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死神は窓際族 1話 ~死神はマスクをしない?~

作者: パパSE

 ペスト……、別名“黒死病”と呼ばれる感染症は、十四世紀に大流行し当時の世界人口のニ十ニ%である約一億人もの命を奪ったという。

 人から人へと感染し、やがて死に至るペストに当時の人はどれだけ恐怖しただろう。

 現代社会では常識である感染症予防の知識もなく、また識字率も低く、生活文化の違いにより正しい情報も得られず、ペストとわからず死んでしまった者や、迫害によって殺されてしまった者、怪しげな“まじない”のみでまともな治療も受けられず死んでしまった者もいただろう。

 いや、当時まともな治療というモノを受けられたのかも疑問だ。

 ペスト医師と呼ばれる当時の医者は、怪しげなマスクをして治療に当たった。

 そのペストマスクと呼ばれる、鳥の嘴のようなマスクには香草が詰められ、その香りがペストから守ってくれると信じられていたのだ。そして、そのペスト医師たちは蛭を使い患者から血を抜き取ることを治療と称し行ってきた。血のバランスが崩れたことが黒死病の原因と考えられてきたからだ。

 正しい医療がなかったことだけがペストを大流行させた原因ではない。

 ペスト医師達は怪しげではあったが、後世に意味のある仕事していた。ペストによる死者の記録だ。その記録によれば、死者の数には波があったようだ。死者が多くなったり、少なくなったりを繰り返したのである。

 それは、こんな理由だったと想像できるのではないだろうか。

 多くの者がペストで死ぬと、人々は恐怖し、病を恐れ、家に籠り、嵐が過ぎ去るのをじっと待ったのだろう。そして、死者が少なくなるとペストがなくなったと思い、恐怖を忘れて元の生活に戻って再びペストを移しあう。

 そう、現代社会とあまり変わりはしないのだろう。

 慢心は、恐ろしく罪深い。


 ……なら、俺のように“自分は平気、大丈夫”と思ってしまう馬鹿もいたんだろうな。

 金子はテレビに映った絵画を眺めながらそう思った。

 シングルベッドとテレビ、小さなテーブルの上にノートパソコンが置いてあるだけ小さな部屋だ。扉の向こうのキッチンには冷蔵庫と電子レンジ、炊飯器はなかったがトースターとケトルはあった。1DKのアパートだが、都心にしては珍しく安い家賃で大学を卒業したばかりの金子でも借りることができた。

 いや、金子の収入であればもっといい部屋も借りられたかもしれない。

 全国規模の商社に入社が決まった彼の収入は、同世代の比ではなかったし、テレビCMも多くうっているその社名を知らない人はまずいない。

 それでも、彼がもっと広い部屋や交通の便がいい部屋ではなく、この部屋に決めたのはトイレと浴室が別だったからだ。

 他にも利点があった。

 それが、今彼が眺めているテレビだ。

 独り身男性の部屋には不似合いなほど大きいテレビ。家賃が想定より安くなったために奮発して買った物だった。

 そのテレビには新型コロナの特集番組が映っている。

 新型コロナ……、二0一九年十ニ月に中国の武漢で発生した未知のウイルスだ。

 感染すると風邪のような症状が出て、肺炎を起こす者もいる。そして、疾病がある者や高齢者は重症化しやすく、死でしまう場合もあるのだ。今日七月二十日の段階で約六十万人が亡くなっている。十四世紀のペストの一億人と比べると少ないが、これは単純に医療の進歩だとテレビの向こうで専門家が言っていた。専門家はコロナとペストを比較しながら“死の舞踏”と呼ばれる絵画群についても紹介し、今テレビにはそのさまざまな衣装の骸骨が描かれたおどろおどろしい絵画が映っている。

 ……これは現代には流行らないか。

 金子は思った。

 この“死の舞踏”は、貧乏人はもちろん、富豪も権力者や宗教家も死からは逃れられないことをテーマにした絵画らしい。当時、ペストで死んでいく人間は職業も性別も、そして年齢も関係なかった。

