表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/43

007



 フランドル人は“野蛮人”というのが帝国の洗練された文化人や政府高官にとっては常識である。


 それをいちいち当のフランドル人は否定しない。むしろ「それがどうした」と鼻で嗤う程だ。カタツムリ(エスカルゴ)カエル(グルヌイユ)を食べる連中が何をほざくといった所かもしれない。


 食文化をいちいち貶し合っては別の戦争が勃発するので彼等も大きな声では言わないが──兎も角、基本的にフランドル人は帝国の人間から見下される傾向にある。


 それが長い歴史と洗練された文化で形作られた意識だというならお笑い草だが──この首相官邸、かつては皇族が住まう宮殿であった建物を改装して現在に至る官邸の広間で始まった舞踏で注目を浴びているのはエーベルバッハとそのペアを組んだ若い女性だ。


 新任の大使である彼は言うまでもなく戦時中は「帝国最大の敵」と称され、その首に多額の懸賞金が掛けられていた程には敵視を受けていた。


 それも相俟って戦時中の新聞へ描かれた風刺画には、大使がやや肥満体質なのもあって豚そのもので描かれていた。具体的には軍服を纏った豚が涎を垂らしつつ帝国と書かれた料理の皿へ乗った料理を食べている構図のそれである。


 「豚肉は好きだけどそんな野心はないんだよなぁ」とは占領した敵陣で風刺画が描かれた新聞を発見した将校が前線司令部へ持ち込んだ際のエーベルバッハの言葉だ。


 故に風刺画に描かれる程の“豚”がどんな無様な舞踏を披露するのか、と高官達は興味津々であった。


 わざわざ帝都でも有名な劇団の中から人気の高い舞台女優を雇って大使へ接近させ、舞踏の相手を望まれる、という男性であれば断る事が出来ない場面まで演出しての“ささやかな企み”だったのだが──


「──驚きましたわ閣下…お上手ですのね」


「──そうかな?世辞でも美女にそう誉められると悪い気はしないね。わざわざレッスンを受けた甲斐があるというものだよ」


 義手となった右腕を女優の左肩甲骨付近へ回して支え、空いている片手同士を握りながらエーベルバッハは女性をしっかりリードし、社交界へ繰り出しても見劣りしないステップを刻んでいては彼等の企みも台無しだ。


「それにしても貴女も大変だ」


「なにがでしょうか?」


「わざわざ舞台稽古を休んでまでこんな所で僕みたいな人間と踊らせられるなんて…苦労は察せられるよ。舞台の公開初日は来週でしょう?」


 企みは台無しどころか看破されていたらしい。エーベルバッハがペアとなった女優へ囁けば、彼女は目を見開いた。


「そんなに驚かなくても良いじゃないか。そりゃ気付くよ。僕のような老人へ目が覚めるような美女がお誘いをしてくれるんだ。裏があると勘繰るのは当然だよ」


「…申し訳ありません」


「いやいや、とんでもない。むしろ僕は嬉しいからね。帝都まで来た初日に貴女のような美女とこうして踊れたんだ。ただ…妻には内緒にしてくれると嬉しいかな?ちょっとヤキモチ焼きだからね」


 女優は伏し目がちに謝罪を述べるが、エーベルバッハは笑みを浮かべて訛りがない共通語で軽口を叩く。これには彼女も釣られて苦笑いだ。


「来週の公開初日には劇場へ足を運ばせて貰うよ。あまり観劇はしないけれど貴女の舞台には興味がある。確か…ブリタニアとの百年戦争を描いた舞台だったね。楽しみにしているよ」


 彼の申し出を聞いた女優は頷き、「お越しをお待ちしております」と返した。


 そのやり取りを横目に捉えながらワルツのステップを僅かに無視して大使と女優のペアへ接近を試みる男女の二人組。灯台もと暗しと言うべきかエーベルバッハは気付いていないようだ。


 その様子を視界の端へ捉えるルドルフはエリーヌと名乗った帝国陸軍の若い女性少尉の手を取って新たにワルツの輪へ参加する。


「…先程はあのように申しましたが…実はダンスは初めてでして…」


「…それはもう少し先に仰って頂ければ嬉しかった」


「…申し訳ありません」


 儀礼服を纏う彼女の細い腰へ右腕を絡めたところで当の本人──エリーヌから舞踏自体の経験がないと告げられるとルドルフは思わず天井を仰いでしまう。


 そこでふと疑問が湧いた。帝国陸軍の士官学校では教育課程カリキュラムに舞踏の類いはないのか、というそれだ。


 この時代、軍人は戦術や戦略を研究し、部隊を指揮するという典型的なそれだけへ専念していれば良い仕事ではない。特に成績優秀者──外国語が堪能な者はルドルフのような駐在武官を命ぜられる場合がある。いわゆる外交官のような役割を任せられるのだ。


 その為、食事作法に始まり、宮中儀礼や舞踏といった諸般へ通じる必要がある。


 常々言うが帝国から“野蛮人”と称されるフランドル人、その中でも一等の人間が集まっているとすら謗られる軍隊の初級士官、将校の養成教育でも重んじられる要素が肝心の帝国陸軍士官学校では省かれている可能性があると知ればルドルフも疑問を抱いてしまう。


