昼寝をしてたら異世界に
久しぶりに文章を書いています。
よろしくお願いします。
目を覚ましたのは、音が聞こえたからだ。
何の音だろう。
目を覚ましてもしかし、音は聞こえない。目を閉じても。
きっと、もうどこかへ消えてしまったのだろう。でなければ、空耳だったのだ。
目を開けた私は、ゆっくりと体を起こす。
ここには、誰もいない。
どうしてだろうと思うよりも、誰もいないことに少しだけホッとしている自分がいる。
青い、空。雲ひとつない。
風の音と、木の葉の擦れる音。鳥の囀り。
向こうのほうからは水の流れる音がしている。
ここは、どこだろう。
私は確か、職場の屋上で昼寝をしていたはずだ。
風見麗音、二十七歳。レオンなんて男っぽい読み方だけれど、私はれっきとした女だ。地味で目立たない公務員。毎日まいにち、書類作成や書類整理に追われて、仕事が終われば家に帰って食べて寝るだけの毎日。そろそろ結婚でも、なんて声も聞こえてくるけれど、そんな相手がいるわけもなく、日々仕事に明け暮れ、時々好きなことをしておいしい食事に舌鼓を打つだけの、さもしい独身女がここに、ひとり。
そりゃあ、学生の頃には恋愛だっていくつか経験したけれど。でも、どれもみな、成就することはなかった。私の……その、性格にどこか問題があったらしい。たぶん。
それよりも、私はこれからどうしたらいいのだろう。
職場の屋上からいきなりどこへ来てしまったのだろう、私は。
体の下には青草が繁っていた。牧草地?
海外……だとすると、私はまだ、夢を見ているのだろうか。知らない場所に来た夢を、見ているのだろうか。
それとも。
まさか、死んでしまった……とか?
ここは、静かすぎた。車の行き交う音もなければ、人のざわめきが聞こえてくることもない。ただただ、自然の奏でる音や小動物の立てるガサゴソとした音や鳴き声が聞こえてくるだけ。
と、するとここは、天国なのだろうか。それとも、地獄……ではない、か。
こんな綺麗な場所が地獄なわけないだろう。
私は立ち上がるとあたりを見回した。
空が、高くて広かった。
自分が住んでいた場所は、ごみごみとした場所だった。そう大きくはない町だったけれど、あちこちに電柱が立ち、空は電線だらけで狭かった。子どもの頃にはあんなに広いと思っていた空は狭く、小さく切り取られてしまったようになって、いつもしょぼくれて見えた。
だけどここの空は、違う。
広くて、遠い。
彼方へと広がる青は澄み渡り、濁りひとつない。遠くの方に見える山並みも美しい。やっぱり外国だろうか、ここは。
いつまでもここにいても仕方がない。
他に誰かいないか、探してみよう。そうして、ここがどこだか調べてみよう。
いやでも、調べてどうするんだろう、私は。
ここがどこかなんて、どうでもいいことじゃない。
だってこれは、夢。私は夢を見ているのだから。
目が覚めればきっと、私は職場の屋上にいる。いつものベンチでコンビニ弁当を食べて、昼寝をしてて……そうして、目が覚めるのだ、きっと。
ああ、いい夢を見たなと、そんなことを思いながらまた面白くもない日常に戻っていくのだろう。
足元を見ると、小川が流れていた。澄んだ水の中を、小さな川魚が泳いでいる。日本ではないことぐらい、この景色を見ていたらわかる。
夢だ、これは夢だ、やっぱり。夢なんだ。
自分に都合よく、現実から逃げ出したいと願った私の欲望を映し出した、夢。
そう、ここは夢の世界。
私の……私だけの、夢の世界なんだ。
幼い頃に一人遊びをして楽しんだ、空想の世界。
あれは、確か……ソレイユ公国と言ったっけ。
公国には公子と公女が住んでいて、東にはリズル大海、西にはレブゼヤ砂漠、南にはアムナス寺院、そして北には聖マリス山脈。それらの中心にソレイユ公国……だったはず。
なぁーんて、ね。
そんなわけ、ない、ない。あるはずがない。
夢だ、夢。
これは夢。
もう少ししたらきっと、目が覚める。
私はまた、事務の風見に戻るだけ。
野暮ったいひっつめ髪の、事務のおばさん。
ほら、今だって、そう。お堅いグレーのスーツにひっつめ髪。見栄を張った五センチのパンプス。飾りっ気どころか、化粧っ気までない私が、子どもの頃の空想の世界にやってくるなんて、どう考えたってあり得ない。
男もなく、特にこれといって華やかな趣味もなく、地味で目立たない……と、ここまで考えたところで、不意に何かの気配を感じた。
