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008



 駐在武官──もといルドルフ・ローランドの朝は早い。


 時刻は朝の5時。彼はベッドで目を覚ますと身を起こした。


 ここは帝都に20ある行政区のひとつである第8区。この区画には各国の大使館や公使館などが立ち並び、昨夜の終戦を祝う夜会が催された首相官邸も第8区へ含まれている事から帝国の政治や行政の中心とされている。


 各国の在外公館が並ぶ界隈に“在ヴィルベルク帝国フランドル皇国大使館”は置かれている。


 四年戦争中は国交断絶もあって閉鎖されており、和平交渉が一段落した先月にやっと人が入り、掃除や経年劣化で傷んだ箇所の修繕が行われたのもあってルドルフが部屋の主となる“陸軍武官室”や私室は見事に復旧されていた。


 彼が耳に挟んだ話だと、掃除人が部屋へ入った途端、長年の無人であったのもあり大量のクモの巣が出迎えた程に最初は酷い有り様だったという。


 陸軍武官室の室内の奥には扉がひとつあり、それを開ければ部屋の主が寝起きする為の私室が設けられている。ルドルフが起床したのはこの部屋だ。


 起き上がった彼は早々に軍服の上着のみを纏わずに着替え、歯ブラシとカミソリを片手に、タオルを肩へ掛けて私室を抜け出た。


 乗馬用長靴ブーツの規則正しい足音が陸軍武官室の室内へ響く中、廊下に面した扉を開けると右隣の部屋の扉も開いた音が聞こえた。


 ルドルフが視線を向けると、そこには今起きたと言わんばかりに目が細められ、薄い茶色の髪が乱れた男の姿がある。歳は四十路手前だろうか。


「──フィッシャー大佐、おはようございます」


「……おはよう…ローランド中佐…早いね…」


「そちらも」


 陸軍武官室の隣にある部屋は海軍武官室。この大使館には駐在武官として二名の軍人が存在している。一名は陸軍から派遣されたルドルフ、そしてもう一名は海軍から駐在武官の命を受けた大佐である。


 大きな欠伸を漏らした大佐は履いている革の短靴の足音を響かせ、彼の背後を歩きながら洗面所へ向かうのだが、足取りが覚束無いのを見るに朝が弱いのは明白だ。


「…君も今日は挨拶回りかい…?」


「えぇ。ティエール陸軍管区司令部へ。帝都の軍管区司令官とは仲良くしておきたいので。フィッシャー大佐は?」


「私もさ…まずは海軍省へ挨拶に行かないと…。君は行かないのかい?」


「昨夜の“ゴタゴタ”の調査で後日という事になりました」


「…あぁ…例の。…話は聞いてる。大活躍だったそうだね」


 駐在武官も忙しい仕事だ。朝早くに起床し、身支度を素早く済ませると帝都中の新聞社から届く各種の紙面を開いて情報を収集しつつ面会する人間の情報を頭へ入れなければならない。


 本来ならルドルフも今日は陸軍省へ挨拶に赴く予定だったのだが、昨夜の夜会で彼と女性少尉が密かに捕らえて帝国側へ引き渡した男女二人組の儀礼服を纏った軍人が懐にナイフを忍ばせていたのもあって面会は後日へ延期となってしまった。


 双方共に陸軍と海軍から命じられた任務の中には帝国陸海軍の編制、装備、訓練練度、戦術教義や戦略等に関する情報収集がある。


 陸軍大臣と面会出来る機会を逃してしまったのは痛い。これなら昨夜の夜会で、挨拶に向かう大使へ同行して紹介を受ければ良かったと後悔先に立たずといった心境だ。


 とはいえ今日は帝都の防衛と警備を任せられている陸軍管区司令官との面会も予定には含まれていた。それで埋め合わせが出来るかは微妙なところだが、文官である陸軍大臣よりも現場にいる司令官の方が話は通じるだろう。


 髭剃りに洗面、歯磨きなどの朝の身支度を終えたルドルフは大佐へ会釈を済ませてから陸軍武官室へ戻ると私室へ引っ込んで改めて軍服を纏った。


 書類、報告書などの作成をしている間に時刻は6時を迎える。その10分後、陸軍武官室の扉がノックされた。


 短く許可を出すと陸軍の軍服を纏った少佐と背広姿の外務省から派遣された大使館職員が揃って入室して来る。


 少佐は陸軍参謀本部から派遣された情報将校だ。帝都に滞在を始めたのは約1ヶ月前。その間、閉鎖が解かれたばかりの大使館を復旧する為の様々な手配をしつつ情報収集に務めていた。


