011
短いですが投稿します
率直に言えば緊張した。
それが管区司令官執務室を後にしたルドルフの感想である。
カチャカチャとサーベルの柄や護拳同士が擦れ合う金属音を響かせ、光沢を放つ良く磨かれた黒革の長靴が規則正しい足音を奏でる中、管区司令部の庁舎の廊下を進んでいる。
元来た道を戻り、階段を降る。一階へ辿り着き、正面玄関に向かう途中で談話室のプレートが打たれた両開きの扉を発見した。
休憩室と喫煙所を兼ねているのだろう室内からは何人かの話し声が聞こえて来る。
幾分か時間がある為、一服してから帝都へ戻ろうと思い至ったルドルフは両開きの扉を開けて室内へ滑り込む。
「──いや、さっきは焦った」
「──あぁ、さっきの」
「──ジャガイモ野郎と擦れ違った時か?」
入室して真っ先に聞こえた会話へ眉根を寄せてしまうが、扉の間近で煙草を吸っていた将校が敬礼したのを見ると彼は端正な答礼を返す。
その将校は談話室の奥にあるソファへ腰掛けながら煙草や葉巻の紫煙を燻らせている3名の軍人達に視線を向けた後、ルドルフへ向き直って申し訳なさそうに頭を小さく下げた。
構わない、と彼は首を左右へ振りながらシガレットケースの蓋を開けて一本を銜える。火を点ける為、マッチ箱から細いそれを抜き取って側面へ擦り付けるのだが──よりにもよって頭薬がある先端が折れてしまった。しかも最後の一本である。
「──Haben Sie Feuer?」
火が無ければ煙草は吸えない。意地悪かとも思うが、ささやかな仕返しである。流暢なフランドル語でわざと「火を貸してくれないか?」と告げながらルドルフは談話室の奥へ足を向けて歩み寄った。
フランドル語が室内へ響き渡った途端、軍人達は反射的に彼へ視線を向け、そして反射的に立ち上がる。それこそ弾かれたようにだ。
「Haben Sie Feuer?」
ルドルフはまた同じ意味のフランドル語を紡いだ。だが言葉が通じていない様子である。
「…え、えっと…」
「お前、フランドル語は…?」
やはり通じていないようだ。囁き合う軍人達──階級章はいずれも中尉らしい。四年戦争も終わりへ向かう頃にでも士官学校を卒業したのだろうが、敵国であった国の言語が分からないというのは考えものだ。それでは捕虜の尋問等での情報収集に支障を来してしまう。
ルドルフは彼等にも分かるよう銜えている煙草を指差す。それでやっと意味が通じたらしく、慌ててマッチ箱を取り出すとマッチを擦って彼へ差し出した。
「──Danke」
「…ありがとう…だっけ?」
差し出されたマッチの火で煙草へ火を点ける彼は礼を述べた。紫煙を燻らせ、帝都へ戻るまでに吸えない分を味わう。
マッチの火を振り消した彼等はルドルフへ軽く会釈をした後、そそくさと真横を通って退室しようとしたが、彼はそれを肩を掴んで止めた。
「──中尉、敬礼はどうした?貴国の士官学校では外国軍とはいえ佐官へ対しての欠礼を容認する教育をしているのか?無論、私がジャガイモに見えるなら敬礼の必要はないが」
てっきり共通語が話せないと思っていた相手から馴染みがありすぎる言語で質問されては中尉達の顔面が蒼白になる。
マッチを擦った時以上に慌てた様子で3名が姿勢を正して帝国陸軍式の挙手敬礼をする。それを視界の端へ収めつつルドルフは軽い答礼で返した。
「結構。くれぐれも欠礼はするな」
行け、とばかりに彼が顎をしゃくって扉を示す。硬直しつつあった身体を動かした3名の中尉は急ぎ足のまま扉を開けて談話室を後にする。
扉が閉まる音が響く中、ルドルフは吸い慣れた煙草の紫煙を緩く吐き出して一人言を口にした。
「…こんな阿呆らしい報告は上げる必要もないか」
極々少数であろう人間の振る舞いを全体の傾向として判断するのは危険だ。幾分かの判断材料にはなるだろうが絶対ではない。
加えてこの程度で目くじらを立てる程、ルドルフも暇ではないのだ。
一応は一人言のつもりだったのだが扉の間近にいた将校は彼へ向かって深々と頭を下げていたという。
あの程度の差別を気にしていては駐在武官や大使館勤務はやれない。あれは非常に可愛い類いなのだろう。
正午を過ぎ、時計の針が頂点と1を指し示した頃に帝都へ戻ったルドルフは愛馬へ揺られつつ大使館まで続く大通りを進んでいた。
帝都へ長く住んでいると酷い差別的な扱いをされる事もあった、とは先程、大通り沿いにある小さな煙草屋を経営しているフランドル系ヴィルベルク人の店主からの言葉だ。
敵対しあっていたが、結局は隣国である。双方ともにどちらかの人種の血が濃い住民や市民は少なからず存在する。
皇国も他国の事は偉そうに言えないが、帝都での差別に比べればまだまだ可愛い方だろう。
同じ言葉を日常的に使い、同じ食べ物を口にして、同じ生活習慣をして、同じ税金を払っているにも関わらず──戦時中は店への投石や放火、或いは近所に買い物へ出掛けても商品を売って貰えないという扱いを受けたと店主は皇国陸軍の軍服を纏っている彼へ語った。
「……皇国であれば、もっとマシな扱いを受けたんでしょうか」
新しいマッチ箱を購入し、それを受け取ったルドルフに店主は形容するのが難しい笑みを微かに浮かべていた。
また来る、と彼は店主へ代わりに告げて店を出ると、店の前へ置かれた馬を停める為の繋柱へ結んでいた愛馬の手綱を解いて鞍に跨がった。
現在はそのまま大使館へ向けて帰る途中の道中である。
「…戦後、というのはまだまだ遠いな」
人種差別が活発になったのは今更の話ではない。ただでさえ帝国は他人種へ対しての排他的な思想が根強い。その引き金が四年戦争の勃発であっただけの話だ。
そして戦時中、人種差別や排斥運動の真っ只中で苦しんでいるフランドル系ヴィルベルク人を皇国陸軍の情報部は“情報提供者”として利用した。
情報提供者となった彼等は、そのような役割を課せられた意識はないだろう。接触する諜報員達は彼等に対して親切かつ親身になって接し、時には仕事の世話なども行った。
捕虜となっていた同胞の将兵を引き取り、帰国する運びとなった情報将校の少佐から受け取った情報提供者のリストとはそのような者達の名前が綴られている代物だ。中には大きな声では口に出来ないような人物の名前も含んでいる。
彼が立ち寄った煙草屋の店主も情報提供者の一人だ。
今後はルドルフがこの帝都に於ける諜報活動の責任者となる。駐在武官の役割とはそれだ。
軍服を纏った外交官として表では活動するが、その裏では非合法的な諜報活動も指示をする役割を彼は課せられた。専門の情報将校ではないのだが、命じられたのならば仕方ない。意見は言えるが、それだけしか出来ないのが軍人という仕事だ。
なんとも因果な商売を選んでしまった、と職業軍人の道を進むルドルフは揺れる馬上で器用に煙草を銜えると、買い求めたばかりのマッチを片手で擦って火を点けた。