遠くのほう……草原の向こうから、動物の気配と人のざわめきが聞こえてきた気がした。
何だろう。
何か、嫌な感じがする。
だけど誰か人がいないかと不安になっていたのもまた事実で。
私はざわざわと音のするほうへと体ごと向き直る。
こちらへとやってくるのは、遊牧民族のような体のチュニックを身に着けた人々。馬の背にテントや水や食料をたっぷりと乗せているのが見て取れる。隊列の中には、途中で狩った得物だろうか、猪か豚のような動物を木の枝に括りつけて担ぐ者たちもいる。馬に乗っている者も、何人か。
私の空想の世界には存在しなかった、人々だ。
あれは……あの人たちは、いったい……
◆ ◆◆
遊牧民たちはあっという間に私のすぐ近くまで迫っていた。
彼らは楽しそうに言葉を交わしながら、賑やかな行軍を続けている。
いったい、どういう人たちなのだろう。どうしてこんなところを通りかかったのだろう。人っ子一人いない、このだだっ広い草原を。
敵意は……彼らに敵意はあるのだろうか。彼らが私に危害を保証はどこにもない。もっとも……その逆もまたしかり、なのだが。
見ていると、彼ら遊牧民の先頭で馬を緩やかに歩かせていた青年が、流暢な仕草で頭を下げてくる。
「あなたが、我らソリスタスの守り神となる御方か」
言葉が理解できるとは、何ともご都合主義な。ま…あ、そのほうがありがたいが。
「いいえ」
私はこの国の者ではない。いや、厳密には、この世界に属する者ではない。顔をあげて青年の瞳を真っ直ぐに覗き込む。黒い、黒曜石を思わせる眼はキラキラと煌めき、若さの象徴にも見える。馬上からこちらを見下ろす体はよく鍛えられているようだ。片手には槍を手にしているから、馬を駆るのはよほど長けているのだろう。
「それでは……お前は、何者だ」
青年の言葉遣いが瞬時に変化した。
だけど、横柄な物言いの中にも戸惑いと少しの気遣いが含まれている。
「わかりません」
私は言った。
事実、わからないのだから仕方がない。今の私には、自分を証明するものが何もない。この世界のことは何もわからず、最初に出会ったのが今、目の前にいる彼らなのだから。
「わからない、とはどういうことだ」
青年はなおも辛抱強く私に話しかけてくる。
だけど、わからないものはわからないのだから、仕方がない。
「わかりません。ほんのちょっとうたた寝をしていたら、気付いたらここにいたのです」
もしかしたら連れて来られたのかも、ということは言わないでおく。誰に連れて来られたのかもわからないのに、そんな曖昧なことを口にするのは混乱を招くかもしれない。
青年は訝しそうに私を頭のてっぺんから足先まで見渡した。
チュニック姿の遊牧民の彼らにとって、堅苦しいスーツ姿はさぞかし奇異な姿に見えるだろう。
「私は、レオン。異国から来ました」
嘘は言っていない。ただ、少しばかり事実を黙っているだけだ。
「おお。かの英雄、草原の疾風レオンと同じ名を持つのか。して、どこの国から来たのだ」
それもわからない。だけど、今は正直に伝える必要はないかもしれない。
実のところ言葉も通じている。だけど、状況がよくわからないのにペラペラと喋ってしまってもいいものやら。
「言葉もあまりよくわからないのです」
そんな風に私が告げると、青年はしばらく思案顔でいた。近くにいた仲間を何人か呼び寄せると、こそこそと何やら言葉を交わしている。
「我らはソリスタスの民だ。この先にあるエルクト砦を目指している。少し前から聖マリス国との小競り合いが続いている。今すぐにどうこうということはないが、少しばかりきな臭い事になりかけている」
わかるか? と、青年がこちらを見つめてくる。
「だから、お前のような胡散臭い者は女であっても見逃すわけにはいかないのだ」
わかるな、と声をかけられ、そこで私ははっと気付いた。
私の存在そのものが、彼らにとっては排除しなければならないものなのだろう、おそらく。
「え…えと、いえ、わかりません」
叶うことなら見逃してください。
私はまだ、この世界のことを正確に知らないのに。
だけど、聖マリス国との小競り合い、とは。
やはりここは、私の知ってる……いや、私が昔、空想しては遊んでいた、あのソレイユ公国に何かしら繋がっているのかもしれない。
「ソリスタスに害成す者を、野放しにしておくわけにはいかないからな」
害なんてどうやって成すことができるっての?
