025
「──死ぬよ?」
「──だろうな」
白く染められた北限の戦場は魂さえ凍て付く空気に包まれている。
一面に広がった積もった雪の白。その中へ混ざる黒と茶、そして鮮やかな赤。
見れば黒と茶は人の形だ。白の中へ力なく倒れ伏している人々の周りは赤く染められ、それを覆い尽くさんとしているのか新たな白雪が薄く積もり始めていた。
革の乗馬長靴に容赦なく絡み付いて来る湿った雪を掻き分けて歩く黒衣を纏う長身の男へ口にするのは同様の服へ袖を通した男だ。年頃は同じか、後者の男の方が何歳か上のようである。
“死”を告げる男へ気負う様子もなく隣の男は頷きつつ純銀のシガレットケースから煙草を銜え、マッチの頭薬を黒革の外套の袖で擦って火を点けた。先端をその火で炙れば紫煙が薄く立ち昇り、マッチの燃えさしを足下へ落として消火した男が紫煙を燻らせながら口を開く。
「──連隊の残存1,851名…俺を含めての人員でやれば…まぁ持って7時間、一気に向こうが攻め寄せて呆気なくても3時間ぐらいは稼げるだろう。最後の一兵になってもな。お前達が脱するには充分とは言えないが急げばなんとかなるとは思う」
「──僕の聞き間違いかな。さっき残存兵力は1,988名って言ってなかった?137名は何処に消えたんだい?」
「──不思議なことに行方不明になったんだ。おそらく後でそっちと合流すると思うぞ」
「──嗚呼…」
なるほど。若い連中かつ自力で動ける者は脱出させるつもりだ。男は拳ひとつ分は長身の男を僅かに見上げながら察しが付いてしまう。
そして同時に──指揮下の将兵や自身の生還を1%も考えていないとも察してしまう。察してしまった。だからこそ問わずにはいられない。
「──奥さんと子供はどうするんだい?特に子供は産まれたばかりだろう?」
「──戦没者遺族恩給も出るだろうが…頼まれてくれんか?親父も歳だ。いつまでも元気ではいられんし、来年には退官すると前に言ってたからな。後見人を頼みたい。親父も嫌とは言わんだろう」
本気で死ぬつもりなのだな。否応なしに察した男は紫煙を燻らせる彼を見上げた後、深々と溜め息を吐き出す。
「──僕は陸士で君の先輩だったけど…当時から頭が良い割には時々とんでもない突拍子もないこと言い出したりしたよね」
「──そうか?」
「──そうだよ。まぁ僕も一緒になって馬鹿やったから人のことは言えないけども」
長身の男は困ったように右手の指先で右頬を掻いてみせる。相変わらずの癖だ。長々と思い出話をする余裕は残念ながらない。一刻も早くこの場を後にしなければならない。傍らの男や1,850名の男達を“生贄”として逃げねばならないのだ。
「──念のため聞いておくよ。遺言はあるかい?」
「──特にない。皇帝陛下万歳、祖国に弥栄あれ、と言うような人間に見えるか?」
「──あぁ、見えるけど?」
「──そうか?ならそれで。まぁ…これは届けて貰えると有り難い」
「──準備が良いことで」
外套の内ポケットから取り出した無地の封筒が手渡される。それを受け取った男は確かに同じ意匠の外套の内ポケットへ仕舞い込んだ。
そして彼へ正対すると姿勢を正し、上官としての言葉を告げた。
「──第6師団長命令。第22歩兵連隊、連隊長以下の残存人員は現在地へ止まり、敵軍の進撃を継戦が可能な限り遅滞せしめ、本隊撤退の支援を実施せよ。意味は分かるな?」
改めて命じられるまでもない、と言いたげに男は上官を前にしても喫煙を止める様子はなかった。ただ一度だけ軽く頷いてみせる。
「──死ね、って意味だろう?ここで屍を晒せと言う意味だ。委細承知している」
根元まで吸い切った煙草を指先で摘み、名残惜しげに一瞥した男がそれを雪上へ投げ捨てた。白く染まる吐息と共に肺へ残った紫煙を吐き出す彼へ上官の男が頷きを返す。
「──その通りだよ。それが命令だ。僕と第2軍司令官のね」
「──殿軍を出せって言ったのは軍司令官閣下だろう。お前のせいじゃない」
「──いや、僕のせいだよ。俺の責任だ。君と君の連隊なら時間を必ず稼げると判断したんだ」
「──それは良い。この上ない誉め言葉だ」
軍人冥利に尽きる。そう言わんばかりに男が精悍な顔立ちの口角を緩く吊り上げて見せた。
最後までこの男は変わらないな。命令下達のため姿勢を正していた男も純銀のシガレットケースを開いて煙草を銜えると、その整然と並んでいる煙草を彼へ勧めた。その内の一本を受け取った彼は男が差し出したマッチの火を使って銜え煙草のまま先端を炙る。続けて男も煙草へ火を点けると同じ香りの紫煙が二人の間へ漂った。
「──…お前、こんな不味いの吸ってたのか?もっとマシな物にしたらどうだ?」
「──気に入らないなら返してくれよ」
「──え、嫌に決まってるだろう。不味かろうが吸わんとな」
口にはしなかったが、その後へ続くのはきっと「生きている内に」なのだろうと男は考えた。
数十秒ほど互いに無言のまま紫煙を燻らせる。
このまま煙草を吸っていたいがそれは叶わない。もうそろそろ時間なのだ。
男は銜え煙草のまま姿勢を正す。すると眼前の男も煙草を口の端に銜えたまま踵をカツンと鳴らして合わせた。
互いに正対したまま二人は相互に右手を額の前へ翳して挙手敬礼を送り合う。
