フィーネの音色
背中の傷は、小さな盛り上がりとなって、白い肌に不躾な赤いただれを残した。アルフォンソには見えないその傷が、リコリスの枷になったことに、後悔とともに喜びを感じる。
アルフォンソにとって、リコリスはもう二度と手に入らない人のはずだった。
欲することが、罪だと思えるのは、その頭上に掲げられた王冠があまりに重かったからだ。
だが、その手を奪い取ることを、アルフォンソは選び、リコリスはそれに答えた。
あなたは、あの方を、孤独にするおつもりですか。
レティシアは、アルフォンソを責めるのに、声を落とすことはしなかった。アルフォンソの傷が治るまでの間、アルフォンソは誰の目にも憚れることなく、リコリスを姫と呼び続けていた。
レティシアが、自分たちの間に流れる、ただならぬ気配を感じ取ったのも無理はない。
アルフォンソは女王の居室で、静かにリコリスを待っていた。ベッドの淵に腰を掛けて、時間を刻む歯車の音を聞いている。
この部屋で、今夜、リコリスを貰う。
時が来るまで待って、そう言われた日は、そんな時は来ないのだと思った。だが、リコリスは、迷うことなく自分の手を取ってくれた。
それが、リコリスの未来に影を作ることになっても、アルフォンソはもう引き返せなかった。
彼女を本当に思うならば、引くべきだ。そう思う自分と、それでも、欲する自分がいる。
あの方には幸せになる道がある。あの方こそ、お幸せになるべきなのに、あなたはそれを奪い取るのですか。
今夜がその時だと知ったレティシアは、アルフォンソに詰め寄った。女神に仕えることよりも女王に仕えることを選んだレティシアは、真実、リコリスの味方なのかもしれない。
彼女がもっと早くに、リコリスに仕えていてくれたのなら、リコリスはこれほど孤独にならなかったのかもしれない。
「クルツバッハ公?」
「……姫、いや、リコリス。」
その名を呼べば、リコリスは頬を染め、逃げるように視線を逸らす。
部屋に静かに入ってきたリコリスは、白い夜着を身にまとっていた。その白さが、彼女の純潔の証を、際立たせて見せた。
ああ、なんと罪深いのだろう。
アルフォンソは、自分の行いの罪深さに背中が粟立つのを感じた。無垢な魂を、自分は穢そうとしている。自分の堪えきれない思いを、ただただ、ぶつけようとしている。
「今宵だけは、アルと。」
「……アル。」
アルフォンソは、リコリスに手を伸ばしかけて、それを止める。腕を広げて、リコリスの歩みを待った。
選ぶしかないことを知っているのに、これはリコリスが望んだことでもあるのだと夢を見たかった。
リコリスは一瞬、めまいを感じたかのようによろめいて、一歩一歩、まるで小鹿のように震えながら進む。その足取りは弱弱しいのに、迷いを感じない。
「アル、」
「リコリス。ああ、やっとだ。」
抱きしめて、腕に力を込めて、その存在を確かめる。女王として、立ち、真っすぐに前を見つめるその姿が、これほど小さく弱いことを、アルフォンソ以外の誰も知らない。
それが、自分に許された唯一の幸せだ。
この唯一が今宵、幻のように消えても、自分はそれでもこの人に仕え続けるのだろう。
この思いを抱えながら。
アルフォンソは、その唇に唇を重ねて、永遠に朝が来なければいいのにと、月明かりに願った。




