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大陸歴 1858年 3月10日 0450




「──Lieb' Vaterland, magst ruhig sein…」


 


 空は白み出したが濃い朝靄に覆われる平原を騎乗した黒衣の軍服姿の軍人が手綱を握る青毛の愛馬を常歩で進ませつつ軍歌を口遊む。


 


「──Lieb' Vaterland, magst ruhig sein…」


 


 朝露に濡れた草の葉を愛馬の足が踏む毎に微かな湿り気を帯びた音が響く中、その軍人は気負った様子もなく鞍の上で揺れに身を任せている。


 


「──Fest steht und treu die Wacht, die Wacht am Ältester…」


 


 おもむろに軍人は黒革で拵えられた外套のポケットから純銀のシガレットケースを取り出した。蓋を開けて中から、せっせと寸暇を見付けては巻いた愛煙の煙草を一本摘み取る。唇の端へ銜えつつ蓋を閉じてポケットへ仕舞うと同じ場所からマッチ箱を引き抜き、器用で手慣れた手付きのまま頭薬を擦り付けて着火し、銜えた煙草の先端を炙る。


 


「──Fest steht und treu die Wacht, die Wacht am Ältester……」


 


 手首を振ってマッチを消火し地面へ投げ捨てる。深く吸い込んだ紫煙を肺へ染み渡らせ、ややあって緩く唇の端から吐き出した。


 やはり、逸る気持ちを抑えるのはこれに限る──と内心で些事を呟きながらも愛馬を進ませ続ける。


 


 ──やがて、軍人は手綱を軽く引いて愛馬の行き足を止めた。


「良い子だ」


 愛馬の首を手で跳ねるようにポンポンと叩いてやっていると青毛の耳がピクリと反応する。耳が背後へ向いたのを見て軍人も肩越しに振り返った。


「──大隊長殿」


 青毛に跨がる軍人を大隊長と呼んだ別の軍人──こちらも黒衣の軍服を纏った髭面の男が朝靄の中から騎兵を従えて現れた。騎兵達の中には負い紐で括られた歩兵銃の銃身を切り詰めて騎兵銃とした小銃を吊る者も多数見受けられる。白い靄でその兵力の全貌は分からないが後方から微かに耳朶を打つ馬具の擦れる音や人の話し声を察するに100は優に超えているだろう事は想像に難くなかった。


 

「そろそろ突撃発起だ」


 青毛の馬へ跨がった軍人が懐から年季の入った懐中時計を取り出した。蓋を開けて文字盤を見る。


 


 ──現在0458。


 


 それを認めた軍人は懐中時計の蓋を閉めると懐へ納め、唇の端へ銜える煙草を指で挟みつつ傍らへ馬を寄せる部下へ静かに落ち着きのある低い声で命じた。


「総員抜剣」


「了解。総員抜剣」


 復唱した部下が待機する騎兵達へ代わって命じ、静かな声が逓伝されると共に鞘走りの音が周囲から響き始める。


 大隊長である青毛に跨がる軍人は周囲から聞こえ出すサーベルの鞘走りの音を聞きつつ喫煙を続けていた。やがて──名残惜しそうに指先で煙草を摘みながら火の点いているそれを地面へ投げ捨てる。


 肺へ残っていた紫煙を吐き出すと大隊長は剣帯へ佩いているサーベルを抜き払い、その峰を右肩へ宛がう。突撃の際に風圧で軍帽が何処かへ飛んで行かないよう庇の上にあった顎紐を下ろしてしっかりと食い込ませる。


 


 ふぅ、と深呼吸。


 


 一服はした。寝起きにジャガイモと豆ばかりの飯を食べ、用を足して髭も剃った。腰の拳銃嚢へ納めている回転弾倉式拳銃にも予備弾倉を含めて装填は済ませた。──おっと、歯を磨くのを忘れたな。


 些末な事を考えていると一瞬だけ時が止まったかのような静寂が平原全体に満ち──それを打ち破るかの如き砲声が幾百も彼等の遥か後方から鳴り響いた。



「大隊 前進用ぉ意。常歩にて前へ……進め」


「──大隊前進ッ!!」


「前進ッ!!」



 その砲声を合図としたかのように大隊長はサーベルの切っ先を靄に覆われた空へ掲げると切っ先を視線の先へ突き付けて前進を命じる。




「間隔を詰め。速歩に」


 


 愛馬の腹へ合図(扶助)の脚を入れる。前進を始めて100mも進まない内に大隊長が新たな下達を出した。それへ応じ、再び命令が口々に逓伝され、大隊長を先頭に立てた騎兵達は密集する隊形を作る。その軍馬同士の密着する様は互いの鐙が擦れ合い、カチャカチャと音が鳴る程だった。


 大隊長が命令を出す度に騎兵大隊の速度が増して行く。数多の馬蹄の音が平原へ響き渡り、数多の軍馬の駆ける衝撃で地面が揺れ始める。


 大隊の先頭を駆ける大隊長は不意に左右へ視線を向けた。目を凝らせば、向ける視線の先に軍馬のうっすらとした影が朝靄を通して散見される。


 


 進んでいるのはこの大隊だけではないようだった。


 


 数多の馬蹄の音、馬蹄が踏み付ける衝撃は数百どころの騒ぎではなく数千は超えるらしい。


 彼方から馬の嘶き、馬具の擦れ合う音、後方からは鳴り止まぬ砲声。そして進行方向からは数多の弾着の轟音が耳朶を打つ中──目印となる一本の柳を通過したのを認め、大隊長はサーベルの切っ先を前方に突き付けつつ大きく深呼吸をする。