 ……今回は違う。俺みたいな馬鹿から死んでいくんだ。

 金子はまだ死んでいない。

 だが検査の結果、彼が陽性であることが判っている。

 大企業への内定が決まったはいいが、自粛要請のせいで一度も出社することがなかった金子は、六月になって自粛が解除されるとすぐに、まだ会ったことない同期を集めて飲み会を開いたのだ。もちろん、全員がそろったわけではない。コロナを理由に参加を断る同期もいた。

 「自粛が解除されたのに馬鹿だろ」

 と当時は思ったが、今は彼らが正しかったと後悔している。

 飲み会そのものは問題なかったが、その後に二次会で行ったキャバクラがいけなかった。数日後に店から連絡があり、従業員の陽性が告げられたのだ。

 急いで同期と検査を受けた結果、金子だけが陽性だった。自分が指名したホステスが陽性だったのだろう。

「我が社の感染者第一号が新入社員の君でよかった」

 電話口で上司に言われ、当面の間は出社停止措置を受けることとなった。

 結局、入社して三か月以上が過ぎているが、一度も会社に出社していない。

 お給料に関しては、さすがに大企業、一円の減額もなく支給されている。しかし、六月までは同期全員がリモートでの自宅研修をしていたが、七月に入って他の同期は出社が許可されたのに自分だけがただ一人、自宅待機を命じられている。

「たった一人のために、リモート研修は行えない」

 権限が削除されたのか、自分のノートパソコンを通して会社の基幹システムへアクセスすることができなくなった。金子はやることもなく、ただテレビを眺めるだけの生活を送っている。無症状のため体力がありあまって仕方がない。

 盛大な飲み会を開催し、同期をまとめる立場になって、華々しい社会人デビューを飾ったにも関わらず、今では白い目で見られる。初めこそ、一緒になって騒いだ同期も、発起人である自分が何よりの元凶だと責めてくるようになってから、同期からの連絡はすべて非通知にした。

 仮に、再検査の結果で陰性になったとしても、出社する気にはなれなかった。

 だからと言って、会社を辞めて地元に帰ることもままならないだろう。

 自分が陽性になったことは、地元の友人たちにも知れ渡っていた。ネットで大企業の新入社員が陽性だったと話題になっていたのだ。しかも歓迎会を開いたためと。すぐに自分だと特定された。SNSに書き込まれる自分への中傷。アカウントはすぐに削除したが、その時には地元の友人にバレていた。ただでさえ、大企業へ就職が決まったことを鼻にかけて友人たちを見下したのだ。今回のことでみんな喜んでいるに違いない。

「CMの後は、都知事の会見の様子をお伝えします」

 テレビにハンバーガーの映像が映った。

 思わず腹が鳴る。

 ……何もしなくても腹は減る。

 金子は時計を見た。

 十九時。

 まだ人も多い時間だ。金子はもうしばらく空腹を我慢し、人通りが減ってから出かけることにした。


 湿ったバンズのハンバーガーを食べながら、金子は陸橋の下を走る電車を見ていた。

 陽性者なので部屋で食べるべきなのだろうが、テレビを見るだけの時間には嫌気がさしていた。それでも、常識的に人との接触を避けるためにハンバーガーは自販機で買い、人通りがほぼない陸橋で食べている。自動販売機にはハンバーガー以外にもあったが、先ほど見たCMの訴求力が素晴らしく、ハンバーガーを食べずにはいられなかったのだ。

 ……やっぱり、見せる順番かな?単純においしく食べる人の映像を最初に持ってきて、それから商品の映像を見せる。

 CMの映像を思い出しながら、自分ならどのように作るかを考えてみる。

 ……いや、意味ないか。

 考えてみたが、すぐにやめて再び足元を通過していく電車を眺めた。

 陸橋の下に見える電車は空席が目立つ。

 自粛が解除され、このまま元の生活に戻るかと思えたのに、再び感染者が増加したことで自主的に外出を控えたり、テレワークを再開したりしている影響だろう。

 それでも、平常通りに運航している鉄道会社には頭が下がる思いだ。

 ……なのに俺は…。

 今頃、新人営業マンとして色々な会社に顔を出している筈だった。頑張って、立派な営業成績を収めて、将来は広報宣伝部への転属願を出すつもりだった。大規模な商社にしては珍しく、広報活動を外注せず自前でやっている自社のCMは群を抜いていた。その制作に携わりたかったのだ。

