009
纏った軍服の胸へいくつかの勲章を付けたルドルフは腰へ巻く剣帯のバックルの位置を姿見で確かめてから黒革の外套を羽織った。外套の両肩には二連の金の星が輝く中佐の階級章があり、右肩からは駐在武官の役職にある軍人を示す金糸で編まれた飾緒が下がっている。
私室から陸軍武官室へ移動し、扉を開けると歩いてしまっては時間が勿体無いからか少し急ぎ足で廊下を進む。正面玄関を抜け出て皇国大使館の正門脇に設けられた厩舎へ向かうと、既に愛馬は馬具一式を厩務員の手で付けられており、いつでも出発出来る準備を整えていた。
「昨日の内に磨り減っていた蹄鉄の交換と削蹄は済ませました。どうぞローランド中佐」
馬も生き物だ。餌を与えるだけでなく、磨り減った蹄鉄の交換や伸びた蹄の手入れなどの日々の世話を欠いてしまうとたちまち病気となってしまう。
ルドルフも騎兵なので一通りーー蹄鉄の交換や削蹄も出来るが、現状では仕事の方が優先で時間の余裕がない。もう一人自分がいれば良いのだが、そんな事が出来る筈もなく厩務員へ甘えている形だ。
青毛の軍馬を厩務員から礼を述べて受け取ると、彼は愛馬を誘導して厩舎を後にする。正門前で鐙へ片足を掛けて一気に鞍へ跨がる。幾千幾万と繰り返した動作に淀みは一切見られなかった。
衛兵となっているのは陸軍から派遣された下士官だ。二名が正門の両脇へ立ち、着剣した鎖閂式歩兵銃を携えて侵入者等の襲撃に備えている。
その二名が彼へ正対し、捧げ銃の敬礼を送るとルドルフは愛馬を進ませつつ挙手敬礼で応えた。
帝都の中心部から大通りを進み、やがて郊外へ向かう街道の入り口に差し掛かるとルドルフはやっと愛馬を走らせる速さを一段階上げて速歩とする。
青毛の愛馬も我慢していたらしく、彼の合図へ素早く応えて街道を進む。
目指すのは昨日、調印式の場となった宮殿に近い帝国陸軍のティエール陸軍管区司令部だ。近隣には陸軍士官学校も所在している。
帝都一帯の防衛警備を担当する管区司令部であり、擁する兵力は8万に相当すると彼は聞いている。帝国の帝都という政治、経済の中心が管区に含まれる事から通称は“中央司令部”とも呼ばれるらしい。こちらの方が帝国陸軍内では一般的だとか。
帝都から南西へ約20km離れた管区司令部へルドルフが到着したのは10時前だ。
面会を10時30分に約束していたのは彼がまだ帝都近辺の地理に疎いので余裕を見ての措置であったが間に合ってルドルフは内心で安堵の溜め息を漏らす。
大使館と同じく、管区司令部の正門前には管打式の前装歩兵銃で武装した兵士が二名立っている。武装を見るに単発、後装を実現した鎖閂式の歩兵銃を主力にした皇国陸軍の方が技術は先を進んでいるようだ。
下馬したルドルフが愛馬の口取りを握って誘導しながら正門へ近付く。既に彼が訪問すると兵士達も知らされているようで礼式に則った捧げ銃で敬礼する。それを受けてルドルフも挙手敬礼で応えた。
「フランドル皇国陸軍騎兵中佐 ルドルフ・ローランド。管区司令官閣下との面会の約束につき、正門通過の許可を頂きたい」
挙手敬礼の右腕を下ろした彼は軍服の胸ポケットから取り出した身分証である軍人手帳を開いて兵士へ提示する。捧げ銃から直った兵士はその手帳に貼られた彼の顔写真と綴られた階級、皇国の国章である黒い鷲の印、陸軍大臣の印章を確認する。今回の帝都駐在に先立ち、ヴィルベルク人にも分かるよう共通語で記載された手帳だった。
一方の彼の名を聞いた二名は背筋に冷や汗が流れていた。彼等も四年戦争に出征しており、戦場でルドルフの噂は嫌というほど耳にしているのである。特に手帳を提示された兵士は緊張で身体の震えが止まらない。膝がガクガクと笑わないのは正門の守備を命じられている故の意地すら感じさせる。
「…確認致しました。御訪問を歓迎致します」
生唾を飲み込んだ兵士が彼へ通過の許可を出す。合わせて司令部庁舎内へ入って直ぐの所にある事務課へ到着を報告して欲しいとの要望を出せばルドルフは頷いた。
「了解した。手数だが馬を預かって頂きたい」
流石に庁舎内へ愛馬は連れて行けない。ルドルフの言葉に頷いた兵士の一人が近くに置かれている交代要員が待機している詰所へ走り、応援の兵士を呼んで来る。その兵士に彼は愛馬を預けると敷地に足を踏み入れて庁舎を目指した。
彼が知る所によると、この司令部庁舎は1世紀ほど昔に建設されたそうだ。かつては宮殿が近隣へ所在するのもあり、皇族や宮殿の警護が任務の近衛連隊の司令部であった歴史がある。
それから政治的な動乱と混乱も重なったが──時代が下り、現在は軍管区司令部に変貌している。ちなみに近衛連隊の司令部は宮殿の間近へ新しく建てられたとの事である。
改装を何度か重ねたと情報では知っているが司令部庁舎は全体的に前世紀半ばから現在に掛けて流行している建築様式の印象をルドルフは受けた。外部装飾が比較的少ないのが特徴で、過去の建築物に見られるような装飾過多な様式へ反発する形で流行している新古典主義などと呼ばれる建築様式だ。
彼の感性として好みの様式ではある。
