パストラーレの礼節
ヘルベティアからの使者を迎えることに、貴族から反対の声も上がった。だが、使者が来ると言われたのは、到着の3日前のことで、今更、拒むことはできない。
外交官の連絡が、混乱を極めているがゆえに、遅れたのか、わざと遅らせたのかは、推測の域を出ない。なぜなら、外交官との調整役であるはずのリンケが、知らぬ存ぜぬを通すからだ。
リコリスは、戴冠式とは違う簡易的な王冠をかぶり、装飾品の減ったビロードのマントを身にまとっていた。
国同士の駆け引きに、リコリスは少しばかり緊張していた。国内での駆け引きも勝算は、五分五分だ。そんな自分が、国を背負って、境界線を争う国の使者と謁見しなければならない。リコリスは、わずかに、眉をしかめる。
この時代の混乱を生んだのは、確かにヘルベティアの革命だ。あの国は生まれたての小鹿のようでありながら、年老いた鷹のような狡猾さを持つ。
「……ごきげんよう。ようこそ、我がアレムアンドに。」
「陛下に置かれましては、ますますご隆昌のこととお喜び申し上げます。ヘルベティア国王代理として参りましたエマヌエル・コルビジュエと申します。」
エマヌエルの流暢な言葉に、リコリスはわずかにうなずきを返した。ヘルベティアらしい、色素の薄い髪の色と瞳の色は、妹を彷彿させる。
よほど身分が高いのか、エマヌエルは最高礼を取ろうとはしない。エマヌエルに付いている従者らしき男は恭しいほどの礼を、リコリスに取った。
女王に最高礼をとらないエマヌエルよりも、よほど無礼に思える。頼んでもいないのに、その従者が、エマヌエルの身分をべらべらと話した。
それに、反応したのは、控えていたリンケだけだった。
「国王陛下の従弟でらっしゃる?わざわざ、足を運んでいただき、誠にありがとうございます。」
リコリスは、リンケが出っ張った腹を撫でながら、笑う姿を見て不快感を覚えた。アレムアンドは決して迎合しない。
謁見の間でもヘルベティアの言葉を許さないのは、それがこの国の矜持だからだ。言葉も文化も、境界線を越えれば、まるで異なる。だからこそ、この国はヘルベティアと相容れない。それを、知らしめているのに、リンケの無配慮な言葉が、それを壊していく。
「いえ。お美しく聡明でらっしゃる女王陛下にお願いがあって、参りましたので、こちらからご挨拶に赴くのが順当です。」
「して、願いとは?」
「……リンケ。」
リコリスは、唇を扇で隠し、リンケを小さく呼んだ。リンケは、リコリスを振り返り、目礼する。
失礼いたしました、陛下。
小さなつぶやきは、とても不遜だ。
「我が王朝の後ろ盾になっていただきたいのです。」
「マルセル、」
「公、ここは私にお任せを。」
最初の挨拶以降、口を閉ざしていたエマヌエルは、戸惑ったように言葉を挟んだが、それが聞き入れられることはない。明らかに、この王朝が張りぼてである証だ。
リコリスは、そっとため息を吐いた。
エマヌエルは、コルビジュエ王朝という名ばかりの王家における傀儡の一部だ。そして、自分は、アレムアンドの国民のための道化師だ。
リコリスは、少なからず、エマヌエルに同情する。
「知っての通り、前王朝は国民の革命により、滅びました。我々コルビジュエが、やっと正当な王家であると認められた。議会を開き、国民の自由と権利のために戦ってまいりました。ですが、歴史が浅い王朝と、他国からは軽んじられるばかり。そこで、隣国のアレムアンドと、手を結び、この激動の時代を乗り切りたいのです。」
マルセル、そう呼ばれた男の芝居がかった動作も、目に鮮やかな衣装も、まるで劇でも見ている気分になる。
「それは、」
「リンケ。」
リンケが答えようと唇を開きかけたのを見て、リコリスは言葉を落とした。リンケの言葉が、どう出るか、リコリスは予想することはできない。