 もちろん、仕事だけでなくプライベートも充実させるつもりだった。

 大きなテレビも、仲間と集まって遊ぶことを考えて買った。同期の中心になれるように飲み会だって企画した。

 ……なのに、なのに…。

 少しハンバーガーに塩味が加わった。

 それでも、食べる他なかった。

 ここは環状線を見下ろせる陸橋だったが、幸いにも人通りはないに等しい。電車からも、ちょうど速度が速い区間のため人影を確認できる程度だろう。

 食べ終わってからも、彼はしばらくそこにうずくまっていた。嗚咽を漏らしながら、目を真っ赤に腫らせ、自分の中にある感情を出し切ろうとしていた。

 どれほどそうしていたかわからない。

 日が暮れてだいぶたっていたが蒸し暑く、体力を使ったせいもあるのか体が怠く重い。汗をかいて張り付くシャツがさらに気持ちを滅入らせた。

 時間を確認するために、スマホを見ると非通知にしたはずのアプリに新着を知らせるマークが付いていた。

「・・・」

 普段なら見ないはずなのに、弱っていたからか思わずタップして開いてしまう。

 それは、同期のOJTが開始されたことを知らせる内容だった。

 さらに、自分が八月一杯までの自宅謹慎が続くことが書かれている。どうやら、九月の中途入社組と一緒に研修をやるようだ。

 全国六000人いる従業員で唯一の陽性者。

 しかも、自分の慢心のせいで自分だけでなく多くの感染者を出していたかもしれない。

「新入社員の君でよかった」

 新入社員だから業務に支障はない。

 新入社員だから客先との接触もない。

 新入社員だから休業中の給料も少ない。

 上司に言われた言葉から、次々に嫌な言葉が頭に響いてくる。

 いや、上司の言葉じゃなかったか。

 ネットに書き込まれた中傷だ。

 人の迷惑も考えない、自分勝手な若者。そう書き込まれていた。すでにアカウントは削除したが、それまでは数分おきに自分への書き込みを知らせる通知が鳴り続けていた。もしかしたら、家まで誰か来るのじゃないかという恐怖心もしばらくは消えなかった。

 自分への中傷だけならまだいい。自分を採用している会社を叩く書き込みや、不買を呼びかける書き込みもあった。自分がコロナになったせいで、会社に迷惑をかけている。

「新入社員の君でよかった」

 会社にとって不要な存在。

 社会にとってもいらない存在。

 むしろ、コロナを蔓延させる自分勝手な存在。

「もう無理だ」

 その衝動は陽性反応が出てからずっと続いていた。なぜ自分だけという思いと、それを上回る自業自得という念。

 もう、止められそうになかった。

 落下防止用のフェンスに飛びつき登る。環状線の乗客は少なくなっても、本数は変わらない、数分置きに走り抜けていく。少しフェンスは高いが、登り切ってタイミングを見て飛び降りれば楽になれる。

 そう思った時だった。

「飛び降りるの?」

「え?」

 金網を半分ほど登ったところで急に声をかけられたのだ。

 顔と体をひねり、後ろを見ると禿げた頭がある。頭頂部にまばらに残っている髪が哀愁を誘い、その人物の年齢を容易に想像させた。

「飛び降りるの?」

 禿げた男はもう一度聞いてきた。

「え、いや、そういう訳じゃ」

 突然のことに金子はびっくりして、思わず嘘をついてしまった。

「違うの?散々泣いてスマホ見ていきなりフェンスを登り始めたら、普通は飛び降りでしょ?」

「見てたんですか!?」

 あまりの恥ずかしさに顔が赤くなるのが分かった。と同時に、自分が食べるためにマスクをしていなかったことを思い出し、慌ててポケットに手を入れる。それがいけなかった。片手だけで体を支えられず、背中から落ちてしまった。

