5
「君は誰?」
名も知れぬ女が言った。7日前まで首がなかった女。否、その声の低調さが男性特有のものであったことに少女は気がついた。
「わ、私の名前は・・・・・・」
脳裏に浮かんだ言葉で応える。
「エゴ」
不自然なことにこの単語以外の言葉が浮かんでこなかった。
「そう、俺はよく名前を変える方だけど、今は伊佐知葬月と名乗っているよ」
「俺ったらこれまでとても長く生きてきて、自分の頭から声が聞こえるなんて初めてのことだから、こう見えて結構驚いているんだぜ?」
そう言って男は長いお下げ髪を解いて、黄色い布製の髪留めを大きめの水溜まりに浮かべた。水溜まりに写った顔は女の顔をしていた。
その一通りの所作のうちに、男の言を裏付けるような動揺は微塵も感じ取ることができない。男の内部でその情動のすべてを感じ取れてしかるはずの声、つい7日あとまで少女だった何かはこのとき男の体内で自らの名を忘れた。
「伊佐知さん、ここから逃げた方がですよ」
気がつけば言葉を使っていた。少女は異国とも異次元ともつかないこの場所で同じ言葉が通じるという奇跡に目頭が熱くなるのを感じた。
「7日後に死に神がやってきます。貴方はその死に神に首をはねられて・・・・・・」
言葉の最後は震えていた。唯一の友達に自死の命令を下したときのように。
「はねられて?」
男は半分惚けたように、本当は何の関心もそそられていないのだというような体で聞き返した。
そう言いながら、男の片目には少女の心象を反映したかのように微かな涙が伝おうとしていた。金色の左目、と銀色の右目が水溜まりの中で意思ある者のように妖しげな光を帯びているのに少女だけが気がつくことが出来た。
少女は咎人に死罪を言い渡す閻魔じみた口調で言い足した。
「死んでしまいます。」
伊佐知葬月は自分の顔から右斜め上の空中に焦点を合わせて考え込むような仕草をした。
「死なないよ。俺はそんなことじゃ。」
「実は首から上が胴体とさよならするのは、一度や二度じゃ足りないくらい経験してる」
「それでも俺は死んでない」
伊佐知は額に手を当てて下を向き、エゴの記憶を探った。
「なるほどね。エゴ。君は時間を明日から今日に帰ってこられるっていうことだな。俺と一緒に。それで・・・・・・死に神っていうのはあいつのことか」
「エゴさん、もう少し遡れるなら。そうだな、これ以上前には行かない方がいい。見たくないものばかり見ることになるからな。」
エゴは伊佐知の中で首を傾げた。疑問を感じるよりも先に少女は発見することになったのは、自分に課された制限が思ったよりも重くないということだった。
自分が伊佐知の身体を動かそうとするとそれを自分の意図した半分くらいの精度で実行することが出来るのだ。
男の意図しない方向に視界が30度傾くのを感じることが出来たことで少女は確信した。なるほど、覚えておこう。少女は欠伸混じりにこの事実を看過する伊佐知を見て微笑むと伊佐知の右頬がかすかに歪んで、にやつくような笑顔を作り出したのを感じ取ることが出来た。
エゴにはぬぐえない疑問がいまだに多くあった。思いを巡らせると止まらなくなった。
いっそのこと伊佐知に聞いてみるのもいいかもしれない。まずは、自分の気持ちを整理して、考えにふけるとしようか。
(それにしても、この世界は何なのだろう?遡った7日間で一人の人間とも会うことがなかった。それに・・・・・・)
(伊佐知葬月と名乗るこの男、五体満足な身体、胴体に腕が2本、足が2本、頭が1つがくっついているだけで、あれじゃまるで神話に出てくる戦神そのものだ)
伊佐知の頭の中で考えれば考えるほど、伊佐知の中で澱のような不快な気持ちが積み重なっていくのを感じることが出来た。
頭痛にでも見舞われたかのように眉根に皺を寄せて、伊佐知が口を開く。
「エゴ、もうしゃべらなくていいよ。俺の頭の中にどうかいないものとして振る舞ってくれ」
「これからあいつが来るんだろ。心の調子を整えて身を清めたい。調達したいものもあるしな。今の装備じゃ歯が立たないかもしれないから」
伊佐知はそう言って今まで来た道を引き返し始めた。ゆっくりとした足取りで。しかし、その足運びは力強く、武人らしい健脚を思わせた。
「事実、死んだみたいだし」
伊佐知はそう言って、心地よさそうに微笑んだ。そんなことはたいした問題じゃないとでも思っていそうな軽快な笑顔だった。
「ここから南に3里行った場所に高嶺政信公が治めていた村落がある。あそこまで引き返して装備を調えよう」
エゴが瞬時に疑問の言葉を伊佐知の脳内にはじき出した。
「路銀はあるのですか?」
命令に背いてつい口を挟んでしまったが、伊佐知は予期していたように即応した。
「俺には必要ない」
エゴは再び首を傾げたくなった。
「まあ、行けば分かる。特別待遇というやつさ」