「憶測でものを言うのはやめていただけますか」
自分が置かれている状況もわからない、ってのに、害なんて。こっちはそれどころじゃない、っつーの。
それよりも、聖マリス国とは。私の空想の中では単なる山脈でしかなかった。国だなんて、思ったこともない。
「では、お前は自分自身をどのようにして証明するつもりなのだ」
わからない。
どうすれば私は、自分の身を証明することができるのだろう。
知り合いもいない、何とすれば周辺のことも、自分が今どこにいるかもわからないというのに。
「どのように証明すれば良いのでしょう。この不慣れな土地で、知り合いすらいない私が、どのようにすれば自分自身を証明することができると思われますか」
ぱっとしないグレーのスーツに、ひっつめ髪の二十七歳の女を助けてくれる男なんて、どこの世界にもいるわけない。それに私は、別に助けてもらわなくても……スカートの裾に指を這わせようとした私の目の端で、ソリスタスの民の一人が動いた。青年に
何か耳打ちをしている。
青年は耳打ちをしてきた老人の言葉に何度か頷き、それから私のほうへと視線を向けてきた。
改めて値踏みするように、頭の先から足の先までをじっと見つめられ、私は少し苛つきを感じた。
見ず知らずの男に値踏みされるなんて、屈辱でしかない。
「……わかった。では、そうするとしよう」
青年が声に出して最後に同意を示す。老人は満足気に笑みを浮かべ、私のほうへと近付いてきた。
「私は、ソリスタスの元国王でエルガー。お前さん……レオンとか言ったな、どこから来たのかまったくわからないのか」
エルガーはそう言いながら私の前までやってきた。
「はい、わかりません。元いた場所からとても遠く離れてしまったということはわかりますが、どのような方法でここにいるのか、さっぱりわからないのです」
これが、邯鄲の夢の始まりのようにも思えないでもない。
私はエルガーを見つめ返した。
嘘は言っていない。ただ、隠しているだけ。
エルガーはニヤリと人の悪そうな笑みを口許に素早く浮かべてから真顔に戻った。
「では、我らがソリスタスの国にしばらく滞在すれば良い。面倒はこちらで見よう。ただし、護衛を二人つけさせてもらう。なに、妙なことをしないか、見張らせてもらうだけじゃ」
そう言ってエルガーはこちらやなウインクを飛ばしてくる。
この人は、有事には頭が切れる人なのだろう、きっと。
「ありがとうございます」
私が頭を下げると、エルガーは「気にするな」と返してくる。
これで私は、二人の見張り付きではあったけれど、ソリスタスの客人として扱ってもらえることとなった……はずだ。たぶん。
「では、これで彼女のことについては片がついたのだから、早速エルクト砦へと向かおうではないか」
エルガーが背後の男たちに向かってそう声を張り上げると、彼らは腕を振り上げ声をあげた。
頼もしい行軍だ。
しかも女の私には徒歩は無理だろうと、馬が与えられた。二人の護衛のどちらかと相乗りすることになったが、パンプスで歩くのを回避できるなら、それで充分だ。
馬の背に揺られて数時間もすれば苦痛になってくるのだが、今の私にそんなことを想像するだけの余裕はない。
呑気に馬の背から見える景色を楽しむばかり。
目の端では、最初に声をかけてきた青年がこちらを気にしている姿がちらちらと見えている。明らかに怪しい私のことを警戒しているのだろう。
護衛の二人は無口だった。しかし物腰は丁寧で、どちらかというと親切なほう。疲れただろうと水や果物やちょっとした菓子をこまめに渡してくる。
一人はイーズル、もう一人はセルス。二人とも護衛士としてエルガーに支えている。
それからあの青年のことも、教えてもらった。コルタという名の彼は、護衛士よりもさらに上の守護士という位を持っているらしい。
他に、だいたいの地理についても話しをした。
ここはソリスタスという国で、地理的に見るとどうやら私の空想の世界にあったソレイユに近いようだ。東西南北はそのままで、ソレイユという国の名前だけがソリスタスという名にかわったような、そんな感じがする。
先ほども聞いたように、聖マリス国との小競り合いが続く砦を、エルガー元国王が直々に調査して回っている。コルタたちはそれに同行していると言ってた。
イーズルとセルスに言わせると私はラッキーだったのだとか。
ここ何年かは聖マリスの戦士たちがこのソリスタスの国を荒らしまわっているそうだ。粗野で乱暴で残忍な兵戦士たちは、ソリスタスの民を傷付け、奪い取っていく。金品や食料、そして女たちを。
私が知っている聖マリスの人たちはそんなことはしなかった。山脈の民、聖マリスの寧猛な戦士たちは実直と優しさを持ち合わせた人たちだった。
馬の背に揺られながら私は、まだ見ぬ、だけど知っているかもしれない人たちのことを考えていた。聖マリスの、戦士たちのことを。
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