 


「──突撃にぃぃ! 前へ!! Hurraaaaaa!!!」


 


「「「「──Hurraaaaaaaa!!!!」」」」


 


 


 


 


 大陸歴1858年3月10日 午前5時。


 


 大陸西方の一大強国 ヴィルベルク帝国と国境を接するフランドル皇国は1854年5月8日より何度かの短期間の停戦を経て継続する通称 四年戦争──その最後の大会戦となった第5次エルダー平原会戦において濃い朝靄の中へ紛れ、総攻撃を実施する。


 火砲の支援を受けつつ、先頭を駆けるかつて大陸最強と謳われたフランドル騎兵7千、それに続く歩兵主体の5個師団7万5千が突撃を開始。


 対するヴィルベルク帝国は総兵力16万を擁する大軍勢であったが、多くの将兵が眠りこける日の出前を狙われた上に砲撃も相俟って右往左往する中、7千騎の騎兵旅団が後続の5個師団の突破口を開くべく前線の各陣地へ襲い掛かる頃には倒れる将兵を置き捨てて国境線の向こうへと逃げ帰る事となった。


 その逃げ惑う帝国陸軍の追撃を請け負うのは足の速い騎兵旅団。


 小銃や背嚢すら持たず着の身着の侭、必死に逃げようとする帝国将兵の背後へ迫る幾千の騎兵。


 追い付き、擦れ違う度にサーベルが振るわれ、或いは手にした小銃や拳銃の引き金が引かれて帝国の若い男達の命が平原へ散華する。


 大隊長も斬れ味が鈍くなったサーベルを振るい敵兵の背中を斬り付けた──が、血と脂で刃が滑ってしまい致命傷を与えられたか疑わしかった。


 


 ──まぁ良い。



 倒れ伏した敵兵を視界の端へ捉えながら先に進もうと手綱を左手で握り直した刹那、左頬の間近を何かが掠めたと感じた。


 掠めた所が異様に熱い──敵弾が掠めたか、と他人事のように考えながらも追撃の足を止める事は一切なく、再び追い付いた敵兵の首を狙い、擦れ違い様にサーベルを遠慮なく叩き付けた。サーベルを通して頸骨が砕けた感触が鈍く手に走る。


 敵兵がくぐもった声を短く発して倒れたのと同時に後方から集結を命じるラッパの音が大隊長の耳へ届いた。それを認め、彼は潮時かと左手で手綱を軽く引いて愛馬を停める。


「──大隊長殿!お怪我を!?」


 髭面の騎兵が血濡れた抜き身のサーベルを携えながら大隊長へ跨がる軍馬を寄せると目を見開いた。


「怪我…? む……」


 先程の敵弾か、と大隊長が手綱を離して手袋を嵌めた左手で左頬を撫でる。──擦過傷の割には随分と深く掠めたのかべったりと血が手袋を濡らしていた。


「…大事ない。それよりも大尉。大隊の損害は?」


「詳細は後に集計しますが戦死10、行方不明2、負傷は分かりません」


「結構。上々だ」


「大隊長殿…まずは手当てを…」


「勧めてくれるのは嬉しいが俺よりも先に部下を優先しろ。医薬品も限られておる」


 速やかな治療を受けるよう髭面の騎兵は大隊長へ勧めるが、彼はそれを断った。不承不承と頷く騎兵は副官でもあるのか周囲の大隊の騎兵へ集結を命じる。


──良く働いてくれる上、良く気が付く。得難い部下を持った。


 自身よりも一回り年上の部下の働きに大隊長は内心で感謝しつつ鈍らとなったサーベルの刃を外套を纏った肘で挟み、刃を滑らせて血を拭った後、鞘へ納める。


「──…うっ…ぐっ…」


 集結を始めている部下達の元へ戻ろうと大隊長は手綱を捌きつつ腹を軽く蹴って愛馬を進ませようとした。不意に愛馬の足下──地面から呻きが聞こえ、手綱を引いて行き足を停める。


 年の頃は10代後半だろうか。横顔しか見えぬ為、はっきりとした歳は分からないが若い敵兵が表情を苦悶に歪めている。 


 うなじよりもやや下の皮膚が深く裂け、血肉の狭間から顔を覗かせる白い骨。首より下が動かないのを見て、先程の敵兵か、と大隊長は自身で頚椎を砕いた敵兵の存在を思い出した。


「楽にしてやる」


 せめてもの慈悲、と彼は茶色の革で作られた拳銃嚢から6連発の回転弾倉式拳銃を左手で引き抜き、親指で撃鉄を起こすと銃口を敵兵へ向ける。


 クッと引き金の僅かな遊びを引き絞り、正に撃鉄が落ちる瞬間──敵兵の口が微かに動く。


 「…Maman…」


 母を呼ぶ少年と青年の境にいる幼さが滲む微かな敵兵の声を拾った大隊長だが、気にする素振りすら見せずに引き金を引く。44口径の銃弾を後頭部へ撃ち込めば、破砕された頭部の上半分が弾け飛んだ。朝露に濡れた草へ敵兵の紅い血と白く弾力のある脳漿、そして頭髪が付いたままの肉片と骨の欠片が飛び散った。一瞬だけ跳ねるように身体が痙攣したが、直ぐにピクリとも動かなくなったのを認めた彼は銃口から硝煙が薄く昇る愛銃を拳銃嚢へ納める。


「──帰るぞ」


 愛馬の腹を蹴って部下達へ歩み寄った大隊長が短く告げた。


 


 

冒頭の歌は「ラインの護り」が元ネタとなります

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