「ぎゃっ!」

 悲鳴は自分のものではなく男の物だった。体も痛くない。男のメタボな腹は冷やりとしてクッションには充分だった。

「す、すいません」

 急いで男から降り謝る。

「いやいや、だいじょうぶ大丈夫。それより、飛び降りるんでしょ?」

 男は腹をさすりながら起き上がると、再び聞いてきた。答えられない金子にかまわず、男は続けてくる。

「飛び降りるなら、その魂を私にいただけません?」

「は?魂?」

 突然、禿げたメタボ男が現れたことも、魂を欲しいと言われたことも理解できなかった。

「ああぁ、すいません。私、こういう者です」

 男はそう言って名刺を渡してくる。

「…死神、死魔 魂搾…?」

「はい、死神です」

「え、いや、えーと…」

 横目で周囲を確認する。

 誰もいない。助けは求められないから、一目散に走って逃げるしかない。

「あれ?信じてくれないんですか?」

 当たり前だと思った。初対面でいきなり死神と言われたら、しかもどう見ても中年のオヤジだし、ご丁寧に名刺とセリフまで用意して、頭がおかしいとしか思えない。

「いやいや、そこは信じてくれないと。と言うか、中学生の頃“俺の左目は邪眼!悪魔と魔人を見破る!”と豪語してたのに、死神ぐらい…」

「ちょ、ちょっと待ってくださいっ!なんでその話を知ってるんですか?」

「そりゃ、死神ですから。あなたの記憶を探るぐらいできますよ」

「…っ!」

 そう、金子は中学生の時には重度の中二病だった。

 わざわざ蛇の紋章が入った眼帯を左目にして登校し、男が言っているようなセリフを恥ずかしげもなく言っていた。

「いや、あなたの気持ちもわからなくはないんです。だって、死神と言ったら黒いフードとローブに大鎌でしょ?わかるんですよ、その先入観。だから本当は支給してもらえるんですが、それら着て持ってると、最初に声をかけた時に逃げられて、さらには警察まで呼ばれてしまって…。なので最近は仲間内でも普段着の人が多くって」

 ワイシャツにスラックスが死神の普段着なのか。メタボに膨れた腹でベルトが半分も見えていない。きっと、この腹で黒いローブをまとっても、その腹は隠せず死神の姿には見えなかっただろう。

 ……あれ…?メタボなのに…?

 今日は日が差さなかったとは言え、日中は三十度を超え夜も若干蒸し暑い。それなのに、男は汗をかいていなかった。そのはち切れんばかりのワイシャツの脇も、汗染みができている様子はない。金子でさえ、シャツが肌に張り付くほどの汗をかいているのに、男の体形で汗をかかないことは信じがたかった。

 先ほど、男の上に落ちた時に冷たい感触を思い出し、今になって背筋がぞっとしてきた。

「もしかして、話を聞いてくれる気になりました?」

「え…、あ、はい…」

 男は金子の返事を聞いて満足そうに笑った。

「では、ここで立ち話もあれですし、あなたのお部屋でゆっくり話しましょう」

 金子は促されるまま歩き始めた。

「ところで…」

 男は不愉快そうな顔で金子を見る。

「あなたコロナ感染者ですよね?マスクぐらい着けて貰えません?」

「死神なのに、コロナ気にするんですか?」

「当たり前です。感染予防のために、まだテレワーク中なんですから!」

 ……死神がテレワーク?よくわからない死神だ。

 そう思いながら、金子は渋々マスクを身に着けた。


「死魔さんに願いを叶えてもらう代わりに、魂を差し出す…、要はそういうことですか?」

「そうです」

 死魔と名乗る男はこともなくそう答えた。「あ、魂搾でいいですよ」と続けて言ってきたが、そこは無視することにした。

「その話、どこかで見たことがある。昔、タモリさんが出ていたドラマだったかな。死神と契約すると、一日だけ時間を戻してやり直せる奴ですよね?」

 確か、そのドラマでは一日だけやり直すことで、生への執着が生まれてしまい死神といざこざが起きるのだったが、最後はどうなったのか思い出せない。もちろん、自分の場合は一日だけ戻されても、自宅謹慎している、今日と何も変わらない日を繰り返すだけだが。

「あ、時間戻してやり直すのはできません」

「え?」

 思わず間の抜けた声が出てしまった。

「時間戻す奴はあれです。もう少し位の高い死神じゃないとできないんです」

「位って何ですか?」

「死神も成績によって能力が変わるんです。残りの寿命と引き換えに他の人の名前がわかったり、寿命が確認できたりする特殊能力を得られたり、誰かを呪い殺したり、霊体となって現世に残れるようにしたり…」

