望まないフェルマータ
体を貫く痛みを感じることも、毒を盛られた時のようなしびれも、恐怖を飛び越えたときの体が熱くなる感覚も覚えない。剣で貫かれた体は、きっと痛いはずなのに、魂の解放とは、これほど甘美なものなのだろうか。
リコリスは閉じていた瞼をゆっくり開けた。体は強く、アルフォンソに囲い込まれている。
リコリスを抱きしめる手の力は強いままなのに、それがあの時のものとはまるで違うもののように思えた。
頭の中で警鐘が鳴り響いた。先ほどよりもずっと強く、切なく鳴るそれが、リコリスには恐ろしくて堪らなかった。
そっと、アルフォンソの背中に手を回す。周りの音は何も聞こえない。リコリスの手が触れたその場所は、ひんやりと冷たい。
シルクに触れているような冷たさが、掌に突き刺さる。
「っクルツバッハ公、」
感情をのせるな、そう言われ続けていたのに、リコリスは自分の声が震えるのを止められなかった。
アルフォンソの手から、剣が滑り落ち、床にぶつかって高い音を立てた。閉じ込められていた体は、とんと押されて、リコリスは少しだけよろめいて数歩後ろに下がる。
「姫、……お逃げ、くださ、」
アルフォンソはそのまま地面に倒れる。それは一瞬のはずなのに、とても長い時のように思えた。
「っ!!」
リコリスは、逃げられなかった。逃げようとは思わなかった。周りのすべてが見えなくて、リコリスには、アルフォンソしか見えなかった。
自分のために傷を負い、倒れたアルフォンソ。愛し、愛されたいと思った人。
私の唯一。
リコリスは、倒れたアルフォンソに駆け寄った。
「アル!!」
「陛下!!」
後ろから怒鳴り散らすような声がした。王族に生まれて終ぞ聞いたことがないような類の声だ。リコリスは、その声に、導かれるように前を向く。
銀色が光を帯びてキラキラ見える。残光が白く浮き出て、まるで季節外れのホタルの求愛のように思えた。
命を刈り取る光は、怜悧だが、なんと美しいことだろう。
リコリスは倒れたアルフォンソをかばう様に、その体の上に自分をさらけ出した。国民のための女王だと誓ったのに、結局リコリスは自分のための死を選ぶのだ。
愛する人を守るための死を選ぶなんて、女王失格だと思うと同時に、これほど幸せなことはないと思う。
「カキンっ!!」
高い音があたりに響いて、土の香りと、枯草の匂いが、会議室に一気に広がる。大地とけぶるような火の匂いは、相容れない気がするのに、どこかで惹かれ合う。
「馬鹿だね、アルフォンソ。」
切り落とされるはずだった自分の頭は、まだ、ちゃんと音を拾っている。リコリスは、体を持ち上げて、声を見上げた。そこには、王国最強が、困ったような笑みを浮かべている。
リコリスが、自分を切り売りすると、決まって彼はこんな顔をした。
「テオドール、」
「自分を盾にしてはいけないって言ったじゃないか。ともに生き残らなきゃ主を守り切れないって、教えてやったのに。」
「テオドール!!」
「ご安心を女王陛下、王宮に侵入した不届き者は、全員捕縛してあります。そこですくみ上っている黒幕が最後だ。」
「アルが、アルがねっ」
「直ぐに侍医を呼びましょう。」
動ける近衛に指示を出しながら、テオドールはリコリスを抱きしめるように、立たせた。アルフォンソは身動き一つしていない。リコリスの手にも、ドレスにもアルフォンソの赤黒い血がついていた。それを見ると、震えが止まらなくなる。
連れて行かないで、アルフォンソを。
リコリスは小さくすすり泣くようにそう言ってしまった。
「陛下。陛下、気を確かに。あなたは、女王だ。取り乱してはいけない。」
「でも、」
「アルフォンソはしぶとい奴だ。大丈夫です。ここがアルフォンソの踏ん張り時だ。そして、あなたの踏ん張り時でもある。あなたの周りを盤石にし、もう二度と、崩れないように足固めをする時です。」
リコリスの流れていた涙をテオドールがぬぐった。その手には、血がこびりついていたが、不思議と怖いとは思わない。
「……私は、女王。」
「そうです、陛下。あなたはこの国の女王、すべての国民の母だ。」
「そう、私は、女王よ。」
リコリスは、ゆっくりと呼吸を二つ繰り返し。テオドールを見つめた。走り寄ってきた侍医は、リコリスに片膝をつく。
そう、リコリスは女王だ。尊大で、鷹揚で、残酷な施政者だ。アロイスの言葉を借りれば、リコリスは支配者なのだ。
命令を下す冷酷な支配者だ。そう思うと自分の中の何かが冷えて、自然と声は冷たくなる。
「クルツバッハ公を必ず、助けなさい。その命に掛けて。」
「っは、承知いたしました。陛下!」
ぐっと強く握りこんだ手を、リコリスは己を傷つけるために使う。アルフォンソは自分をかばった。仮初の主を守るために、アルフォンソは命を懸けた。
その忠義が、どこへ向かっているのか、リコリスには分からない。だが、その行いに応えねばならない。
アルフォンソが寝かせられたベッドに腰掛けて、リコリスは彼の髪を撫でつけた。汗ばんでいて、張り付いた髪は、いつもよりも彼の髪を黒く見せる。
傷は、治療を施されているが、効果はその浅い呼吸が証明している。
「陛下、」
「……あとは、彼の生きる力というのでしょう?」
老年と言ってもいい、カルステの力ない声にリコリスは心が、乱されていくのが分かった。残虐な施政者として命令をしたのに、その命令にリコリス自身がついていけない。命令は他者を縛ることはできても、命令それ自体が成功を約束するわけではないことを知っているからだ。
「陛下、これ以上、ここに居ては、外にいる者たちが耐えられず入ってきてしまいます。クルツバッハ公のためにも、ここは我々に任せて、どうかお戻りを。」
「そばに居たいの……なんて言っても、あなたを困らせるだけね。」
白いひげが、長く生きた証のように、ゆらゆらと揺れている。その証を切り取り、首を落としてでも、アルフォンソを生きながらえさせたい。そんな風に思う自分のなんと残酷で非道な事。リコリスは、そんな自分に反吐が出た。




