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レイニーレイニー  作者: 田代夏樹
1/12

雨のライダー

 土砂降りの雨の中、和歌山県の山中で彼は雨宿りをしていた。七月十九日。田舎道のバス停。コンクリートで囲われたスペースに待合用のベンチが一つ。午後一時、この時間帯はバスの運行はない。少なくともあと二時間は雨宿りができる。激しく打ちつける雨は路面で跳ね、川のように流れていた。視界はそれほど悪化してはいないが、路面の状況が確認できないくらいの雨だ。

 バスのために路肩は広げられ、その先端近くに停留所の名前と運行時刻表の標識があり、そこに一台のバイクがあった。バイクは雨に叩かれ、激しい音が聞こえる。時折吹く風のせいで音が微妙に変わる。彼はツーピースのレインウェアの上着を脱ぎ、パンツは膝まで下ろしてベンチに座っていた。彼の横にはフルフェイスのヘルメット。GパンにTシャツ、黒いロングのアンダーウェアは肌に張り付いているようだ。首には白いタオルが掛けられいた。

 彼はコンクリートの屋根の向こうに見える空をじっと眺め、風向きからすればもう少しで雨は小降りに変わるのではないかと考えていた。止んで欲しいが、せめて小降りになってくれないと峠道を走るのには危険だと思われた。この道は15mm/h以上の降水量で通行止めになる。ゲートは開いていたが、それ以上の雨が降っているような気もする。

 雨音に混じって車の排気音が聞こえて来た。右からか左からか、彼は方向を聞き分けようとして、それが車ではなくバイクのものだと気が付いた。この雨の中を、かなりのスピードで走っているようだ。ハイテンポで吹け切る高回転の排気音がシフトチェンジで途切れる。ブレーキで下がった音質はアクセルワークで一瞬高音に変わり、そしてまた低音に下がっていく。パワーバンドを維持した走り方だ。来る、っと思った瞬間、彼が行こうとする先からヘッドライトが見えた。エンジンの回転数が上がり、しかしシフトアップすることなく通り過ぎると、減速してUターン。彼のバイクの後ろに停まった。エンジンを止めて降りて来たのは小柄なライダーだ。

「すごい雨ですね。一緒に雨宿りさせて下さい」

それが彼女の第一声だった。彼、ではなく彼女だ。

 彼女がヘルメットを脱いだ時、彼は迂闊にも声を出してしまった。

「わっ、マジか」

茶髪のショートヘア、透き通るような肌、小顔で目鼻立ちがくっきりとしていて、すごい美人だ。不思議そうな顔をする彼女。ウエストバッグからタオルを取り出すと顎と首筋にあて、雨を拭った。レインウェアの襟元を覆うネックウォーマーを脱いだ。

「あ? これですか? これネックウォーマーじゃなくて、ネックレインガードなんです。防水の。いいですよ、これ。首回りからの雨の浸入を防いでくれます」

「いや、そうじゃなくて・・・。いえ。いいですね、それ」

彼はどう言ったらいいか迷った。初対面の、美し過ぎる女性に何と話し掛けたらいいのか、彼には判らなかったのだ。

「この季節、カッパを着ると蒸れちゃうから大変ですよね」

彼女がレインウェアを脱ぐと、女性らしい香りが辺りを漂う。香水? コロン? それとも彼女の体臭なのか彼には判別が付かない。

「・・・あの、もしかしたら女優さんですか?」

彼は恐る恐る聞いてみた。彼女はキョトンとしたあと、明るい笑顔でこう言った。

「違いますよ。私は普通の大学生です」

彼女の周りが華やいで見えて、彼は普通じゃないと思った。

「じゃあ、ミスキャンパスとか、あ。女子アナを目指してるとか」

「ミスコンなんて出たこともありませんよ。私、そんなにきれいじゃないし」

そう言ってにっこりと微笑んだ。とんでもない美しさだ。

「大学生、なんですね。俺もです。鳳凰大の一年です」

「あら、同じ大学だわ。奇遇ね。私は社会学科の四年生なのよ」

彼が年下だと判って彼女の口調が変わった。

 彼の目にはわずか三つしか違わないのに、目の前の女性が自分とかけ離れて見える。雨宿りの空間、沈黙に耐え兼ね何か言おうとして、でも何も言えなかった。それでも何か言おうと思って彼は話題を探した。