「す、すごい!」

「ってのは、ただの死神にはできません」

「は?」

 再び間抜けな声が出てしまう。

「先ほど名刺渡しましたよね?」

 ポケットの中にしまった名刺を確認する。

「死神としか書かれてないでしょ?さっき言った時間を戻すとかは“死神長”とか“ゲートキーパー”じゃないとできないんです」

「…」

 確かに男から貰った名刺には“死神 死魔魂搾”とだけ書かれている。改めてよく見れば名刺としては不十分だ。連絡先が書かれていない。

「で、おっさんは何ができるの?」

「走馬灯をお見せするのか、誰かの枕元に立って別れの挨拶かお選びいただけます」

「…」

「死神の基本能力です」

 金子があきれているのにも関わらず、男は胸を張って言ってきた。

「それ、だけ?」

「それだけってなんですか?なんか走馬灯なんて誰でも死ぬ時に見れる風潮がありますけど、あれは全部、死神と契約した人だけが見れるんですからね!」

「知らねぇよ」

 思わず言ってしまった。

「一応、聞いておくけど、おっさんに魂を渡すとどうなるの?」

 そこは重要だ。

 地獄に落ちるのか、それとも輪廻の輪から外れて転生できないのか。

「私のポイントになります」

「…」

 もう、聞き返すのも疲れた。

 どうも、この男が死神だということが信じられなくなってきた。

 先ほど、金子の部屋に入る時も普通に「お邪魔します」と言って靴を脱いで入ったし、金子が入れた麦茶を遠慮なく飲んでいる。

 ただ、薄ら禿でメタボなおっさんにしては不快な加齢臭がすることはなく、吐く息も無臭だ。靴も臭くない。それに、彼と一緒に自分の部屋まで来る間に何人かの人とすれ違ったが、誰も男の存在に気付いているようには思えなかった。自分だけが男を見えているように思えた。

 ……しかし…。

「それで、金子さんはどちらにしますか?」

 男は金子の考えなどお構いなしに聞いてくる。

「金子さん、まだニ十ニ歳ですもんね。走馬灯より、お世話になったご両親の枕元に立って別れの挨拶の方がおすすめ…」

「あ、やめる」

「へ?」

 今度は男の方が間抜けな声を出した。

「だから止める」

「や、止めるって何を?」

「自殺するの」

「ええぇ⁉」

 男は大袈裟に驚いた。

「な、なんでですか?大企業に就職したのはいいけど、コロナのために入社式もなく、リモート研修だけで会社にも行けず、その挙句、自分がコロナリスクを理解していないせいで、自分が陽性になるだけならまだしも、他の同僚も危険にさらしたというのに!しかもしかも!自分はリモート研修が中断されているなか、他の同期はみんなOJTが始まっている!もう、自殺するしかないでしょう?」

 いちいち言うことが耳に触った。

 いや、すべて真実ではあるのだが。

「何でですか?」

 男がもう一度聞いてくる。

「なんていうか、おっさんと話してて気が抜けた」

 金子はそう答えた。

「まぁ、確かにおっさんが言った通りなんだけど、さっきの同期からの連絡には九月からの途中入社の人と一緒に研修できると書いてあったし。でも、やっぱり一番の理由はおっさんと話して気が抜けちゃって」

 自殺するのにも相当な覚悟がいる。少なくとも、今の自分の精神状態はそれとはかけ離れている。それもこれも、この男のせいなのだが。

「はぁ…」

 男はそれを聞くと大きくため息をついた。

金子が出してくれた麦茶を一気の飲み干すと、ゆっくりと立ち上がる。明らかに元気がない。

「あ、なんかすいません」

 金子は思わず謝った。

「いいんです。慣れてますから…」

「慣れてる?」

「はい」

 男は玄関まで行き靴を履き始めた。金子も玄関まで行きその様子を見つつ、話しを聞いた。

「皆さんそうなんですよ。自殺しようとしている人のところに行くんですが、死神のシステムを説明しているうちに金子さんと同じ様に“自殺するの止めます”って大半の人が…。どうしてなんでしょうね」

