小指に結ばれたララバイ
女王陛下主催の晩餐会は、盛況だったが、リコリスはとても疲れているように見えた。少しでも休んでほしいが、時間がそれを許さない。
謁見の時とは違う華やかなドレスに身を包んだリコリスを、エスコートする人間はいない。
アルフォンソは一歩下がった場所からリコリスを、見つめていた。
どんなに見つめても、美しく着飾ったリコリスの隣に並ぶことはできない。
それでも想像してしまうのだ。舞踏会に一緒に出たときのリコリスの手の感触を思い出し、自分の手を取って安心した微笑みを浮かべた女性が隣にいることを。
あれほど、礼を失した態度をとったマルセルは、今、女性たちと鼻の下を伸ばしながら話している。
あの時、あの柔らかな手で止められなければ、切り捨てていた。
切り捨てることが失敗なのか、切り捨てなかったことが失敗なのか、アルフォンソには判断しかねるが、触れられた手の感触が久しぶりすぎて動揺したことは確かだ。
柔らかな手。一度はつかむことを許された手。その手に触れられて動揺するなという方が、無理な話だった。
もう少しで、お開きになる。そうすれば、この無礼な使者も、口を閉ざしている王族も国に帰ってくれる。リコリスの負担は少しでも軽くなる。
ひと際、大きな笑い声が上がり、アルフォンソはそちらに目を配った。リンケがでっぷりと太った腹を撫でながら、高笑いをしていた。
謁見の間を出てすぐに言い訳を並べていた男と、余裕のある今の態度との乖離が、理解できない。
決して、この国を裏切るようなことはしないと言っていたあの口が、今はワインをがぶ飲みしている。
「陛下、そろそろ。」
リコリスは、テオドールの言葉に立ち上がり、最後の挨拶を完璧にこなして見せた。これで、リコリスを休ませることができる。そう思ったのに、リコリスとアルフォンソ、そしてエマヌエルは中庭に居た。
「……お時間を頂戴して、申し訳ありません。」
「いいえ。ですが、簡潔にお願いできますか。」
「謁見の間では、大変な無礼を働き申し訳ありませんでした。」
エマヌエルは王族だというのに、いとも簡単に頭を下げた。夜の庭は、少し肌寒く、パーティー用のドレスを着ているリコリスには、夜風が厳しい。なるべく、風が当たらないようにと配慮して立ちながら、アルフォンソはエマヌエルを威圧的に見ていた。
「あれは、聞かなかったことにいたしました。あなた方は、新女王に挨拶をするために赴いた。それ以上でも、それ以下でもない。」
「……それは、その。」
「どうか、されましたか?」
「この国に赴くにあたり、私は陛下から命を受けました。たとえ、後ろ盾がいただけずとも、」
何かに耐えるような顔をして、そして、覚悟したように顔を上げた。エマヌエルは今までの自信のない瞳から、何かを得ようともがく野生の獣のような強さをにじませる。
「新女王の王配となり、お支えするようにと。」
「なんですって?」
「ヘルベティアはこれ以上の争いを望みません。アレムアンドとの間に、和平が必要だ。アレムアンドも、王配を探していると聞きました。ですから、どうか、私と結婚してはいただけませんか。」
「エマヌエル公っ、」
エマヌエルの動作を止めようと、リコリスはいつになく声を荒げたけれど、それにどれだけの意味があっただろうか。エマヌエルは、それよりも先に片膝を突き、リコリスの手を取って、正式なプロポーズをして見せた。その手を切り捨てられたら、アルフォンソは楽になれるのだろうか。
「公、そう簡単に、決められることではないです。」
「存じ上げております。私と陛下の結婚は国同士のものだ。だが、これで、国同士が争わずに済むのなら、私はこの身をもって生涯、あなたを支えます。」
「……そのために、あなたは何を切り捨てたの?」
リコリスの言葉が、先ほどのエマヌエルの表情を指していることは分かった。王命だとエマヌエルは言った。これは、王からの命令で、それは即ち、エマヌエルにとって避けることのできない運命だ。
リコリスへのプロポーズが命令だと、その唇がいう前に削ぎ落してしまいたくなる。なぜ、そんな言葉を彼女へのプロポーズに使う。なぜ、心から思ってもいないのに、リコリスを求める。
「私は、女王の夫となる覚悟を決めて、この国に参りました。他のすべてを切り捨てる準備はできています。」
エマヌエルの言葉に、めまいを感じたようによろけたリコリスを、支えたくとも手が出せない。繋がれたエマヌエルの手が、リコリスを支えるようにつかんだ。
「考えさせてください。あなたが発つまでに答えを出します。」
「陛下、」
アルフォンソは手を伸ばしたが、リコリスに触れることはない。触れられないその手でゆっくりと、帰り道を示して見せた。
「陛下、どうか、ご英断を。」
リコリスはエマヌエルの畳みかける言葉を無視して、アルフォンソが示した道を歩み始めた。
彼女が誰かの手を、必ず握らなければならないことを知っていた。その手が、決して、自分のものではないことは知っていた。
それなのに、こんなに苦しいのは、覚悟が足りなかったからだろうか。それとも、一度、その手を知ってしまったからだろうか。アルフォンソは、どうやって消化すればいいか分からない感情を、どこにぶつけていいかもわからなかった。
夜だというのに、庭の薔薇の香りを、強く感じた。