「あの、すみません。この雨、俺のせいかも知れません。いえ、たぶん俺のせいです。俺、昔っからすごい雨男で、降水確率ゼロを覆す男なんです」

突然話を振られて彼女はあっけに取られ、そして笑った。

「いきなり何? いいのよ、大丈夫。私も雨女だから。雨は好きよ」

「俺、名前、零士って言うんですけど、あだ名はレイニーなんです。昔はレイジーって呼ばれてたんですけど、運動会とか修学旅行とか県大会とか、雨男だってバレて、レイニーになっちゃって。・・・ああ、何言ってんだろ、俺」

「レイニーですって? 本当に?」

「マジです」

「私もレイニーって呼ばれているの。本名は麗奈。でもやっぱり雨女だからレイニー」

そのとき、さらに空が暗くなったと思ったら急に雨音が強くなった。手を伸ばせば届くくらいの距離なのに、普通の声では聞き取れない。

「え? なんですか?」

彼は怒鳴った。

「大丈夫よ、この雨はあと三十分で止むわ。ピークは今から五分間」

彼女も怒鳴り返す。

「そんなの、わかるんですか?」

「わかるわよ。私は雨女だもの」

路面を流れる雨水の量が一気に増えた。その上を土砂降りの雨が叩きつける。山の傾斜からも茶色い水が流れ込んですごい景色だ。気温が急激に下がっている。バイクに積んだ荷物から上着を一枚抜き取りたいが、屋根の下を出るのが怖いくらいの雨だ。

 本当かな、彼はそう思ってスマホの時計をみて、気づかれないようにタイマーを押した。

「あなたのNSR、MC18でしょ? 88? 89?」

「なんですか、それ?」

「NSRの年式。あなたのでしょう?」

「俺のというか、親父のというか・・・。大学の入学祝に譲り受けたんで、細かいこと、知りません」

「そう・・・、そうね。あなたが生まれる前のバイクですものね。でもわざわざそんな乗り難いバイクに乗っているから。走り屋かと思ったわ」

 本当に五分で雨音が変わった。小雨から霧雨のようになるまで二十分。さらにその後、陽が射すまで十分。陽が射した瞬間、彼女は待合所を飛び出した。

「見てみて! 彩雲!」

太陽から少し離れたところに細長く伸びた、白い雲があり、そこが光を反射して七色に輝いていた。

「・・・虹?」

「違うわ、あれは彩雲。虹は、今なら方角的には東にできるはずだから山蔭で見えないわね」

「龍に見えますね。あの形、虹の龍」

「龍は龍神、別名水神。水の神様は雨を司るわ。私ね、たつもとって言うの。本物の龍、ひっくり返して龍本。今日は運が良いわ、虹龍が見れた」

「マジっすか? 俺、九頭龍です。九つの頭を持つ龍。あの、省略しない方の龍」

「わ。おっどろいた。それ本当? 偶然が三つも重なるなんて」

「同じ大学、同じあだ名、同じ龍の字」

「まさか社会学科じゃないわよね?」

「経済です」

「そうよね、そんな偶然いくつも重なるの、おかしいわ」

彼女はふと思いついてこう尋ねた。

「ねえ君、サークルは?」

「自動車部の二輪部です」

彼女は天を仰いだ。

「嘘みたい。じゃあ君は本当に私の後輩だ」

 鳳凰大学の自動車部は、大きく分けて二つ、四輪部と二輪部がある。各々の中では更にチームがあり、四輪部の花形はラリーチームだ。過去いくつかのレースで入賞を果たしており、学生の人気は高い。他にエコノミーチームがあって、こちらはガソリン車の燃費競争をしたり、ソーラーパネルカーでの耐久レースをやっている。

 二輪部といえば、ロードレース、モトクロスレース、エンデューロレース、トライヤル、ツーリングと五つのチームに分かれていたが、実際はどのチームで活動をやっても自由だった。しかし。

「じゃあ、レイニーさんも自二部なんですか?」

「ねえ君。私は年上、先輩。あだ名で呼ぶの、おかしくない? 龍本さんとか龍本先輩とか、普通そう呼ぶでしょう」

「麗奈先輩で、いいっすか?」

「んー。まあいいか、妥協しよう。私は去年の上半期は就活で参加しなかったし、今年はもう四年生だからほとんど部室にも顔を出していない。もう引退したみたいなものだから新入生の顔は知らなかったし」

