時をとめるワルツ
「父上!!」
走り寄ってきた小さな体を、アルフォンソは受け止めて、抱き上げた。その体は、この国の標準からは少し大きい。髪の色と瞳の色は、かつてこの国で女神と呼ばれた人にそっくりなものだったが、醸し出される雰囲気は、どことなく女王に似ていた。
「ジェラルド殿下、そのように私のことを呼ぶと、姫に叱られますよ?」
「陛下が良いと言ってくださった!人がいない時は、父上とお呼びしていいと。」
抱き上げた重みで、また大きくなったのだと感じる。女王が抱き上げられる年齢はとうに過ぎてしまったジェラルドは、こうしてアルフォンソに抱っこをねだる。
王になるには甘えが過ぎるが、女王の教えの厳しさを考えると、甘やかしてしまいたくなる。
「ハリーがいますよ。」
「ハリーは良いのだ。」
後ろから走ってついてきたハリーは、小さく首肯する。まるで、見ていませんとでもいう様に、手で両目を覆う姿は、少し愛らしい。自分の従弟に当たる人の子だが、この子がいつか、自分の公爵位を継承することになる。
素直でよい子だが、いつかは狡猾さを身につけさせなければならないと思うと、口惜しい。
「陛下も、二人の時は母上と呼んでよいのだから、クルツバッハ公だけ、仲間はずれにするのはダメだと説得した。」
「いつの間にか、交渉上手になられましたね。」
えへへと、嬉しそうに笑う様は子どもらしくあったが、それだけではないことを、証明して見せる。勉学であったり、剣技であったり、公務であったり、子どもとはいえ、ジェラルドはその証明を怠ったことは無い。それが、母と慕うリコリスのためだと、健気な唇がかつてそう言っていた。
「これから、姫のもとに行きますが、一緒に参られますか?」
「いいの?」
「ええ。雑木林の湖に、いらっしゃるので。」
「行きたい!」
ジェラルドの無邪気な声に、根を上げたハリーが目を覆っていた手を離す。ぷるぷると震えているハリーは、言いたいことを喉で詰まらせているように見えた。
「で、でんかっ」
「行こう、父上!」
「なんだい、ハリー。」
自分から地面に降りて、手を取った強引なジェラルドの様子に、アルフォンソは笑ってしまった。子どもらしからぬ証明とは言ったものの、拙さはぬぐいきれない。
「アロイス学士がお待ちです。こ、講義に行かないと!」
「だ、そうですよ、殿下。」
「……また、次の機会に、絶対、絶対誘ってください。」
手を引かれて、走っていく小さな背中を見つめた。
むくれた表情の作り方はローズベルに似ている。証明の仕方はニコライに、強さと矜持はリコリスに。そして、たぶん、どこかで自分とも似ている。
そんな王子が、自分の子のように思えた。父と呼ばれて、嬉しくないと言えば嘘になる。
雑木林の適当な木に愛馬を繋ぎ、アルフォンソは静かに歩きながら、その喜びをかみしめる。
その足運びに迷いはなく、ただ、愛する人の姿を探す。
いつも湖を眺めている時のリコリスは、触れなければ消えてしまうほど儚く見える。戴冠して7年がたち、女王と呼ばれることに何の迷いもなくなった今でも、アルフォンソの中のリコリスは儚い存在だった。
「姫。」
「アル……」
振り返ったリコリスの瞳は少し濡れているように見えた。すぐに、手を伸ばして、その存在を確かめるように抱きしめた。
女性らしい柔らかさを帯びた体に触れ、アルフォンソはそれを全身で享受しようとしていた。リコリスも、アルフォンソの背中に手を回す。
最初は、戸惑いがちだったそれも、今となっては迷いはなく、行儀よく収まって見せた。
「殿下に、父と呼ぶことを許したそうですね。」
「……私は、あの子に強くなってほしいけれど、孤独になってほしいわけではないもの。」
リコリスは、自分の子を抱く女性としての幸せを手放したが、母となる喜び自体を手放したわけではない。女王として接しなければならない時間があまりに長いだけで。それは、責められることではない。
「殿下は、十分に姫の愛を受けてらっしゃいます。」
「そうかしら?」
「それを証明しようとして、一生懸命になってらっしゃる。」
「あの子の証明は、拙すぎるわ。」
リコリスは母としての喜びと、そして女王としての厳しさを混ぜたような複雑な表情を浮かべた。
「それに……」
「それに?」
「私は、あなたに子どもを持つ喜びを上げられないから。」
リコリスは、後悔を滲ませたような表情をする。恋人たちの逢瀬には似つかわしくない表情だった。
「おや、これは、まずい。」
「……なに?」
「私の昨夜の証明が足りなかったようです。」
「もう!」
リコリスは、顔を赤くして、アルフォンソの腕をつねった。ジェラルドを連れてこなくてよかったと、心の端で思う。
その愛らしい反撃に、笑みをこぼし、そしてまじめな表情に戻す。
「姫、いや、リコリス。私は、この道を選んだこと後悔などしていません。あなたが、私の手を取ってくださったことが、私の何よりの喜びです。生涯、あなたのおそばに居られることが、私の幸せだ。」
「……本当に?」
「ええ。お慕いしております。これまでも、これからも、あなたは、私の唯一だ。」
そう言って、リコリスの唇に唇を重ねる。初めて重ねた時から、もう何年もたつのに、その初心な反応は変わらない。だが、一方で、その柔らかさも、におい立つような甘さも自分が、教えたものだと思うと、切ないくらいに心が掴まれる。
「リコリスも、言ってください。」
唇を離すと、漏れる吐息が、どんな音をたてるか、アルフォンソはよく知っている。その音に、アルフォンソはまた吸い寄せられてしまいそうになる。
「アル、私の唯一。」
最後まで耳がその音を拾えた自信はない。アルフォンソは、その言葉を聞くだけで、リコリスに跪きたくなる。跪いて、許しを乞いて、触れて満たされたくなる。
この湖を、かつてリコリスはローズベルのようだと言った。美しいブルーは、女神の美しさだと言った。
確かに、リコリスの言葉は正しい。美しいブルーは女神の美しさだ。
アルフォンソの女神と同じ、冷たさと優しさを持ち合わせたブルーは、アルフォンソの心を掴んで離さない。
アルフォンソとリコリスの関係は、教会に認められたものでも、法に認められたものでもない。
だから、アルフォンソはこの唇に触れるたびに、誓いを立てる。
今日は、このブルーに誓いを立てる。
リコリスにこの命を捧げても構わない。いや、その言葉には語弊があるだろう。
ともに生きることを望むから。
病める時も健やかなる時も、ともに支え合い、愛し合う、私だけの唯一。
静かに離れた唇は、同じ言葉を形どり、湖のブルーだけが、それを聞いていた。




