女王のプレリュード
目を覚ますと、愛しい人がそこにいる。女王の座から転がり落ちたその日、自分は、こんな想像をしていた。
想像通りの朝は、もう手に入ることは無いと思っていたのに、目の前にはアルフォンソの寝姿があった。
ずっと、愛していた。
その言葉が、真実かどうか、リコリスには知る由もない。でも、今捧げられるものも、昨夜与えられたものも、リコリスには手放すことのできない大切なものになった。
リコリスの欲しかった、唯一は、リコリスの手の中にある。
「りこりす?」
「アル、おはよう。」
「……お体は?」
平気よ。そう答えながら、リコリスは、用意の手伝いをするものを部屋に招き入れるために、ベルを取る。ここで、されたことも、失ったものも、彼らは知ることになるだろうけれど、リコリスは、もう覚悟を決めた。
「陛下っ!」
ベルを鳴らそうとするその手を、アルフォンソは止めようとする。だが、リコリスは小さく首を振った。
「なれば、私のせいにしてください。あなたは、被害者だと、」
「いいえ、アル。私自身が、決めたことよ。それにね、私はもう、覚悟を決めたの。」
あなたが、あなたの覚悟を私に捧げたから。
リコリスは、そっとアルフォンソの手を離させて、ベルを鳴らす。失った純潔は、リコリスの道に茨を植えた。だが、その茨が花を咲かせることをリコリスは知っている。
アルフォンソと茨を歩むと決めてから、リコリスは時を待った。その土地が、茨の花をちゃんと咲かせる土に育つまで待った。
「私は、選ぶわ。」
リコリスは、侍女たちの視線に恐れをなすことなどしない。
柔らかな素材のドレスを身に着けて、小さなクラウンで髪を飾る。戴冠式と大きさは違えど、のる重責は同じだ。
この王冠に相応しい王になると決めた。自分の政策も、何もかも、すべては、国のため、国民のため、そしてこの王冠のため。
でも、リコリスは女王としてではなく、リコリスとして選ぶこともできることを知った。
「陛下、上水道の工事には目処が立ちました。マルデブルグ領は、復興を最優先のために予算を回しましたが、ウェイリントン辺境伯が私財にて協力してくださりましたので、納期に遅れはありません。」
「そう。それは、よかった。ザーレ他、北の領地は、政策が行き届かないことが多いわ。決して、それらを蔑ろにする真似をしては、いけない。今回の水道事業は、北から優先して始めてちょうだい。」
「承知いたしました。」
リコリスは、小さく頷きを返し、そして、息を一つ吸い込む。ここに座った瞬間から、自分が女王であることを突き付けられた。それは、剣の切っ先のように、リコリスの背を押しやり、崖から突き落とそうとしたけれど、王冠はその重責をもってして、リコリスの体を縛り付けた。
「それから、皆に話があります。私、自身のことよ。」
小さく顔を上げたリンケは以前ほどの勢いはないが、その瞳は光を失ったわけではない。
「今回のことで、私の結婚が、どうなるのか、皆、気になっていることだと思うの。結婚は、国の将来を決める大きな決断よ。この国は、多くの国と境界を接しているし、周囲は平穏とは言えない。」
「政略結婚を、お考えで?」
具体的にどこの国だろうか。自分に近しい国だろうか、それとも、帝国だろうか。
そんな大臣たちのささやきは、リコリスが、思っていたよりも、期待外れな反応だ。
「ええ、そうね。結婚について、私なりの結論を出したわ。」
リコリスはそっと立ち上がる。手をゆっくりと上げると、その高さに腕が這わされる。リコリスをエスコートするために出された手は、騎士団の制服に包まれている。
「まさか、」
エスコートを必要としないリコリスが、たぶん、生涯で唯一、エスコートを許す瞬間だ。
「私は、生涯結婚は致しません。」
「っな!」
「この国を、婚姻関係で豊かにする必要はない。」
「しかし!お世継ぎは、いかがなさるのですか!」
リコリスは、侍従に視線を向ける。宮廷侍従は、嫌にかしこまり、そして装飾を施した格調ばかりの書簡を読み始めた。
「第32代・プロズィナマイツ帝国皇太子妃ローズベル様、ご懐妊。第21代・アレムアンド女王との約定通り、この子を養子として王国に与える!」
ざわめきは一層大きくなり、リコリスはそれを静かに見つめていた。
リコリスが女王の座に返り咲くことが決まった日から、リコリスはこのために動いた。ニコライは確かに、ローズベルに恋をした。
美しいあの子はいつまでも、ニコライの愛を享受できる。だが、一方で、リコリスの冷めた部分は、それを否定してもいた。
感情に永遠など存在しない。愛に真実などありはしない。
リコリスはその保険をかけていたにすぎないが、それは違った意味で今、実を結んだ。
「私は、生涯、結婚はしない。この国は、政策で、そして私の力で、豊かにして見せます。」
もちろん協力してくださるわよね。
リコリスは、微笑みを浮かべたが、それがローズベルのような嫋やかで跪きたくなるような神々しいものではないことを知っている。だが、自分は、それでいい。
リコリスの微笑みは、確かに跪きたくなるようなものではない。だが、跪かせるものだ。
女王の微笑みは、たとえ、美しくなくとも命令と同じだ。
リコリスの耳は、どよめきよりも小さな諾の声を、ちゃんと聞き遂げた。
「姫。」
リコリスに囁くというよりも、聞かせるための声を使ったアルフォンソの腕に黙って従う。その手に導かれるままに、歩いた。
女王として最初で最後のエスコートは、縋りつきたくなるほど、甘く切ない気持ちでリコリスを満たす。
このまま、女王ではなく、逃げ出してリコリスとして生きてしまいたいと思うのに、それを自分自身、許すことができないのだ。
「アル、」
「はい。」
「好きよ?」
アルフォンソは一瞬、足を止めて、それから、また歩き出す。その所作は、完璧な紳士と呼ばれる彼には似つかわしくないものだった。
「私もですよ、リコリス。」
小さな彼のつぶやきは、リコリスにちゃんと届く。リコリスは、リコリスとして、この道を選ぶ。
女王には選べなくとも、リコリス自身としてなら選び抜くことができる。それが、生涯伴侶を迎えないことでも、生涯家族を持たないことでも。
それは、孤独ではなく、幸せだと、リコリスには思えた。