「・・・実は俺、自二部は辞めようかと思ってて。本当はロードレースしたかったんですよ。だからわざわざ大学にレースチームのある、鳳凰大を選んだんです。地元離れて一人暮らし始めて。なのに三年前にレース活動は辞めたって入部してから聞いて。今じゃツーリングチームだけの部活じゃないですか。詐欺ですよ、そんなの」

彼女はそれを聞いて少し怒ったようだ。それでも冷静に話す。

「岸君は何故二輪部がレースを辞めたか、話してくれなかったの?」

「部長からですか? 聞いてないです」

「そう・・」

「麗奈先輩は知ってるんですか?」

彼女はその問いに答えなかった。

「私、もう行くわ。滋賀に帰るのならあと一時間待って東ルートで帰れば降られない。私は西ルートだから」

「教えて下さい。俺、納得できないです」

「その話は長くなるし、私、大阪に用があるの。あ、峠の路面の水、今日は絶対に引かないから、レインウェアは下だけでも履いていた方がいいわよ。泥水は滑るから気を付けてね」

彼女はレインウェアを着るとヘルメットを被ってこう言った。

「金曜日、出たい講義があるの。その後部室に寄るわ。十六時半」

バイクをバックさせながら切り返し、来た方と逆に頭を向けた。

「ウチがレースを辞めた理由、もしどうしても知りたいならそのとき教えてあげる。日時の都合が悪いなら、岸君にもそのこと言っておくわ」

ヘッドライトが点いて、セルが回る。エンジンに火が入った。

「いい? 気を付けてね。事故っちゃダメよ」

怒鳴るようにそういうと、アクセルを開いたかどうか、わからないくらいの微妙なアクセルワークでクラッチをつないだ。

 バイクはふわっと動き始めて、次の瞬間甲高い排気音を残して彼女は去った。待合所のベンチに戻って、彼はもう一度時計を見る。そこにはまだ彼女の残り香があるような気がした。

「雨女の麗奈か。彼女が雨を降らすわけじゃないだろうけど、雨が止むのがわかったのは何故だろう? 俺だって、気温とか、湿度とか、匂いとか、そろそろ降るなってくらいはわかるけど、あの人は時間まで正確に言い当てた。あの人が龍神なのか? それとも龍神の使いか? ・・・だとするとずいぶん美人の巫女さんだよな」

彼は呟いて空を見た。虹龍はもう消えている。雨と一緒に来て、雨と一緒に去って行った。彼はそんな風に思った。


 鳳凰大学は七月いっぱいまで通常の授業だ。零士は最低限の講義しかとらず、コマを詰めてバイトの時間を稼いでいた。金曜日は部活を考えて居酒屋のバイトは遅番の二十一時から深夜の一時だ。十四時半に午後一限目が終わると、彼はまっすぐ部室に向かった。

 部室には部長の岸陽一と一年生の桜井栞がいた。岸は自動車部の部長で四輪部の部長も兼ねている。実質的に二輪部を取り仕切っているのは二年生の山田啓介だ。今は三年になるとすぐ就活が始まるから。三年に進級すると就職が決まるまで部活には出てこない。四年生はゼミに入ったり研究室に入ったりだから、部活はまばらだ。麗奈たちのように後輩に主導権を渡している四年生も多い。クラブはメンバーが集まると、それぞれのチームに分かれてそれぞれの活動を始める。部室と呼んでいるが、ここは実質、工具と消耗品の置き場だ。

