手の上のワルツ
ぱきんと音がして、リコリスは、振り返ろうとした。だが、それが、叶うことはなかった。
「姫、」
アルフォンソの低い声、香り、腕の力。そのすべては、リコリスの知るアルフォンソのものだ。
目の前に広がる湖は、相変わらず美しいブルーをしていて、リコリスはどこまでもローズベルに似ているその色に切なくなった。
「アルフォンソ殿。どうして、ここへ?」
「お探ししました。突然、いなくなったと聞いて。」
アルフォンソの緩められた腕から、逃げ出したリコリスは、その息が少しだけ上がっていることに気づいた。
「ごめんなさい、誰かに伝えるべきだったわ。」
「今度からは、どうか、私を供に。」
リコリスは、もうそれが叶わないことを知っていた。そして、たぶん、アルフォンソもそれが叶わないことを知っている。
そんな予感はしていた。アルフォンソが、会いに来なくなった理由も、会いに来られなくなった理由も。
自分の手の内側でドレスが悲鳴を上げている。このドレスをくれたアルフォンソは、真実、リコリスの夫になろうとしてくれた。でも、きっともう、それは叶わない。
リコリスは、小さく首を振った。
「あなたも、知っているのでしょう?帝国の内乱のことを。」
「……あれは、問題ありません。ニコライ殿下は、すでに、次期女王の夫となることを約束された。今更、反故にはできない。」
「そう、かしら?……本当に?」
ニコライとローズベルの婚約は、すでに諸外国にも国内にも知れ渡っている。だが、リコリスが次期女王の座から降りたことは、まだ、誰にも知らされていなかった。それも、ニコライの申し出で。
それが、意味するところを、リコリスは理解できていると思う。
ニコライと、リコリスは同じ穴の狢だった。同じ施政者としての考えを持つ人間だった。
だから、ニコライの望みも、内乱の時期も、すべて計算されていたと理解できる。そして、きっと、アルフォンソも分かっていたのだ。
「姫、」
「私は、女王の座に、戻らねばならないのでしょ?」
「姫、私は、あなたの夫としてあなたを守り、いつくしみたい。その気持ちに偽りなどありません。」
「私が、女王になっても?」
「ええ、そうです。」
アルフォンソは、リコリスの手を取った。その手は、真実、リコリスを大切にしてくれるのかもしれない。
だが、リコリスは、きっと、この手を取ることはできない。
「女王とは、孤独なものです。」
「だからこそ、私が、お支えしたい。」
「それは、できません。」
ニコライが皇位を継いだなら、もう帝国とのつながりは必要ない。ローズベルという強固なつながりが存在するリコリスに、新たな帝国との婚姻関係は必要ではなくなる。
だが、リコリスには、この手を取ることは許されない。
「私は女王です。私に、与えられるのは国のための婚姻です。」
リコリスは涙が溢れそうになって、慌てて、湖を見た。そこには美しいブルーがある。それを見ていると思い出せるのだ。アルフォンソは最初から、リコリスのものなどではなかった。
彼の優しさに、勝手に縋ったのはリコリスだ。
彼の優しさを、勝手に振り払うのはリコリスだ。
そんな自分に、泣く資格なんてない。
「私の婚姻は、私のためで、あってはならない。」
「リコリスっ、」
リコリスは、開かれた唇にそっと人差し指を当てた。
「あなたに、もう、その名を許すことはできません。」
もう一度、開きそうになったその唇に、リコリスは自分のそれを重ねた。もう、二度と、重ねられることのない唇は、誓いのキスさえしてはくれなかった。
この思い出も、儚く消えてしまうのだろうか。
リコリスは、この思い出だけは抱きしめていたいと思った。