これが最後に交わす、最後の敬礼だ。10秒ほど視線を交錯させ合いながら挙手敬礼を済ませ、図ったかのように腕を下ろした。
そしてこれは友人として最後の挨拶だ。下ろした右手を差し出せば、男は肩を竦めて右手でそれを握った。
「──頑張ってくれ」
「──あぁ、徒花を咲かせてやる」
その徒花は見事に咲き誇るのだろう。咲いても無駄だと知りながら鮮血の如く、或いは烈火の如く。目が眩むほどの真っ赤に。
互いに握られた右手が同時に離れる。
そして互いが踵を返した。
遠ざかる男達は振り向く事はしない。
ただ互いが顔を向けている先へ進むだけだ。
従兵が引く軍馬へそれぞれの男が跨がる。
撤退の指揮を執る為、男は従兵と共に場を去り始めた。その背後で聞き慣れたサーベルの鞘走りの鋭い音が凍て付いた北限の空気を斬り裂いて耳朶を打った。
「──さぁ野郎共!喜べ!!俺達は死ねと命じられたぞ!!」
その後へ続いたのは幾多の野太い「応!」の声だ。
「──女神には程遠い厳ついツラの連中と最期を一緒に迎えるのは御免だと思っていたが、この連隊の野郎共となら不足はない!」
再びの大音声に負けず劣らずの「応!」が響き渡った。
「──弾が無くなったら全員で突撃するぞ!銃剣先を揃えて突進だ!きっと敵は泣きながら小便漏らして出迎えてくれる!」
軍馬へ跨がり、従兵と共に離脱をする男の背中を震わせる幾多の野太い笑い声が響き渡る。
遠ざかる友人を互いに振り向いて改めて別れを告げる無様な真似はしなかった。
別れは既に済んでいるのだ。
だが、それでも死に逝く親友へ男は届かないと知りながらも惜別を込めて言葉を送りたかった。
「──良き最期を」
生きろ、などとは口が裂けても言わない。しかしその最期が時代錯誤とはいえ、華々しいそれであるのを祈るばかりであった。
大陸歴 1858年 5月19日 2335
帝都ティエール 第8区 在ヴィルベルク帝国フランドル皇国大使館
酔いも手伝ってうたた寝をしていたようだ。
既に日が暮れてしまった大使執務室のソファでエーベルバッハは目を覚ますと凝り固まった関節を解すように背筋を伸ばした。
歳のせいもあるのだろう。思いの外、酒に弱くなったのかもしれない。
彼は眼前の脚が短いテーブルの天板へ置かれている酒瓶とグラスを差し込む月明かりで発見する。義手の右手で瓶を押さえ、自由に動く左手を使って蓋を開けると乾いているグラスへ蒸留酒を注いだ。
ワインの方が好みだが、蒸留酒も悪くない。
酒と煙草を覚えた頃から大使の嗜好はワインであったが、親友の勧めで口にした蒸留酒も幾分か好みの酒となった。
その親友の息子が帝都観光で土産として買ってきた酒だ。好みの銘柄ではないがこれも存外、悪くない味である。
血の繋がりがあると嗜好品の好みも一致するのかも知れない。
グラスの半分まで注いだ蒸留酒をエーベルバッハは左手で握り、口元へ運んで一口を嚥下する。
酷く辛口で、喉が焼けそうな酒だ。
酒精の度数が強い蒸留酒を水のように親友は飲んでいたな。その親友を最後に見た時の夢を今しがたまで見ていた大使はふと思い出して含み笑いを漏らす。
酒を飲むと煙草も吸いたくなるのは病気の類いだ。
求める衝動のままに彼は纏っている背広の内ポケットから細かい傷が大量に付いた純銀のシガレットケースを取り出して開くと煙草を抜き取った。揃いの片割れは戦利品として持ち去られたのか遺体と遺品の返還では見当たらなかった。
自由に動く片手でマッチを擦り、煙草の先端を火で炙る。
紫煙がマッチの小さな火で照らされる中、エーベルバッハはその火を手首を振って消火してから机上の灰皿へ投げ捨てた。
「──良き最期、だったかい?」
あの日以来、何度か問うたそれを大使は紡いでみた。当然ながら返答は一度もない。
それで良いのだ。この問いの答えはいつか自身へその時が訪れた際にでも直接尋ねようと楽しみにすらしている。
そう遠くはない未来の話だ。焦る事はないと改めて考えつつエーベルバッハは再び蒸留酒を嚥下する。
「…しかし…君の息子は良く似ているよ。癖もね」
困った時は右手の指先、人差し指で右頬を掻く癖が同じだ。顔立ちもそうだが声質だけでなく、背丈まで長身となれば意図せず重ね合わせてしまう。
帝都観光の時に見ただろう市内の様子、細かい点まで親友である父親と同様に部下となった親友の息子へ大使は尋ねたが、思い出すまでの間、困ったように右頬を掻いていたのは思わず吹き出しかけてしまった程だ。
血の繋がりとは恐ろしいものだ。
「…とはいえ…死に急ぎや生き急ぎまでは似なくても良いんだけどね…」
散々に目撃し、或いは耳にした親友とその息子の生き方、もしくは在り方とも言えるそれは溜め息を吐くしかない。
何かしら制止させる人間がいなければ、呆気なく逝ってしまいそうな程にあの親子は似ている。似てしまった。
戦場ではないが、かつての敵地にいる点で任務に於ける危険の度合いは現状どっこいどっこいだ。
早々死ぬとは思わないが、自身の命を軽視しているきらいがあるのは否めない。
早々に誰かに矯正して貰う必要はあるのだが──
「──恋愛でもしたら変わるかな?」
その相手がいなければ全く意味がない言葉を一人で紡いだ大使は苦笑いを漏らし、グラスを傾けると一気に蒸留酒を飲み干した。