「部長、ちーす」

「九頭龍君、高校生の部活じゃないんだから、ちーすはもう止めようよ。こんにちはーって。ね」

「この前、龍本麗奈先輩に会ったんですけど」

「レイニークィーンに会ったの? 何処で?」

「和歌山の山ん中です」

「雨だったでしょう? 彼女、雨女だから。遠出すると必ず降られる」

「土砂降りでした」

「彼女、美人だよね。スタイルもいいんだよ。カッパやヘルメット被るの、勿体ない。車にすればいいのに」

「あの、今日の午後二限目、終わったら来るって、言ってました」

「ほう、珍しい。なんだろ」

「二輪部がレース活動を何故止めてしまったのか、教えて頂けるそうです」

岸の顔が曇る。

「・・・レイニーが言ったの?」

「はい。部長は勿論、ご存知なんですよね?」

「僕はほら、四輪部の方だから」

「ご存知なんですよね?」

「・・・経緯を知っているのは四年生とOBだけだよ。でもね、そうか。レイニーが・・・」

「瀧本先輩って?」

栞が口を挟んだ。零士は岸の言葉を借りて。

「自二部の四年生。超美人。でスタイル抜群らしい。大人の女って感じ」

「部長! 今のはセクハラですよね?」

「え? どの辺がセクハラ?」

「性的な内容を含む会話で、私が嫌悪感を抱いたら、それはセクハラです」

「そんな固いこと言わないで。桜井さん、入門届出してきたら?」

 通常学生は車を構内に入れることはできない。自動車部は部活使用の車両なら整備目的で届け出を出すと、入構の許可を貰えた。部長の印を押した専用用紙に、栞と零士はバイクの形式とナンバーを書き込み、ヘルメットを抱えて守衛所に届けに言った。

「ねえ零士君、私と付き合ってるんだから、他の人によそ見しないでね」

「あの人はね、無理。美人過ぎて俺とは釣り合いが取れる気がしないの。高嶺の花だよ」

「なんか微妙な言い回しね。私となら釣り合いが取れるってこと? 私、美人じゃないものね」

「そうだなあ。栞は美人っていうより、可愛いだよね」

栞はちょっと照れた。

「そういうこと、さらっと言われるとね、照れちゃう」


 お願いします、そう言って守衛所に用紙を出すと、彼らは駐輪場からバイクを部室まで、徐行して走らせた。零士はホンダのNSR250R、栞はホンダCBR400RR、新旧のレーサーレプリカだ。大学の構内でバイクや車を走らせていると人目を引く。彼らは部室等の裏、自動車部がいつも整備に使っている場所にバイクを停めた。一旦部室に戻り、スタンドと工具、ウェス、ケミカルを持って出て来た。二人とも上着に薄手の作業着を羽織っている。

「ねえ零士君。零士君のバイクはオイル交換どのくらいでしているの?」

「俺はあんまり距離は意識してないよ。ギアのシフトに違和感が出たら、かなあ。たぶん、千五百か二千キロくらいだと思う。あ、ちょっとハンドル押さえてて」

そういうと器用にスタンドを後輪の車軸に当てて、リアタイヤを持ち上げた。

「三千キロで交換、は長いの?」

「オイルのグレードにも寄るとは思うけどね。安いヤツを頻繁に入れ替える人もいるし、ハイスペックオイルなら三千キロくらいはいいんじゃあないの?」

二人は世間話をするようにメンテナンス談義をしながら、チェーンのメンテナンスを行った。

「あ、そうだ。レバー交換しようと思って買ってきたんだ」

栞は部室にパーツを取りに行った。

「ケーブルメンテ、しとこう」

零士は独り言のように呟き、クラッチケーブルをばらすとケミカルを流し込んだ。栞はパーツと小さなスピーカを持って来た。コレも忘れてた、そう言ってiPodをスピーカを接続し、古いロックを流した。

