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王冠のグラーヴェ



私室に向うために歩いていたリコリスは、いつもと違う感覚に、自分の中でざわめきが収まらないことに気づいていた。

背筋をピンと伸ばしたリコリスの背後を守るのは、アルフォンソではなくテオドールだった。たった、それだけなのに、リコリスの内側が、さざめいて波打つ。

そのことに動揺したくないのに。リコリスは、誰にも悟られまいと、いつも通りだと自分に言い聞かせていた。


「陛下、落ち着かれませんか?」


テオドールの一言に、リコリスは瞬きを返した。まるで、その質問の意図が分からないとでもいうように。

騎士以外の近衛兵を任命しなかったリコリスの護衛役は、常にアルフォンソに限定されてしまう。休息をとることもままならない状態で、十分な護衛はできないというテオドールの判断のもと、時折、こうしてリコリスのそばを離れる時間ができる。


「誰かをそばに置くことに慣れていただけたのは、幸いですが、アルフォンソだけでは、ダメですよ。」

「何のことか、分からないわ。」

「アルフォンソだけではなく、私にも慣れてください。」


いつもよりも真剣みを帯びていた言葉に、リコリスは小さく頷きを返す。


「もちろん、恋人としておそばに置いて頂いても構いませんが。」


テオドールはリコリスの護衛をしっかりとこなしつつ、軽口をたたくことも忘れなかった。そんなリコリスは、ふと聞こえた声に、立ち止まる。

陛下と、廊下でリコリスを呼び止めたのは、リンケ伯爵だ。

リンケ伯爵家は、大臣職に何代にもわたって就任している名家だ。その男が、リコリスを廊下で呼び止めたのである。王女時代であっても、それは、屈辱的であるのに、女王になってからもリコリスを軽んじる態度を改めない彼に、頭が痛くなる。

リコリスとリンケの間に溝ができたのは、コンドーム政策の時であることは自覚があった。


「……このような場所で、何か。」

「陛下と、お話したいことがございました故、失礼を承知の上で、お声をかけさせていただきました。」


表面上こそ、頭を垂れていたが、その実、心の中で舌を出していることは透けて見える。


「今、この時でなければならないこと、かしら?」

「陛下がお忙しいと知っているが故でございます。」

「そう。それならば、歩きながらで良ければ。」


リコリスがもう一度、歩き出すと、テオドールもそれに従う。


「それで、何の用かしら。」

「時間がありませんので、単刀直入に申し上げます。」


リンケのでっぷりと前に突き出た腹が、視界の端で揺れる。貴族の中でも富める男が、リコリスの政策を目の敵にする理由はよくわかる。


「陛下、一部の貴族への寵愛を改めていただきたくお願いいたします。」

「……なんですって?」

「陛下が、クルツバッハ公爵を寵愛なさっていることは、明白。もともと、婚約者だったのですから。ですが、未婚の陛下の身辺を守るのに、彼が最適とは言えない。」

「私が、いつ、彼を寵愛したと?彼は私の騎士よ。それ以上でも、それ以下でもないわ。」


リコリスが睨み付けるように男を見やると、いやらしく口角が吊り上がっていくのが見える。


「侍従からも、目に余ると聞き及んでおります。陛下、平等を謳うのであれば、クルツバッハ公爵にだけ、寵愛を傾けるのはおやめくださいませ。」

「私は、そんなことしていないわ。」

「少なくとも、周りの者には、そう見えているのです。陛下が、未婚であるために。」


リコリスは、自分の周りが決して盤石なものであるわけではないことを知った。少なくとも、自分の周囲には、リンケに情報を流す人間が存在する。

そして、リンケに筒抜けになった情報は、リコリスを貶めるために使われるものだ。


「結婚をしろと言いたいの?」

「ええ。もちろん、国のためのご成婚を。ぜひ、この私に考えさせていただきたいのです。」

「あなたが?私の結婚相手を用意すると?」

「ええ。これも、アレムアンドのため。」


アレムアンドのため。

リンケの言葉はまるで国を思う臣下の憂いのようであって、まるで違う。その腹に詰まった脂肪と同じくらいに、汚く卑しい考えに過ぎない。

アレムアンドのため。

幾度もリコリスが己に言い聞かせてきた言葉であり、そして、リコリスの心を削ぎ落してきた言葉だ。

それが、リンケの口から出ると途端に汚れ物のように思えてならない。


「陛下、私は、王室を長きにわたり支え見守ってきた伯爵家として申し上げているのです。誰かに寵を傾け、国を傾けかけた王は、幾人もいた。人を愛する、たったそれだけにリスクが伴う。それが、王たる証なのです。」