 おっさんじゃ緊張感とムードがないから…。と言いそうになるがやめておいた。ただ、寂しそうな男の背中を見ていると、何かを言わないといけない気がした。

「向いてないんじゃない?」

 言うのをやめた言葉と何にも変わらない。

 ただ、男はそれも言われ慣れていたのかも知れない。金子が言ったのを聞いて、なんとも言えない笑顔を浮かべ、「お邪魔しました」と言ってドアを開けて出て行った。

「…」 

 ドアを開けて出ていくとは、やはり死神ではないのかも。金子はそう思って、急いでドアの外に出て男を追った。しかし、男の姿はどこにも見当たらなかった。念のため、アパートの一階まで降り、周囲を探したが男が見つかることはなかった。

 再び、男の上に落ちた時の冷たい感触を思い出し、背筋がぞっとする。だが…。

「死神というより、天使じゃね」

 結果的に、自分を自殺から救ってくれたのだから。

「おっさんの天使なんて嫌だけど」

 いや、おっさんの死神も嫌だ。

 死神はおしゃれでないと。


「うん、わかった。うん、そうする。うん。じゃあ」

 金子はそう言って電話を切った。

 両親への電話だ。仕事を辞めて実家に帰るかもしれないことを伝えたのだ。しかし、両親からの返事は期待していたものと違った。

「こっちでは三ヶ月も新規感染者が出ていない。お前が来ることで誰かが感染するとすぐに噂は広まってここに住めなくなる」

 要はもう帰ってくるなということだ。

 確かに、もう自分が陽性だったことは地元の友人にも知れ渡っている。それどころか、ネットに自分のことが書き込まれたせいか、抗議の電話が実家に掛かってきていたらしい。田舎町だったからか、直接的な嫌がらせはなかったようだが、近所の人からは「息子はこっちに帰ってこないでしょうね?」と責められていたようだ。

 実際のところ、金子はすでに再検査で陰性が出ている。病院から陰性証明書も貰った。おそらく人へ移すことはもうないはずだが、そこは気持ちばかりが先行して正しく判断できないのかも知れない。

 ……それを自分に攻める権利はない。

 自分だって、正しく状況を判断しないで陽性になってしまったのだ。むしろ、間違った判断でリスクを冒した自分より、不必要とは言えリスクを避ける彼らの方が現状を考えると正しいのではとさえ思える。

 ……やっぱり、地元には帰れない。

 かと言って、このまま会社に居続けるのも難しそうだ。

 今日、金子は初めて会社へ出社した。

 いや“行った”の方が正しいかも知れない。

 再検査により陰性がわかり、その証明書を提出しに会社へ行ったのだが、始業時間とはずらした時間を指定され、人の出入りが少ないフロアの会議室に通された。

「辞表は持ってこなかったのか」

 陰性証明書の提出と一緒に、九月からの研修日程が説明されているものだと思っていたが、上司の口から出た言葉は全く異なっていた。

「同期から聞いてないのか?九月の中途入社組と研修やると。できると思ってるのか?うちの会社、中途入社は相当優秀な人物しか採用しない。リモート研修しかやってこなかった君が、研修についていけると思ってるのか?コロナの状況だけじゃなくって空気も読めないとは…」

 何も言えなかった。

「陰性証明書は預かるから、今日はもう帰りなさい。今後のことは、よく考えて答えが出たら連絡を」

 それからどうやって家まで帰ってきたのか覚えていなかったが、会社に残れるものだと思っていた自分の浅はかさを呪いながら、実家に電話を掛けたのが先ほどのこと。

 本当なら退職を勧めてくる会社のやり方に両親から抗議があってもいいものだが、それはコロナ禍という異常な状況だからなのか、何か言ってくることはなかった。いや、息子が愚かにもコロナにかかってしまった後ろめたさからかも知れない。