司令部庁舎の正面玄関口を抜けると見学者向けなのか幾つかの展示物が飾られている。それを横目に彼は事務課のプレートが打たれた扉を発見するとノックをして入室した。
事務課の職員へ到着の報告と共に改めて管区司令官との面会を希望すると、司令官は会議もあって接見にもう少し時間が掛かると返される。
それまで待機を願われ、彼は快く頷いて勧められた応接用のソファへ腰を下ろした。コーヒーは遠慮し、足を組んで時間が経つのを待つこと数十分。
「──お待たせ致しました。準備が整いましたのでご案内致します」
事務課へ新たに姿を現した濃紺の軍服を纏った軍人がルドルフへ声を掛ける。それに頷いて腰を上げた彼は身嗜みを軽く整え、剣帯から垂れる二つのフックへ二振りのサーベルを下げた。
こちらへ、と案内を申し出た軍人に従って彼はその背中を視界へ収めつつ歩き出す。事務課の室内を出る時に脱いでいた軍帽を被り直して続行すると二階へ続く階段へ差し掛かる。
司令部で勤務している他の軍人の一団へ出会し、案内を受けている黒衣の軍服を纏った彼の姿を認めた瞬間、一斉に敬礼された。それへ答礼を返して階段を登り始めると、背後から声を押さえた囁きが耳朶を打った。
どうせ悪評の噂だろう、と考えながら階段を登り切り、二階の廊下を進んで暫く。扉へ“管区司令官執務室”のプレートが打たれた部屋の前で案内の軍人が足を止めた。
「こちらになります」
「お手数をお掛けした」
カツンと踵同士を合わせて会釈しながら礼を述べた後、ルドルフは扉の前へ立って軽く握った拳で数回のノックをする。
ややあって室内から入室を許可する壮年の年頃を思わせる男性の声が響いた。
「──失礼致します」
ノブに手を掛け、扉を開いた彼は司令官執務室へ入室する。
室内へ置かれた執務机の前に立ってルドルフを出迎えたのは、声音から察せられた通りに壮年の年頃の男性だ。もしかすると壮年は過ぎているかもしれないが五十路は迎えていないだろう。
厳めしい顔には片目を隠す黒い眼帯があり、男性が戦傷等で隻眼になったと推測するのは初対面でも容易だ。
彼は司令官だという男性の前まで進み出ると陸軍士官学校で叩き込まれた通り、まず踵を合わせて不動の姿勢となり、続けて右手を被っている軍帽の庇へ翳す。
無帽の司令官も皇国陸軍の挙手敬礼とは僅かに異なるが、右の手の平を少し見せつつ額の前へ翳す敬礼で答礼を返した。
「──在ヴィルベルク帝国フランドル皇国大使館付陸軍武官のルドルフ・フライヘル・リッター・フォン・ローランド騎兵中佐であります。本日はお忙しい中にも関わらず、お時間を割いて頂きまして誠にありがとうございます」
双方とも敬礼から直ると、まずルドルフが自己紹介の後に感謝を述べる。長ったらしい官職名を含めると舌を噛みそうだったのは秘密だ。
「──ティエール陸軍管区司令部を預かっている陸軍大将 ヴィクトル・ユーステスだ。…ローランド中佐、皇国から遠路遥々ようこそ。いや、それにしても…“はじめまして”と思えないのが不思議だ」
続いて管区司令部を預かる司令官が自己紹介と共に彼を労う。その後、厳めしい顔に苦笑いを浮かべつつ彼はルドルフに応接用のソファを勧めた。
勧めに頷きながらルドルフが軍帽を脱ぎ、サーベルをフックから外す。先に司令官が対面へ腰を下ろしたのを認めて彼も着席する。
「どうぞ楽に。中佐の噂は耳にしていたよ。敵味方に別れたとはいえ、輝かしい戦功の数々は尊敬の一言だ。私は“これ”もあって第一次会戦の後は一線で活躍は出来なくなってしまったがね。葉巻はどうかな?」
「…それは…なんとも…。いえ、結構です。お気遣いありがとうございます」
ソファ同士の間へ置かれているテーブル、その机上に鎮座する葉巻が入った箱の蓋を開けた司令官が上等な一本を抜き取ると、肩を竦めつつ自身の片目を覆い隠す眼帯を指先で小突いて見せた。
流石の彼も初対面かつ国軍が違うとはいえ陸軍大将の軍人へ「お気の毒に」とは言えない。なにせ少し前までは敵同士だった相手へそのような慰めの類いは禁句である。故に反応に困ってしまい、曖昧な返事しか出来なかった。
眼前の司令官はギロチンで葉巻の端を両断して吸口を作ると長軸のマッチで先端を炙り始める。
結果的にとは言え、ルドルフが挨拶回りの一番最初の場所、一番最初の人物としてこのユーステスという陸軍大将を選んだのには理由がある。
帝都一帯の防衛が任務の管区司令官であるから、というのも理由のひとつだが、それよりも重大な理由が存在した。
「──それで…君の所の大使閣下…エーベルバッハ大将は元気かね?最後に両目で見たのは第一次会戦でだったが…」
先端を炙り、紫煙が燻る葉巻を銜えた司令官が隻眼を細めてルドルフを見据えつつ尋ねて来たのは大使の事だ。
この司令官とエーベルバッハには因縁がある。
四年戦争は開戦劈頭のエルダー平原。その第一次会戦で件の二名は時代錯誤にも程があるが戦場の只中で一騎討ちそのものの死闘を演じたのである。
その結果は──大使が右腕の肘から先を斬り飛ばされ、眼前の司令官は右目を斬り裂かれ、というものであった。
これは慎重に話を進めないと拗れそうだ。
ルドルフは呼吸を整えた後、改めて司令官に視線を向けると口を開いた。