「おはようございますローランド中佐殿。先日までの報告書を提出に参りました」


「ありがとう。……あぁ、情報提供者のリストか」


「はい。本日の昼には帝国で捕虜となっていた将兵の送還に同行して帰国しますので…」


「…そうだったな。色々と手数を掛けた。捕虜となっていた同胞の帰国は優先事項だ。道中は問題も発生するかと思うが国境を越えてヴェステンブルクに到着すれば汽車がある。それまで宜しく頼む」


「はっ!」


 カツンと革で作られた長靴の踵を合わせて応じた少佐へ頷き返したルドルフは次いで大使館職員へ視線を向ける。


「こちらは本国の陸軍省ならびに参謀本部から中佐への届け物になります。それと私信がいくつか」


「お手数をお掛けした」


 同じ大使館で勤めているが大使館職員は外務省、彼は陸軍からの派遣であるので厳密には所属が違う。それもあってルドルフも命令口調は鳴りを潜めた。


 本国から届いた大振りの封筒と私信はそれぞれが仕分けられ、紐で纏められている。それをルドルフが受け取ると二名は会釈の後、退室して行く。


 それを見送ると彼は手元に残った情報提供者のリストをまず金庫へ収める。なにせ重要書類だ。紛失などして帝国側へ渡ってしまった場合は“色々”と面倒な事態となりかねない。


 しっかりリストが金庫に収められると次いでルドルフは大振りの封筒と私信となる手紙をそれぞれ括っている紐をハサミで切り、机上へそれらを置くと一通毎に開封して内容を読み込んでいった。



「──おはようルドルフ。一緒に朝食どうだい?」


 時刻は7時ちょうど。ノックもなく陸軍武官室の扉が開けられ、顔を覗かせたエーベルバッハから彼は朝食の誘いを受ける。それにルドルフはーー陸軍では予備役とはいえ雲の上の上官、大使館では上司に当たる人物へ対しては決して浮かべてはいけない類いの表情を向けた。


「……いや、そんな嫌そうな顔しないでよ」


「…嫌なのではありません。忙しいのです。陸軍省と参謀本部に送る報告書の作成は終わりましたが他にも仕事があります」


「…あぁ、なるほど…」


 扉を開けて室内へ足を踏み入れた大使が机上に散らばる書類などを認めて頷いた。忙しいのは事実らしい。


「でもねぇ…いくら忙しくても朝食は食べないと。力が出ないよ。どうせ起きてからは煙草の煙しか食べてないんでしょう?」


 指摘を受ければ正しくその通りでルドルフは返す言葉もない。室内に充満する煙草の紫煙は彼が書類を読みながら喫煙していた証拠だ。更なる証拠として机上の端へ置かれた灰皿には吸い殻が重なっている。


「ほら、早く行こう。じゃないと料理長が作った朝食が冷えてしまう。君の分も既に運ばせてるんだ」


「……畏まりました」


 実際、空腹を覚えていたのは確かだ。ルドルフは腰を上げると、まずは窓へ歩み寄る。窓を少し開けて不在の間、換気を済ませる腹積もりのようだ。


 陸軍武官室をエーベルバッハに従って後にすると、大使は続けて隣室の主である海軍大佐も食事に誘い、揃って大使館2階の大使執務室へ向かった。




 大使、海軍大佐を交えた朝食を彼は20分で切り上げた。これでも長い、長すぎる程である。


「もっとゆっくり食べれば良いのに…」


「生憎と仕事が溜まっていますので。閣下とフィッシャー大佐はごゆっくりどうぞ」


 では、とルドルフは腰を上げ、さっさと大使執務室を後にする。


 忙しいと彼は言っていたが、時間がない割にはそれなりの量を朝食で口にしていた。


 厚く切られた酸味の強いライ麦パン(黒パン)を4枚。それにバターを塗って口にしながら半熟卵を3個、料理長手製のヴルスト7本、炙られた厚いベーコンを4枚。そして蒸かしたジャガイモを2個。ついでにスープもしっかり腹へ収め、食後のコーヒーも飲んでいる。


「…いやはや…やはりローランド中佐のように体格が良いと食べる量からして違いますな」


「…そうかい?…今朝は少ない気もするなぁ…本当に忙しいみたいだね」


 まだ二人は食事の半ばである。22歳という若さもあるのだろうが、四十路間近の海軍大佐からすれば朝食にしては量が多いと感じてしまう。


 加えて大使の「今朝は少ない」発言を聞いてしまった大佐に、陸軍の内情は良く知らないが大食漢ばかりなのだろうか、という誤解が生じてしまったのは別の話である。




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