 会社にも居られない。

 地元にも帰れない。

「……やっぱり、死んじゃおうか…」

「なら、私に魂をくれませんか?」

 男が待ってましたと言ってきた。

 いつからいたのか、当たり前の顔で麦茶を飲んでいる。しかし、金子も驚くことはなかった。なんとなく、近くにいる気がしていた。

「地元に帰れるならまだしも、このまま東京で再就職が決まりますかね?一流企業を一度も出社することなく希望退職。どう考えても問題を起こしたってすぐにわかりますよね。ネットで調べたんですけど、金子さんのこと話題になってましたね。そんな人を雇ってくれる会社があるかどうか。能力があるのならともかく、何にもできない新人と変わらないのに。コロナでどこも不景気。あ、どこかのオリンピック選手みたいにウーバーイーツでもやりますか?って、コロナ陽性だった人にご飯持ってきてもらいたくないですよね」

 男の言葉は聞こえていたが、ちゃんと理解できている感覚はなかった。ドロドロした何かが体全体を包みこんでくるのだけがハッキリとわかる。

 思えば、コロナの陽性がわかっていいことがあっただろうか。会社の目、同期の目、親の目、どれも冷たかった。ネットでも会ったこともない人から責められ続けた。

 ……ああ、そうか。このおっさん死神なんだった…。

 なら、もういいのかも知れない。

「走馬灯で」

「え?」

「選ぶの、走馬灯でお願いします」

 両親にはもう電話した。

 他に別れを言いたい人がいるわけでもない。

「走馬灯で…、いいんですね?」

 男は少し不満げだったが、金子が頷くのを見ると「わかりました」と返事をした。

「ちょっと準備するので待っててくださいね」 

 男はそう言うとカバンからノートパソコンを取り出す。

「大きいほうがいいですから、テレビ借りますよ」

 金子の返事を待たず慣れた手つきでノートパソコンとケーブルを繋ぐ。死神とかけ離れたその姿、しかし金子はそれに違和感を覚えることもなくテレビに映しだされる映像を眺めた。


 自分が生まれた時の写真。

 両親の笑顔が胸に刺さる。

 小学生、中学生のころ。仲間と馬鹿なことばかり言っていた。

 高校生。この頃からマスコミに興味を持ち始め、大学はマスコミュニケーションを専攻した。

 そう、その講義の途中で、今の会社のCMを見たんだ。

 外注することなく、そして低予算で、それでいて印象に必ず残る内容。

 同じ講義を受けている仲間には不評だった。確かに、おしゃれな感じは全くしない。それでも、CMとしての役目は充分に果たしていたことに感銘を受けたのだ。

 こんなCMを作りたい。

 そんな思いで今の会社を受け、内定をもらった時の喜びは相当だった。それは、今テレビに映し出されている、内定証明書と自分が写った写真からも伝わってくる。

 気が早く、自分で考えた絵コンテを持った写真。もう、それが日の目を見ることはないのだろう。


 そこで、映像は終わった。

 短い走馬灯だった。

 思わず涙が流れる。

 最後のコロナ騒動を抜いてくれたのは、ただ単に写真がなかったからなのか、男の優しさだったのか。

「いやぁ~、うれしいですね」

 男はパソコンを片付けながらそう言った。

「実は私、魂いただけるの初めてなんですよ」

「え?」

 思わぬ言葉に金子は耳を疑う。

「死神をやってずいぶん経つのですが、一向に魂を頂けなくって。上からも“もうやめろ”なんて言われてるんですよ」

 死神に年齢があるのかわからないが、男は中年から初老の間だと思えた。どれだけ死神をしているのか分からないが、今日まで一度もと言うのは相当不出来な死神ということになる。

「なんで続けてるんですか?」

 走馬灯の余韻が不躾に破られたからか、金子は遠慮なく聞いた。

「そりゃ、夢だったからですよ」

「夢?」

「ええぇ、変な話ですけどずっと死神になるのが夢だったんです」

「…」

「だから、どんなに馬鹿にされても、上にどやされても、辞める気はさらさらないですよ。かっこ悪いかも知れません。役立たずかもしれません。自分勝手なのかも知れません。それでも、自分がやりたかったことですし、誰かに迷惑をかけている訳じゃないですから」

 男の笑顔は満足げだった。

「あなたにも夢があったからわかるでしょ?」

 ……夢…。

「さてさて、じゃぁ死にましょうか。どうしましょ、最初の通り、飛び降りにします?せっかく家ですから、ガスによる自殺?いっそ放火しますか?契約してくださった人が起こした火事なら、それで亡くなる人の魂は私の取り分になるので」

