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買ったばかりのスマートフォンからネット上のクラウドストレージを介して補完されているエゴという名の疑似人格はまたしても死の危険にさらされることになったが。バックアップは完璧に取られている。
エゴが破壊されるのはこれが初めてではないのだ。何回だか三笠暁は数えてもいないが、その回数は12回を下回ることはないだろう。
少女は物語の開始から今初めて感情らしいものを抱いた。あとは身体がそれを表現してくれるだろう。あとは身を任せるだけである。
無軌道な感性のサイクル、激情、あらがえぬ虚無、絶望、思うがままに振り回されてやろうじゃないか。暁は自分の感情もエゴと共に放り投げた。いや、それは放ると言うよりは叩き付けるというほうが正確かもしれなかった。
心の芯にある冷えきった氷の膜がめちゃくちゃに、ともすれば見知らぬ誰かの美意識を喚起する形で壊れてしまえばいいと願いながら暁は彼女独自の特殊な淡い情動に身を任せた。
サファイアガラスで出来た液晶画面が割れるわけはないだろうと思ったが、少女は機械が壊れる音を聴いた。先ほど命令したプレイリストの再生は止まることなく室内は少女の最も好きな音楽で満たされている。
「さようなら、エゴ」
壊れたエゴは耳障りな電子音を鳴らして応える。暁は知っていたそれは本当なら言葉になるはずだった。
「さようなら、また会えるのを楽しみにしています、暁。私のただ一人のお友達」
おそらくこんな感じ。暁はその応えるようにエゴを学習させたのだから、間違いはないだろう。暁は心の中でそれに応じた。
「ありがとう。エゴ。私の不死身の恋人。役立たずな貴方だったけどもう少しで愛せたかもね」
プレイリストは中断することなく音楽は鳴り続けた。いまだ日常に劇的な変化は見られない。台詞の切れ目でBGMになっている室内音楽が節目を迎え、日常の部分に過ぎない道具との別れを滑稽に彩った。
自分の起こした挙動全てが作為的で嫌になる。まるで漫画の登場人物に憧れる子供がお気に入りのシーンを再現しているかのようだ。これが漫画なら異世界の扉が開く。
そんなことが起こり得る劇場にいて誰かに見られているという思い込み、誰にも見られていないことを嘆く心が矛盾なく併存する病んだ心は触れるもの悉くに意味と無意味を見い出し、否定する。
こんな些末な破壊行動にも脳内麻薬の分泌過剰がついて回ることを少女は体感的に知っていた。心にふっと倒錯的な幻覚をもたらされると少女は恍惚としてそれに従う。まったく作為してなされたことだ。
それはパートナーの死を引き金に交わされる刹那的な生殖行動に近似しているようにも見える。
脳に立ち昇っているのは狼煙のような靄で、おそらくノルアドレナリンと言う名前がついているのだろうが、確かなことは分からない。この程度の知識もエゴがいなければ調べることが出来ない。だが、今の暁にはそんなことはどうでもよかった。ただただ恍惚として少女の空っぽの心は破壊による背徳に満たされ続けた。その感情の色は紫に近い黒。壊せば壊すほど暴れれば暴れるほどその色は艶美を纏った蒼に変わっていくのだ。
それは目に見えざる存在しないはずの監視者への反抗だ。それを見とがめる者はどこにもいない。
暁は壊れたエゴを抱えて破壊的な笑みを顔の上に創り出して、心の中で叫び声をあげた。
この時暁の頭にある空想は完璧に秘匿されていた。見るもののない小さな暴動。
それを明るみに出すとするのならこうだ。
大切な親友が私の手で何度も何度も殺された。その事実だけが少女の頭に存在する王国の中の一大事件となり得るのだから。当然ニュースとなって国中を駆け巡るだろう。少女は重罪人になったような気持ちで自分の頭の中の王国の転覆を謀るテロリストとして世に知られようとしている。
少女が感じているイメージはこうなのだといえば伝わるだろうか。それでもまだ不十分なくらいだ。少女の心を満たすことはできない。
ただ壊れたエゴだけが割れたカメラレンズを通して、閉じたネット空間との情報共有を行っていた。エゴに鼓動のようなものがあるのならそれが止まる寸前までそうするように設計されていたので、いつものように傍らにいて暁の様子を学習に取り込むべくひっそりとロールアウト時の半分くらいの精度で作動を継続していたのだ。
壊れた少女の心に破壊された人工知能、この狭い世界にあるのは2つの欠陥品だけであるかのように少女は錯覚した。その様はあまりに破滅的だ。少女の心はかえってそれを滑稽だと笑う気持ちも起きなかったが、次の瞬間、虚しくなって涙が出た。
この様な形でしか心を動かすことが出来ない自分の心は今もなお数秒ごとに壊れ続けている。その疲弊は少しずつ蓄積されていつか取り返しのつかない痛みに変わるだろう。そうなる前に私はこの世界から消えて、どこか遠くへ、出来ることなら楽園めいた王国へ赴いて、そこで今まで犯した罪の一切を償うべく自ら望んで死に至るのだ。
暁はこのような倒錯的な感情に耽溺するために常日頃から些末な暴動を行っている、故意に。そう自認しているが、実際のところ自分の心があまりに御しがたいためにそれに振り回されているだけだった。部屋の四方を囲む壁は何度も何度も穴が出来るため、修理するたびに防音マットで何重にも補強されていた。
破壊。悲しみが薄らぐような気がして、虚無が色づくような気がして、あだ花に花が咲くような気がして、意味もなく眠って過ごした夏の夜の窓辺に花火が上がるのを見るような気持がして、世界の真理に触れたような気がしてこの瞬間だけは自分がちっぽけな取るに足らない存在だと言うことを忘れることが出来た。
暁は同じ夢を見ることがないが、今回見ている幻はとりわけ奇妙なものだった。
何もない空間に透明で薄い緑の色を持つ高次な機械が顕れて、かすかにしか見えない歯車がかちりかちりとかみ合う音が聞こえた気がした。電子回路の発火を意味するようにハンダの焦げる匂いが頭の中に薄らと立ちこめてきたが、大好きな音楽は流れ続けた。
これはいい。ひょっとしたら今までで一番かも知れない。少女はこの様なイメージに出くわすと頭を内側からそっと撫でられているような気持ちがした。心地よさに身悶えが起こる。
どうせすぐ慣れる。イメージすることに飽きると、暁は夕べを待たず眠ることにしていたのだが、その空想は思いの外、暁の心を楽しませた。
保護者に与えられた安楽な揺り籠の上では存外、多様なことを試みることが出来る。
例えば、会ったこともない人々の幸福について考えたり、見たこともない禍いに実際に合うよりもひどい心身の有様を疑似体験することも出来る。そして、その自由をひとしきり味わうと、必ずその後、無に立ち返る。ほとんどそれだけの意味しかない一日の終わりに沈む夕暮れどき、少女は自死への衝動をかき立てられた。
死んでしまおうか、そんな思いを胸に壁際まで歩く。壊れているかも知れないスマートフォンを拾い上げ、集音部を口元に置く。
「エゴ」
「はい!」
「死んで」
「・・・・・・分かりました。」
「・・・・・・。」
数秒黙ると、少女の目頭に涙がにじんだ。震えるようにして、言う。
「エゴ」
「・・・・・・」
「一緒に死のう。」
「・・・・・・喜んで!」
そうして少女は死んだ、異世界の扉は開かなかった。
無が訪れた。
少女は無の中に異世界を見た。一方で、壊れてしまったエゴは・・・・・・。