死するためのシンフォニー
会議に使用されている部屋の豪勢な椅子に、リコリスは座っていた。今日の会議は終わった。テオドールが、革命をひねりつぶしに向かってから5日が経っていたが、連絡はまだない。今頃、どこで何をして、その革命がどうなったかすら、リコリスには想像することができない。だが、リコリスは、テオドールに出した命令を後悔していた。
冷酷で、無慈悲な命令を下した。
同じ時に戻っても、リコリスは同じ命令を下しただろうけれど、それでも強くそれを願っているわけではない。
愛する我が子を、傷つけたいわけではない。
議会を開きたいと言った我が子を、本当は抑えつけたかったわけではない。その時がきたら、議会を開き、広く民衆にこの国の未来を決めさせたい。
責任を分配し、権利を与え、義務を負わせることは、リコリスには新しい国への第一歩のように思え、そして同時にひどい罪悪感に襲われる行いだった。女王の責任から逃れるために、国民にそれを押し付けているのではないかとすら思った。
自由を与える対価に、責任を押し付けている気がしてならなかった。
「陛下、そろそろ、お部屋にお戻りを。少し、お体を休めた方が良い。」
アルフォンソの言葉に、いつもは突っぱねるところだが、素直に従うことにした。疲労がひどくて、頭が痛くなってきた。少し休まなければ、これからうまく、舵取りもできない。
リコリスが立ち上がると同時に、大きく音を立てて扉が開かれる。伝令か、リコリスはそう思ったが、それよりも鮮烈な赤色が目についた。
「陛下、お逃げください!」
なだれ込む近衛は、怪我をしているもの、していないもの、それぞれに剣を手に取っている。
王宮で剣が抜かれることなど、ほとんどない。その見慣れない銀色の冷たさが、リコリスの背中を粟立てた。
「陛下っ、こちらに。」
アルフォンソが剣を抜き、リコリスをかばう様にして立つ。事態が飲み込めないのは、リコリスだけではないはずなのに、アルフォンソは嫌に冷静だった。
「どういうこと、」
「おや、陛下、お久しぶりでございます。」
戸惑うリコリスの前に悠々と現れた男に、目を思わず見開いた。
マルセル。
色素の薄い髪は後ろに撫でつけられ、自信に満ち溢れた青み掛かった灰色の瞳は、狡猾な光をともしている。
マルセル・ネスレ。
ヘルベティアで一番の商会の主であり、革命を煽動した。使者を騙りながら、ヘルベティアの影の宰相と呼ばれる男だ。
「いったい、どうやって入り込んだのかしら。あなたのことは呼んでいないけれど。」
彼を守るようにして立つ兵士は、よく訓練されている。彼らが握る刃のいくつかに、血がついていた。それが、アレムアンドの国民を傷つけたかと思うと、腹が立つ。
「連れないことを仰いますな。私は、わざわざ会いに来たのですよ。愚かな女王陛下に。」
「使者を騙る影の宰相に、用はないわ。お帰りはそちらよ。」
「おや、ご存知でしたか。」
「あなたが、この国でしていることを倣っただけよ。」
リコリスは、一歩も下がることなくマルセルを睨み付ける。
「この国の間諜は、あなたが放ったものよりも性質が悪いですがな。」
何もかも筒抜けなのは知っている。この国は、盤石じゃないことは幾度も突き付けられてきた。だが、ここで、この国を手放すほど、リコリスは愚かではない。
「あなたが、あの時、我が国との取引に応じてくれたら、このようなことにはならなかった。こんな強硬な手段に出ることも、革命を煽動することもなかった。」
私とて、帝国を敵に回したくはないのでね。
リコリスは、マルセルの言葉に、感情が揺れそうになるのを感じた。決して、怒りをあらわにしてはならない。感情のままに言葉を操ってはならない。
リコリスは、そんな教えを破りそうになる自分をどうにか抑えつけていた。
「お前が、アイゼナハの革命を煽動したとでもいうの?」
「ええ。簡単でしたよ。この国にはいくらでも不満の種がくすぶっている。その種に水をやり火をつけてやれば、あとは簡単でしたよ。中途半端な賢さを与えたことが、あなたの敗因でしょうな。」
「……そう。ここまで愚弄されるとは思ってもみなかったわ。」
マルセルは高笑いした。その様子は、リンケとどこか似ていたが、リコリスはそこに違いをちゃんと見出していた。
マルセルは私欲にのみ生きる。リンケは私欲だけには生きていない。
「女王陛下、投降してください。あなたが素直に従えば、悪いようにはしない。」
「私が素直に従えば、アレムアンドを私利私欲のために切り売りするというのでしょう?そんなこと、お断りよ。」
「おや、よろしいのですか。血を流しても結果は同じですが。」
馬鹿言わないで。リコリスがそう言うのと、近衛兵たちが剣を片手に、敵に攻め入るのは同時だった。剣と剣がぶつかり合う音が響き、恐怖で身がすくみそうになる。アルフォンソの手に縋りつきそうに震える手を、握りこんだ。
どこからか湧いて出てきたヘルベティアの兵の剣を、アルフォンソが弾き飛ばした。音が遠くに聞こえる気がする。
カンカンと高い音がするたびに、リコリスの中で警鐘がなった。
血の赤は、怖いとは思わないのに、悲鳴や呻き声がリコリスを震わせた。剣を落とし、声を失くした近衛と目が合うと、恐怖に身がすくむ。
その身をもって守られているのに、その魂を怖いと感じるのは、罪深い。
「っくそ!」
兵士の声が、アルフォンソの剣の速さを物語った。会議の部屋は見る間に、血に染まっていく。リコリスは一歩、怖気づいたように下がるとアルフォンソとの間に距離が開いた。
「陛下!」
アルフォンソの焦ったような声が聞こえる。だが、それもリコリスには遠く思えた。
振り返ってはならない。そう思う気持ちと、振り返るべきだと思う気持ちが交差する。
「覚悟!!」
誰のものともつかない声は、誰に対して発せられた言葉かすらも分からないはずなのに、それがリコリスに向けられているとすぐに分かった。
ああ、これが、最後なのだろうか。
リコリスは思った。ままならないと思い続け、愛している人に、愛していると伝えることもなく、その手を離した自分の人生は、今思うとひどく悲しいものに思えた。
全ての国民の母であると言っておきながら、切り捨てなければならない自分に反吐が出た。
愛していることすら伝えられない弱い自分は、結局、王位も大切なものもその手に掴むことなどできなかった。父が、望んだものは何一つ手に入れられていない。
それなのに、これが、自分の終わりだと思うと、安堵してしまう。
こんなにも苦しい孤独から、解放されるかと思うと、それが甘美なものだとすら思ってしまった。
「姫!」
アルフォンソが最後にそう呼んでくれるならいいのかもしれない。
そう思うと同時に、体を包み込まれた。アルフォンソの男性らしい体は、リコリスをいともたやすく囲い込んでしまう。その強さも、優しさも、温かさも、知ってしまった瞬間から手放すことが怖かった。
自分の手のひらから零れ落ちていくことが恐ろしくてたまらなかった。