「七十年代なんて、親父世代じゃなくて、じいちゃん世代だろ?」

「いいじゃない、いつの時代のものでも。良いものは良いわ」

栞は工具を上手に操って、レバーを外した。リンク比の違うショートストロークタイプに付け替えるつもりだ。

「栞、バイクにウェス当てて、養生テープで保護した方がいいよ。そこ手を抜くと、後で泣く羽目になるから」

「いけない。忘れてた」

零士はアクセルワイヤーにもグリスを流し込む。時々足でリズムを取りながら、作業を進めた。

「ねえ? スマホホルダーと電源付けたい」

「ご自分でどうぞ。説明書、入っているでしょ?」

「けちー。普通彼氏って、そういうのやってくれるものよ?」

「そういうのをやらない、希少な彼氏ってことで。自慢して下さい」

山田啓介が作業場に顔を出した。

「あ、いた。ねえ、九頭龍君、龍本先輩と会ったんだって? 今、部室に来てるよ」

時計を見るともう五時近かった。

「山田先輩、私のヨンダボ君にスマホホルダーと電源付けたいんですけどぉ・・・」

「いいよ、やってあげる。僕のバイクと、他にも何人かの入門申請をしてくるから、その後でならね」

栞は零士にウィンクする。零士は小さく舌打ちをした。栞は可愛いは正義よと、しかし口には出さなかった。

三人が部室に戻ると中からがやがやと声がする。やたら賑やかだ。栞が中を覗き込んで。

「わ。美人だ」

と呟いた。細身の体を包むオフホワイトのワンピースが夏らしい。出るところは出ていて引っ込むところはきゅっと絞られ、女性ならたぶん、誰もが憧れるボディラインなのだろう。そしてその顔立ちは、ノーメイクかと勘違いするくらいの薄化粧なのに目鼻がハッキリとしていて、岸や零士が美人というのがよく解る。栞も思わず呟いたくらいだ。

 こんにちは、と零士と栞が同時に挨拶をする。麗奈は華やかな笑顔で応え、一瞬そこだけ明るくなったようだ。

「貴女も新入部員なのね? 初めまして。私は四年の龍本麗奈です」

「情報処理科の一年、桜井栞です。よろしくお願いします」

山田がパンパンと手を叩く。

「はい、皆さーん、注目ー。車両を整備入門させる人はこっち来てー」

「桜井さん、スマホホルダーと電源キットを持ってきなよ。付けてあげる」

「はーい、お願いしまーす」

山田が部員を連れて出て行く。


 部室には岸と、他に四輪部の数名が居た。

「ちょっと席外してくれるかな?」

そう言って残った部員も岸は追い出した。

「あら、岸君はいるの?」

麗奈が言う。

「んー。一応部長ですから」

「じゃあ岸君から話してくれる?」

「僕からは言い難いなあ。レイニークィーンから言って貰えれば・・・」

「もう! その言い方止めてって言ってるでしょう?」

零士はその時、レースクイーンと引掛けて言っているだけでなく、雨女の意味であることも解った。じゃあ、私から話すわね。そう言って麗奈は椅子に座り、零士も腰を下ろした。


「私が新入生の頃、この部では五つのバイクチームがあったけれど、実際に活動してたのはモトクロスチームとツーリングチームの二つだったわ。日下部さんっていう二年生の人がモトクロスのチームリーダーで、もっともモトクロスチームには二人しかいなかったけど。その頃のロードレースチームも四年生の新谷先輩と私しかいなくて、レース活動はままならかかった」

「日下部さんは、小学生からモトクロスをやっていて、ジュニアクラスでは何度も優勝した人。高校生でIAに昇格したのだけれど、そのままレーサーにはならずにここに進学して、文武両道に励んだ変わり種。その人が二年生になったとき、モトクロスは一年休むって言い出したの」

「何故です?」

「新谷さんと日下部さんはとても仲が良かったの。モトクロスの二人がロードレースに混じればメンバーは四人。メカニックやタイムキーパー、マネージメントと合わせて全うなレース活動ができる、って考えたのね。日下部さんらしいわ」

「その結果、新谷さんは大学四年の最後の年にレースに参戦できて、勿論ノービスクラスだったけど、六位の入賞も果たしたわ」

「すげえや」

「その年の秋。就活が終わった三年生たちも含めて、私たちはサーキット走行会に出掛けた。レースの打ち上げって意味もあったし、ツーリングチームのメンバーもこれを機会にロードレースに興味を持ってもらえたらって、思惑もあった。でもね、そこで事故が起きたの・・・」

麗奈は声を詰まらせた。下をうつむいて、泣いているように見えた。

「麗奈先輩?」

「・・・ごめんね。最初は秋らしいいい天気だったのよ。それが午後の二時を過ぎた頃から急に雲行きが怪しくなって。私のせいね、雨女だから」

麗奈はハンカチで涙を拭って、話を続けた。

「通常のサーキット走行会は、体験目的だから速度の上限が決まっていて、追い越しは禁止なの。経験とかライセンスの有無でクラス別に走行の時間枠が決まってるわ。素人のスピードと経験者のスピードはレンジも違うし、マシンだって基本ナンバー付きの公道車だけど、排気量が異なるマシンが混同で走るしね。日下部さんは畑違いといえどもA級ライセンスだったから、一番速いクラスで走った。私たちは日下部さんが転倒するなんて思わなかった。それでも、事故は起きたの」

