音のないア・カペラ
「着いたようです。」
アルフォンソの言葉にリコリスは閉じていた目を開けた。公爵家の馬車の程よい揺れが心地よくていつの間に眠っていたようだ。リコリスが普段、使っている馬車よりもよほど良いもののようで、長いこと乗っていても気分が悪くなるようなことはなかった。
「私、どのくらい、眠っていて?」
「小一時間ほどでしょう。まだ、昼過ぎだ。疲れているでしょう。まずは、湯浴みでもして体を休めましょう。」
ザーレを慰問する。それが、この公務の本来の目的だった。
凍てつく冬は、ザーレの民の心ごと凍らせた。春を迎え、雪解けを待っていたはずの国民は、いまだ凍てつく冬の中に、自らを閉じ込めている。
リコリスは雪解けを告げるために、この地に来た。
冬に囚われて、春を忘れれば、次の冬にまた多くの者が死ぬ。
春を告げる女神は、本当はローズベルであるべきだ。それでも、リコリスは、最後であることを言い訳に、春告げ鳥になることを選んだ。
「姫、」
リコリスを部屋に案内すると荷物をとくためか、侍女たちは下がってしまう。
湯あみの手伝いは、どうするのだろうかと問うまもなく、リコリスをアルフォンソが後ろから、抱きしめた。
「っアルフォンソ殿、人が、」
「人払いはしてあります。」
「でも、」
アルフォンソは、その手の力を緩めることはしない。
「ご褒美を、頂けませんか。」
「え?」
「あなたの願いを叶えた。本当は、辺境伯に会わせるのも嫌だったけど、会いに行った。二人きりで会話をさせるなど、嫌でたまらなかったけど、行かせた。私が、どれほど身を焦がしたか。あなたが辺境伯に笑いかけるたびに、殺してやりたくなった。でも、しなかった。あなたが望まないから。」
アルフォンソの言葉は本気だ。剣ダコのできた掌が、リコリスの心を落ち着かなくさせる。
「だから、褒美をください。」
哀れな私に。
アルフォンソが、哀れであったことなど一度もないのに。アルフォンソは、そっと、リコリスの体を反転させる。逃げられない訳ではなかったけれど、リコリスはその腕のたくましさを、言い訳にすることにした。
アルフォンソのたくましい体を感じる。
アルフォンソの目はほの暗かった。とても暗くて、濡れている。
怖い、そう思うと、同時に、悲しいと思った。
彼の瞳の色が暗く濡れているのは、自分のせいだろうか、それとも妹のせいだろうか。答えは、後者なのに、自分を選択肢に入れてしまった浅ましさが悲しかった。
アルフォンソの唇に、リコリスは唇を寄せた。優しく、重ねるだけのキス。そっと、そっと、壊れてしまわないように。何かが壊れてしまわないように。
あなたになら、何でも捧げる。それは、裏切った王家の罪を贖うため。アルフォンソは女神を手に入れられたはずなのに、実際に押し付けられたのは廃材のリコリスだった。アルフォンソにとって不運としか言いようのない、運命をアルフォンソは黙って受け入れた。
リコリスにとって、転がり込んできた初恋の人との婚姻は、アルフォンソの不運の上に成り立った幸運だった。
だから、たとえ、夫が妹を一生想っていても、リコリスは何かを言うことはできない。
夫に求められたら、期待以上に応えなければならない。夫が離縁したいと望めば離縁しなければならない。リコリスは、夫の愛情を望んではならない。
唇が静かに離れると、アルフォンソの濡れた瞳は初めてリコリスは見た。アルフォンソは静かにだが、リコリスの唇に唇を強く押し付け、舌をからめる。
まるで、リコリスを求めているかのようなこの行為に、そんな意味はきっとない。リコリスは従順にアルフォンソに応えながら、心のどこかが冷えていくのを感じていた。