リンケとマルセルの間でどんな取り決めがあり、それが、どんな利益を生むのか予想ができない。
だが、リンケはこの国を売ろうしている。この国の矜持を。そして、リコリスの矜持を。
リコリスの中で、リンケに対する猛烈な怒りが生まれた。
「アレムアンドは、その願いを聞き入れることはありません。」
「……女王陛下?何を仰っているのか、お分かりで?」
鼻から漏れた息は、マルセルがリコリスを馬鹿にしていた証のように、謁見室に響いた。護衛としてそばに立つアルフォンソからだけではなく、普段は飄々としているテオドールからすら殺気を感じたから、マルセルの態度はリコリスを軽んじていると思って間違いではない。
「ええ。分かっているわ。あなたこそ、私の言葉が分かっていて?アレムアンドは、他国には干渉しない。あなたの国の後ろ盾になることもない。」
「馬鹿なことを!年若いあなたには分からぬかもしれませんが、我が王朝が崩れれば、この国にも少なからず影響がでる。それを回避するためにも、この国は後ろ盾になるべきだ。」
「あなたの国が乱れても、私の国は乱れない。」
「何を、おっしゃる。革命の余波は、この国にもあったはずだ。議会を作ってくれという国民の声を、あなたは退けたそうですね。」
マルセルは、感情を言葉に乗せた。この男が、コルビジュエ王朝においてどれほどの地位にいるかは知らないが、もともとの暮らしは想像できる。感情を政治に持ち込んではならないという基本を教育されていない。
だが、マルセルの言葉はリコリスの足元を確実に揺らした。この国は決して、一枚岩ではないことを知らしめられる。
謁見の内容を、マルセルが知っている。アレムアンドの内情が、他国であるヘルベティアに伝わっている。それも、正確に。
リコリスは、自分の周囲が、自分が思っている以上に、危険であることを知った。
「国民の願いを聞き入れないあなたを、いつまで国民は、国王と崇め奉ると思っておいでか?我が国の後ろ盾になれば、ヘルベティアの議会は成功をおさめ、アレムアンドに議会を開く足掛かりにもなる。我が国の成功は、アレムアンドの成功につながる。」
「アレムアンドは、ヘルベティアの協力がなくとも、議会を開くことができます。必要があれば。」
「必要がないと、おっしゃりたいのか?」
「ええ、そうよ。」
「あなたは、聞き及んでいるよりも、ずっと愚かだな!美しさは妹に劣るが、賢さだけはあると聞いていたのに。」
「っマルセル!」
エマヌエルの制止よりも早く、アルフォンソが動いたのを感じて、リコリスはその手を慌ててつかんだ。右の手は、剣を抜くために動こうとしている。その手を掴むと、震えていた。
自分から、アルフォンソに触れたのは、戴冠してから初めてのことだった。その手に抱きしめられたこともあるというのに、ひどく遠い記憶のように思える。
リコリスは、ゆっくりとその手を離し、ゆったりと両手を膝の上で重ねる。アルフォンソは感情のままに動いたのか、主の名誉を守ろうとしたのかは知れない。だが、ここで、マルセルを切れば、ヘルベティアに交渉の余地を与えてしまう。
「野蛮だな、あなたの国は。」
「野蛮で無礼、愚かなのは、そちらですよ。今のは聞かなかったことにいたしましょう。今宵は、あなた方を歓迎する宴です。ゆっくり、休み、お帰りあそばせ。」
リコリスは、足取りが重く、頭がくらくらする感覚を覚えながら立ち上がった。この程度の嘲りに、自分の心は切り刻まれたとでもいうのだろうか。
自分の弱さが嫌になる。こんなことで、誰かの手に縋りたくなるなんて、愚かしい。
リコリスはエスコートの手を必要としない女王なのだ。この道を選んだ自分に、誰かの手をとることはできない。
リコリスは力の入らない足を叱咤して、真っすぐに歩みを進めた。




