020
「──先手は譲るよ」
「──余裕という奴かね?」
「──いやいやまさか。先の戦争では皇国が先手だったからだよ」
華やかな夜会が続く広間の片隅、チェス盤が置かれた席へ腰掛けるティエール陸軍管区司令官に差し向かうエーベルバッハが定石を無視して司令官へ先手を譲った。
怪訝な顔のまま問い掛ける司令官へ大使は皮肉を込めた返答を告げる。
それを聞いた司令官はあかさまに舌打ちを一発かますと譲られた先手──白のポーンへ手を掛ける。その駒をd4へ動かせば、大使がすかさずf6に黒のナイトを進めた。
「やはり戦場で後手に回った帝国に対しての皮肉だろう?」
「そんな悪趣味な人間に見えるかい?」
「あぁ、見えるな。むしろそれ以外の人間に見えない」
当然だろうと言わんばかりに返した司令官へ大使が思わず苦笑いを浮かべた。
再び白のポーンが動いてc4へ。これで二体のポーンが並んだ。続けて黒の番だ。大使もポーンを左手で摘み、g6へ移動させる。
「酷い言い草もあったモノだ」
「どうだか。戦の定石は知っているだろうに。敢えて寡兵で攻勢を仕掛けた。意表を突かれて我々の陣地は大混乱だったぞ」
「意表を突くのが戦争で一等楽しい瞬間なんだよ。知らなかったかい?」
「…君は手堅い用兵をする人間だと思っていたのでね。このチェスのように」
「手堅い用兵?僕が?…それは済まなかった。次の戦争の為にも情報を書き換えておくようお勧めしよう」
余裕か、それとも皮肉かーーどちらとも取れる言葉を飄々と告げる大使がチェス盤の横へ置いていたワイングラスを摘まんで一口嚥下する。
言葉の応酬と同時に白と黒の駒が交互に動き、戦争が進行する様子をルドルフは傍観者の立場でエーベルバッハの背後から見守った。
「──それはそうと訓練施設の件だけど…」
「──彼に聞いたのかね?」
ゲームが始まって10分ほど経過した時、エーベルバッハがやにわに尋ねる。黒のポーンを二体、獲得した司令官が傍観者の立場を継続しているルドルフへ隻眼を向けると白いポーンを指先で弄ぶ大使がにこやかな笑みを浮かべつつ左右に頭を振った。
「逆だよ。噂を彼へ話したのは僕だ。──話を元に戻して…“大陸間戦時国際条約”へ抵触するんじゃないかい?僕の記憶が正しければ…帝国は批准していた筈だ」
「…批准国ではない国家の軍人の割には博識だな」
「そう誉めないでくれ」
大陸間戦時国際条約──戦時国際法としての傷病者及び捕虜の待遇改善を基に発展、改訂がされた交戦者の定義や宣戦布告、戦闘員・非戦闘員の定義、捕虜と傷病者の取り扱い、使用してはならない戦術や兵器類、降伏や休戦などの定義が規定された国際条約である。人間としての理性が消失し、獣性と残虐性が剥き出しになる戦場へ一定の制限を課す条約だ。
国民の生命や財産等の保護にも言及されている条約の為、無闇な虐殺と略奪へ発展しがちな国家間の戦争へ制限を掛ければ戦後の処理や賠償金請求の交渉も楽になる利点がある。一応は、という前置きが付くが。
その国際条約に皇国は批准していない。周辺各国や列強が挙って署名した条約へ唯一と言って良いほどに批准を拒否した過去がある。一部批准でも、と帝国や王国など列強の外交筋から勧められたが皇国は断固として拒絶したのである。
「皇国が批准を拒否した理由は明確だよ」
「ほう?」
大使が独白を紡ぐが如くに呟くと司令官は興味津々と先を促した。
「──使用してはならない戦術や兵器?何を寝惚けているんだい?」
──そんな事を許せば人的資源の乏しさから兵力の確保に腐心する皇国は不利に立ってしまうではないか。
「──高尚な御題目を口にするのは大変結構だ。だがそれは大国同士が仲良くやって欲しいね。僕らにはそんな余裕は残念ながら無いんだ」
「…野蛮人と言われているのは知っているだろう。あの条約へ加盟していないのもあってフランドル人は戦争好きの野蛮人と言われているんだぞ」
「野蛮人か。言葉を返すようだけど、理性のある戦争なんか僕の軍人としての人生では一度たりとも無かった。きっと御先祖達が戦った過去の戦争でも、僕らが戦った戦争でも、或いは子孫達が戦う戦争でも──きっと同じだろう」
「ふん…」
それに歯止めを掛けるのが目的の条約だろうに。司令官はそう言いたげに白いナイトを動かしつつ鼻を鳴らす。
「第一、有史以来──それ以前から連綿と紡がれた“戦争の倣い”へ勝手に制限を課さないで欲しいね」
「野蛮人め…」
「そう、僕らは野蛮人だよ。そうでなきゃ三方を列強に囲まれ続けている貧しいが死守すべき祖国を護るなんて夢の又夢だ」
恵まれた国家と一緒にしないでくれ。大使はそう言いたげにビショップを斜めへ動かすと小さく宣言した。
「──チェック。いや、チェックメイトだ」