「…三拍子の旋律に合わせ、半時計回りに回って貰えればそれで構いません。自分がリードします」


 小さく頷いた少尉の右手をルドルフが左手で握り、軽く左腕を上げさせてから脇を通して左の肩甲骨付近へ右手を添えて支えるとペアを組んだ二人は彼のリードでワルツの輪へ加わった。


 彼女へ堂に入ったステップで付いて来て貰うつもりは毛頭ない。初心者も初心者、未経験の少尉が転ばないよう支えながらの覚束なさすら感じられる舞踏となってしまうが、彼等の目的は社交へ興じる事ではない。無様なそれであろうと目的さえ達成出来れば構わないのだ。


「…こんな状況で尋ねるのもアレですが…ノース少尉は士官学校には?」


「…いえ、通っておりません」


 やはり、と彼女から返ってきた答えにルドルフは納得の心地となる。双方が握っている手──少尉の利き手だと思われる右手に慣れ親しんだ存在を感じたのだ。


「…軍人ではなく“兵士”となってどれほどに?貴女の手は…説明が難しいが兵士のそれだ。胼胝の有無がどうこうではなく…私が知っている長い軍歴を持つ下士官の手と触り心地が同じに思う」


 説明は難しい。言葉にするもの難しい。だが数十年に及ぶ軍歴を持ち、銃を握り続けた熟練の下士官達と握手をすればその手の平から感じ取れる新兵等とは異なる荒れ具合は彼も良く知るところだ。


「…それは言えません。ですが…長いとだけ」


 明確には話せない、と少尉は口にした。しかし僅かだけ垣間見えた答えを聞いてルドルフは小さく頷きを返す。


 こんな手をした新品少尉が居て堪るか。間違いなく前線で重い歩兵銃を握っていた人間の手である。彼女はまだ17歳だと言っていた。


 仮に第一次会戦から軍役へ就いており、あの戦場で戦っていた場合の年齢は──色々と問題になる年齢であるのは間違いない。


 戦況が不利で予備役や退役となった将兵を再召集し、もしくは志願を募り、徴兵の年齢である18歳を1歳引き下げて掻き集めた人員を確保していた皇国でさえも、それほどの年少の人間を戦場へ送り込むような愚は犯さなかった。


 ならば眼前の少尉は何者なのだ、という疑問がルドルフに生じるのは当然だ。


 だが今はその疑問を解決するよりも、暗殺の可能性が高い事態をなんとかするのが先だ。


 件のペアは少しずつ大使と女優へ接近している。濃紺の儀礼服は間違いなく帝国陸軍へ所属している軍人であると示しているが、相方を組んでいる華美なドレスを纏った妙齢の女性は何者だろう。単純に考えれば妻か知人かもしれない。


 いずれにせよ捕まえれば分かる事だ。


 少尉が初心者という事もありステップの定石を無視できるのはある意味で僥倖だった。


 楽団が奏でる円舞曲が終盤だ。あと数分で演奏は終わってしまう。


 おそらく彼のペアが大使を暗殺するとなれば、舞踏が終わり、立ち止まった時だろう。その瞬間、凶行に及ぶ可能性が高い。


 仮に大使をこの場で暗殺したとする。


 エーベルバッハは皇国の皇帝から親任され、全権を委ねられた大使だ。


 その要職にある者が帝国首相官邸の広間、衆人環視の中で暗殺されたとなればーー皇国は報復として締結されたばかりの和平を御破算とする動きを見せる。


 数年に及んだ対外戦争で疲弊した国家と軍隊だが、フランドル皇国、或いはフランドル人からすると「騙し討ち」にしか見えない。


 再び開戦となれば皇国も危うい。今度こそ亡国の可能性が色濃くなる。


 それだけは勘弁だ。


 エリーヌとペアを組んだルドルフは“最悪”を予想しながら少しずつ儀礼服とドレスを纏う男女へ歩み寄る。


 やがて──楽団が奏でる円舞曲が鳴り止むと広間の中心で踊っていた多くのペアが立ち止まった。


 それを輪の外から眺めていた者達が拍手を送る中、エーベルバッハも女優の片手を取り、手の甲へ軽く唇を落とす。


 それを合図としたかのように同様の挨拶を手早く済ませた男がエーベルバッハに歩み寄りつつ、懐から何かを抜き取ろうとした瞬間──


「──失礼。こちらへ御足労を願えますか?」


「──…奥様もこちらへ…」


 男の肩を掴んだルドルフが耳元で囁きながら、その背中へ腰に佩いているサーベルの柄をわざと当てて警告する。


 華美なドレスを纏う女性の方はエリーヌが引き止めに成功したようだ。


 舞踏が終わり、それぞれがペアを解消して再び歓談の場へ戻る中、彼と彼女に連行される形となった男女は項垂れて広間を後にする事となった。




斬ったら斬ったで色々と外交問題に発展しかねず、大人しく引き渡すしかないという面倒臭さ

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