像だとわかれば怖くない。
「麗奈先輩は、本当は雨じゃなくて霧を、幽霊ライダーさんを探して走っていたんだね」
「レイニーは、本当は雨女なんて呼ばれたくないんじゃないかな。自分のせいで事故が起きたって思っているくらいだからな。それでも了を思って走り続ける。悲しいじゃないか」
「それは違いますよ。雨女でも晴男でも、そんなの関係ないです。俺らはライダーです。土砂降りの雨に降られても、カンカン照りの陽射しに焼かれても、バイクに跨って走るしかないんです。麗奈先輩は全部受け入れていますよ。雨女であることを自覚して、勉強して、雨上がりの虹を探して楽しんで。それでも、日下部さんがまだ、麗奈先輩の胸の中で生き続けている。麗奈先輩、言ってました。ただ一緒に走りたいだけだって。だから、ソロじゃない、日下部さんじゃなくても一緒に走る仲間がいれば大丈夫だと思います」
「俺がもっと積極的に誘うべきだったのか・・・。俺も了の幻影に惑わされていたってことか・・・。待つなんて、カッコつけるべきではなかったってことか・・・」
「麗奈先輩、立ち直りますよね? 幽霊ライダーさんが消えても、バイク、降りませんよね?」
「ああ、あいつの傷が癒えたら、誘うよ。ツーリング。レイニーとは一緒に走りたいもんな」
「あ、私も。OGだからって遠慮せず、誘います。ね、零士君」
「勿論さ。ただ、今は待とう。麗奈先輩がバイクに帰って来るのを」
―一年後 秋―
「さあ、やってきました全日本ロードレース選手権第八戦、J-GP3ノービスクラス決勝!バイクがグリッドに並びました。今日の鈴鹿サーキットは長雨の合間に晴れ空が見えます。昨日の予選を勝ち抜いたライダーが、静かにスタートの時を待ちます」
レーシングMCの陽気なアナウンスが聞こえる。
「降るかな?」
「レース後半、いや終盤かな」
「かー。それじゃ俺のレースは完璧なウェットだな」
「仕方ないっす。レースの順はノービスの後にAとBですから」
「栞ちゃんも見に来れば良かったのに、つーか、ピット入ってタイムキーパーして欲しかったよ。俺だってレースがあるっていうのにさ」
「しょうがないです。レースには全く興味がないみたいだし。それに部員が二名、レースをしてたらまずいでしょう? 鳳凰大自二部は。今日は信州辺りを走ってますよ」
「彼氏のデビュー戦だっていうのになあ。可哀そうな奴だよ、君は」
「今日こそ虹の中に立つんだって、張り切ってました」
「ごめんねえ。私が余計なアドバイスしたから」
「レース前に緊張感ねえなあ。いいのか、こんな会話してて」
「しょうがないっす。前はワークス、セミワークスで固められて。どのみち、開き直るしかないですから」
「お、選手紹介だ。呼ばれたら手を上げろよ」
「さあ三列目。プライベーターですね、ゼッケン78,R.瀧本選手。デビュー戦のこのポジションは立派です」
麗奈が左手を上げる。
「と、次もプライベーターですね。ゼッケン79,R.九頭龍選手。この選手もデビュー戦ですね。奇しくもデビュー戦のプライベーターが横に並びました。この戦いも楽しみです」
零士は右手を上げて、誰にともなく頭を下げた。
「ま、雨が降るまではなんとか前に喰いついて行きますよ。降ってからが勝負です」
「あら? 言うわねえ。タイムじゃ私に負けてるくせに」
「予選なんて、通りゃいいんですよ。それに負けてるっていってもコンマゼロ二秒じゃないっすか。ないも同然っす」
「その差がポジションの違いになっているの、判らない? まあいいわ。千切られて泣かないでよ。私はタイムアタックより抜きのシュチエーションの方が得意なんだから」
「こっちもコバさんの顔、潰すわけにはいかないんで。マジで行かせてもらいますよ」
「いいか、あんまり熱くなるな。クールに攻めろよ」
零士は頷いた。一生懸命軽口を叩いているものの、心臓がバクバクと音を立て、膝が揺れそうになるのを必死堪えていた。麗奈も一見落ち着いて見えるが、内心は判らない。
「さ、そろそろ俺はピットに戻るわ。何度も言うけど、俺もこのあとレースがあるんだから、俺にも夏木にも、余計な仕事は増やさんでくれよ」
「お二人にはピットに入ってもらって、助かってます」
新谷は麗奈、零士の順番に背中を叩いた。
「集中! 集中! 集中! 頑張れよ!」
ピットに戻り掛けて、新谷はもう一度グリッドを振り返った。新谷の目には二人の新人ライダーは、緊張しているように見える。やっぱり二人とも精一杯の虚勢だ。
「ったく! しょうがねえなあ、俺の後輩は!」
新谷は大きく息を吸い込み、ありったけの声で叫んだ。
「レイニー!」
二人は同時に振り向いた。