話に夢中となりすぎたらしい。駒の配置へ気を配るのが疎かとなったようで黒のビショップが白いキングを捉えている。それだけなら兎も角としてキングを逃がそうとすればクイーンが動き、次の一手で取られてしまう。
「…参った」
その結末を司令官は甘んじて受け入れると投了を口にする。勝者となったエーベルバッハは脚を組むと左手で摘まんだワイングラスを傾けて深紅のワインを嚥下した。
「…ただし畜生の野蛮人でもね…戦争の倣いとして戦闘員とそうでない人間の区別ぐらいは付けるよ」
「…未成年の児童を理由の如何を問わず戦闘へ従事させる行為は戦争犯罪と看做す」
「その通り。なんだ知っているんじゃないか」
1.部下について責任を負う1人の者が指揮していること。
2.遠方から認識が可能な固着の特殊標章を有すること。
3.武器を公然と携行していること。
4.戦争の法規及び慣例に従って行動していること。
以上の四点が大陸間戦時国際条約での戦闘員の定義だ。
ここに年齢制限や性別の制限は課せられていない。しかし帝国が条約へ調印した直後に問題となったのは未成年──18歳以下の年少兵が理由は様々ではあるが陸海軍へ所属して場合によっては戦闘へ従事する可能性が高いという点である。
昨今で運動が活発な“人権派団体”が児童保護について問題提起し、裁判所へ是非の判断を求めた裁判で下された判決は「違法」であるというそれだ。
理由はかなり噛み砕くと「大人でも発狂するような戦場へ未成年の子供を送り出すのは無責任極まりない」であったとか。
その判例が原因となり、当時の批准各国の軍上層部では一斉に18歳以下の年少兵を即刻退役させるよう指示を下し、急な命令を受けた現場が混乱したという話まで残っている。
「わざわざそんなこと言われなくても戦争は大人の仕事だ。それぐらいの線引きぐらい弁えているよ」
「…彼は17歳で出征したと聞いたが?」
「ん?あぁ、ルドルフ達は士官学校の生徒であっていずれは将校となる身だ。志しがあって職業軍人の道を志願した人間を拒絶するのは皇国の道理に反する。それにこっちでは16歳で男女ともに成人と見做されるから問題なんか無いよ」
この男、舌は何枚あるのだ。
いけしゃあしゃあと語る大使の言葉に司令官は不機嫌さを隠そうともせず脚を組んだ。
「…で、問題なのは…その訓練施設とやらが話に聞く限りでは明確に未成年の児童へ戦闘訓練とかを積ませていた点だ。実際の戦闘に従事させていた訳じゃないにせよ…問題となるだろうね」
「……まるで存在するかのように語るのだな。君も言っているだろう、噂だ、とな」
「うん、噂だ。だけど…ただの噂なら何故そこまで僕の話に付き合うんだい?」
腰掛ける椅子の背凭れへ上体を預け、肘掛けで頬杖を突く大使がやっと本題を口にした。
「僕は君を実直かつ素直な軍人と評価している。良くも悪くもね。そんな君が長々とこんな噂話に付き合う性格をしているとは思えない。笑い飛ばしてお仕舞いさ」
「…君の的外れな御高説を聞きたかったからだと言ったら?」
表情を固くする司令官が口を開いて紡いだ言葉をエーベルバッハは鼻で嗤う。
「そんな無駄な事に時間を費やしたいのかい?わざわざこんな場所へ足を運ぶほど暇でもないだろう?」
奥方と屋敷でワインでも飲み交わす方が有意義な時間の過ごし方、とエーベルバッハが続ければ司令官はそっぽを向きつつ鼻を鳴らす。
その様子を見た大使は組んでいた脚を下ろすと、椅子へ腰掛けながら司令官へ向かって身を乗り出した。
「──ヴィクトル」
許しもなく個人を指す名で司令官を呼ぶ大使だが、当の彼は何も語らず隻眼だけをエーベルバッハへ向ける。
「酷な話をするが、いずれはバレる事だ。遅かれ早かれね。悪意があってか、それとも興味からか…噂を本気にした記者が本格的に調べ始めたら因果関係が発覚するだろう」
「……それは脅迫かね?」
「そう受け取って貰っても構わない。大衆媒体を焚き付けるなんて楽な仕事だからね」
諜報活動も仕事の内だ。その気になれば、帝国国内に存在する大衆媒体へ情報を流し──それこそ真偽不明だが大衆の興味を引く情報を流せば食い付くだろう。
帝国はその手の媒体の存在に事欠かない。ゴシップ記事であろうとも大衆の興味を掻き立てれば、有る事無い事を次から次へと流布されるのが関の山だ。
「……ここだけの話と約束してくれるかね?」
深々と溜め息を吐いた司令官が儀礼服の懐へ忍ばせていた葉巻を取り出し、ギロチンで吸口を作りながら呟く。
それを聞いた大使は頷くと、無言のままに先を促した。
「武力紛争における児童の関与に関する児童の権利に関する条約の選択議定書」の発行は2002年なので、架空とはいえ19世紀が舞台だとかなり先をいっている人権意識