 ……ああぁ、そうか。

 何故、前回男と話していると死ぬ気が失せてしまったの分かった気がした。

 だが、もう遅い。

 金子はあふれ出る涙を止められなかった。

 もう、彼は男と契約してしまったのだから。

「金子さん…?」

 男は泣く金子を見て困った顔をした。

「すいません。でも、もう駄目ですよね?走馬灯を見せてもらいましたもんね。契約したんですもんね」

 ……生きたい。

 まだまだやりたいことがある。

 あの絵コンテを、まだ会社の人に見てもらってない。

 コロナになったのは確かにいけなかった。でも、誰かに移してはいない。ネットで散々叩かれているけど、それがなんだ。その人たちに迷惑をかけた訳でもない。

 やりたい事があるなら、夢があるなら、もっと頑張ってもいいんじゃないか。まだまだ、頑張りが足りてないんじゃないか。

 ……だから。

「生きたい。生きたいんです。死魔さん」

 金子の言葉に、男は諦めた顔をした。

「…わかりました」

「え?」

「契約は不成立ということで…」

 男はいそいそと荷物をまとめ始める。

「いいんですか?もう走馬灯を見せてもらったのに」

「あれ、走馬灯じゃないですよ?ただのパワーポイントです」

 驚きのあまり声が出なかった。

 確かに、パワーポイントのスライドショーだった。すべて、自分が知っている写真だった。

「だって、走馬灯と言ったら死ぬ直前に見るものでしょう?なのに、ゆっくり見てから死ぬっておかしいでしょう?」

 言われてみればその通りだった。

「あなたみたいに若い人の場合、走馬灯を選ぶんですけど、それを見てから急に生きる活力が蘇る人が多くって。本契約した後、クーリングオフで契約解消されると物凄いペナルティなんですよね。だから、契約前に仮走馬灯としてパワーポイントを用意してるんです」

 男は深いため息をついた。

「何で皆さん、死神を目の前にして生き生きされるんですかね?」

「それは…」

 金子は笑顔で答えた。

「死魔さん、あなたが一番生き生きとしているからですよ」


「いやぁ、よかったですね。研修を再開してもらえて」

 いつものごとく突然話しかけてくる男に、金子は驚きもしなかった。

 長い梅雨のせいで湿気が重くまとわりつくが、男はいつも通り汗一つかいていない。

「はい。死魔さんみたいに図太くなったかいがありました」

「図太いなんてひどいですね!」

「いや、どう考えても図太いでしょ」

 金子は笑って言い返した。

 今日、再び会社に出社した。

 対応してくれた上司は、予想していた辞表ではなく、CMの絵コンテが出てきたのを見て面食らったようだった。金子はまずは自分の不注意でコロナに感染し会社に迷惑をかけたことを謝罪し、それでもどうしてもこの会社で働き、広報宣伝部で渡した絵コンテのようなCMを作りたいと訴えた。そして、認めてもらうまで必死に働くので会社に在籍させてほしいと。

「うちの会社のCMを気に入るなんて、よほどの物好きだな。中途採用との研修は通常よりきついぞ」

 上司は苦笑いをしながら、金子の希望を受け入れてくれた。もちろん、上司の本音は希望退職でなければ今後の採用活動に影響が出てしまうため、本人のやる気がある以上は在席させるしかないからだ。ドラマのように簡単には社員をクビにできないのが現実だ。

 しかし、そんなことは金子には関係ないことだった。もう一度、夢に向かって進めるのなら、どんなに辛くっても頑張れるはずだ。死神と名乗っているのに、一つも魂を奪えていない男だっているのだから。

 そう、金子は男との出会いに感謝していた。男と出会っていなければ、このコロナの状況を抜け出すことはできなかっただろう。

「そう言えば…」

 コロナで一つ気付いたことがあった。

「死魔さんコロナを気にして私にマスクを要求しましたけど、あなた自身はつけていないんですね?」

 金子がそう言って男の方を向くと、そこには誰もいなかった。先ほどまで確かにいたはずなのに。

 それでも、特に驚きはしない。

 何故なら、

 ……彼は死神なのだから。

 男がいた場所は僅かにひんやりとしている気がした。



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