「雨の降り始めたサーキット。雨足がどんどん強くなって、あっという間に路面が完全ウェットになって、奥の複合コーナーで転倒者が出たの。日下部さんは巻き込まれて転倒したわ。でもそれ自体は大したことなかったのよ、すぐに自力で立ち上がったくらいだから。でもね、その後の後続車が転倒したとき、無人のバイクが立ち上がった日下部さんに突っ込んだの。二百キロ近い車重のバイクが、滑走しながら彼にぶつかったの」

「まさか・・・」

「内臓破裂。病院に着いたときはもう虫の息だった・・」

そう言うと、麗奈はまた涙をこぼした。深くため息をつく零士。

「大学からね、自動車部の廃部案が出たの。でもエコノミーチームの活動だけは存続させたい。このクラブは潰してこっちのチームだけは残すのか、って喧々諤々。結局、二輪部のレース活動だけが無期限停止になったわ。スピードを追求する無謀な若者の運転ミス、大学はそう考えたみたい」

「ちょっと補足するとね」

岸が口を挟んだ。

「自二部の全員が、四輪部は関係ない、これは二輪部の問題だって、主張してくれたんだ。それでまず四輪部は廃部を免れた。その後だよね、日下部さんがレーサーだったってことが話題になって。僕らは先輩も皆口を揃えて、サーキットやコースの方が安全だって反論したんだけど聞き入れて貰えなかった。サーキットで起きた事故だから、スピードを追求するクラブは認められないって言われてさ。話の順序が逆になってたら、四輪のラリーも活動ができなくなるところだった」

「・・・ラリーがスピードだけを競っているんじゃないくらい、少し知識があればわかるのにね」

「トライヤルだってそうでしょ? 結局、競技イコール、レースって決めつけられちゃったからね」

「これが、自二部がレースできなくなった理由。日下部さんが悪いわけでも問題を起こしたわけでもないの。でも部活中に一人の学生が死んだのは事実・・・」

麗奈の目が赤い。岸は麗奈を見つめている。

「納得した? それでも自二部を辞めたい? レースがしたい?」

零士は何も言わなかった。そこに山田が顔を出した。

「九頭龍君、NSRの整備終わってるならレーシングスタンド外すよ?」

「あ、はい。今行きます」

部室を出ようとして零士は立ち止まり、振り返って麗奈に話し掛けた。

「俺のNSR、88年式らしいです」

麗奈は頷くとにっこり笑って、

「君のNSRの音、聞かせてよ」

そう言った。


 零士がハンドルを支え、山田がスタンドを外して自分のバイクの後ろに回した。零士はNSRをサイドスタンドに預けると、山田のFZRを支えた。栞のCBRの周りには三名ほどの部員がいて、お喋りをしながらUSB電源の結線をしていた。栞はニコニコと笑顔を振りまくだけだ。

「皆可愛い子には優しいのね?」

麗奈が笑いかける。

 零士がNSRに跨り、キックでエンジンを掛けた。ツースト独特の、乾いた弾ける破裂音だ。一旦降りた零士に代わり、麗奈がアクセルを開けた。軽いグリップの動きにアクセルが敏感に反応する。ゆっくりと回転数を上げ、チャンバーからの白煙を見ながら高回転をキープし、排気色の変化を見て取ると、アクセルを閉じた。それから数回レーシングさせ、一気にワイドオープン、そしてグリップから手を離した。

「整備はどこに出してるの?」

「自分でできるとこは自分でやってるし。地元にいるときは近所のバイク屋で、こっちではまだ店は見つけていません」

「そう。いいマシンだけど、もう旧車の部類だから、きちんとメンテしてもらった方がいいわね。7,500rpmくらいでの谷ができてるみたいだし、アクセルオフのバックファイヤーもひどいわよ」

「ツーストって、こんなもんでしょ?」

「それは誤解ね。負荷の掛かっていない状態でこうはならないわ。以前は自二部にもエンジンのオーバーホールする人がいたらしいけど、新谷さんが最後ね。自分でバラせないならショップに頼むしかない。でもあなたはレーサー志望なんでしょ? セッティングのこともあるし、整備経験も必要なんじゃないの?」

「それを教えて貰いたくて自二部を選んだのに・・・」

麗奈はエンジンを切った。

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