リコリスが答える前に、私室につながる廊下に出る。その扉には、衛兵が立っており、リンケの行く手を阻むように一歩前へと出た。


「いついかなる時であっても、王冠よりも重いものなどあってはならないのです、陛下。」


リンケは扉の前で、そういうと深々と頭を下げた。リコリスは、私室につくその瞬間まで、リンケを振り返ることはしなかった。

私室の扉が開けられて、リコリスは静かに中に入った。自分の部屋に戻ってからも、リラックスできるということはない。

まるで、自分の部屋ではないようにすら感じてしまう女王の部屋は、古めかしい豪華さだけが、際立って見える。

中で待ち受けていた侍女たちが、リコリスのお茶の準備を済ませるのを眺めながら、唇を閉ざし、リンケの言葉を思い出していた。

この中に、リンケに通じるものがいる。そして、それと同じように、違う貴族に通じる人間もいる。

女王とは、なんと孤独なのだろうか。

いついかなる時も、王冠よりも優先されるものは、ありはしない。たとえ、愛する人のためであっても、王冠に与えられた責任から逃れることはできない。

そんなこと知っていた。だから、リコリスは、アルフォンソの手を取れなかったのだ。いついかなる時でも、女王であることを優先しなければならない。

たとえ、夫に縋りたいと思っても、夫を優先したいと思っても、女王である自分はそれを選べない。望まなくとも、夫を傅かせなければならない。

愛する人に、命令を下さねばならない。

女王であることは、妻であることと相反しているのに、切り離すこともできない。愛しているからこそ、女王の夫になどしたくなかった。

だから、その手を離した。心は粉々になって、散り散りになった。

せわしなく動く侍女たちを、眺めながら、リコリスはそっとため息を吐き出す。


「陛下、お茶の用意が整いましてございます。」


レティシアの言葉に、リコリスは、返事をせずにお茶席に向った。主が黙ったままなのはいつものことなので、誰もが気にかけることもなく、リコリスの世話を焼いていた。


「……陛下?」


注がれた紅茶をじっと見つめていたリコリスに、戸惑ったのだろうか、普段は黙って仕えているレティシアが、声をかけてきた。


「なに?」

「いえ、お疲れのご様子でしたので。」

「……考え事を、していただけよ。」


リコリスはそう返してから、また一つため息を吐きそうになって、押し殺す。


「お悩みを教えてはいただけませんか?何か、お役に立てることもあるかもしれません。」


この中の誰が、リンケに通じているのか。自分の寵愛は、アルフォンソに傾いているか。

自分は、リンケの用意する人間と結婚すべきだろうか。

そんなこと、レティシアに尋ねて何になるというのだろうか。


「あなたは、どうして、私に仕えているの?」

「……どうして、とは?」

「親身になろうと、努力するのはどうして?」


リコリスの問いかけに、レティシアは明らかに混乱の表情を浮かべた。理知的な茶色の瞳が困惑に揺らめいている。


「主人の悩みに寄り添うのも、私の仕事でございます。」

「あなたの主人は、ずっと、ローズベルだわ。なぜ、あの子に付いていかなかったの?」

「……それは、」

「この国に未練があったの?それとも、お優しいローズベルに言い含められたの?お姉さまのそばに居てなんて。」


リコリスが口にした言葉に、レティシアの瞳は動揺を見せた。仮面のように表情を変えないレティシアの瞳は、何よりも雄弁に語ってしまう。

全てを覆い隠して、心など無いと、振舞ってくれた方がずっと楽だというのに。


「……そう。」

「陛下、私はっ、」

「別に、構わないわ。」


心の底から仕えてほしいなどと、高望んだことはない。独りぼっちの王女だったときも、孤独な女王になってからも、そんなこと望んではいない。

ただ、もし、叶うなら。

リコリスは、ずっと、唯一が欲しかったのだ。それが、手に入らないと知ってからは、それを見るのも嫌だった。

心が手に入らないのなら、そばになど居てほしくなかった。

ローズベルに付いて、この国を出ていきたいと言った者の希望はすべて受け入れた。それは、アルフォンソがそれを望むことを期待していたからだ。

そばに居なければ、彼の選択を知ることはない。そばに居なければ、彼が選ぶ女性を知らずに済む。彼が誰かを愛して、愛されて、いつか子どもをなして、そして幸せに微笑む姿を見ずに済む。


「陛下……」


リコリスはレティシアの縋るような声も、聞こえないふりをして、窓の外を眺めた。午後の明るい日差しの中で、名前も知らぬ鳥が飛ぶ。

ローズベルに心を奪われて、たくさんの人が心を捧げた。そのおこぼれを、今、リコリスは受け取っているのかもしれない。

ローズベルの親切心は、リコリスの周りを人で満たしたのかもしれない。でも、それが、どれほど、惨めで、屈辱的か、ローズベルは知らない。

ローズベルに心を捧げた人は、リコリスに心をくれたりはしない。誰の心も欲しがらない孤独な女王は、本当は欲しくてたまらない癖に、強がることしか出来ないのだ。

なんて哀れだろうか。

リコリスは紅茶を口に含んで、そのバラの香りに心が沈んでいくのが分かった。


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