インテルメッツォに傷をつけて
「治水工事の必要性はご理解いただけたと思いますが。」
「それは理解している。治水に今まで力を入れていたとは言え、こちらの手に余る部分を技術者の派遣で補ってくれるというのなら受け入れる。だが、どれも、あなたとの契約だから信用しただけに過ぎない。よそから来た人間をこの領地の人間がそう簡単に受け入れられると思うか?」
辺境というだけあり、マクデブルクは非常に閉鎖的だ。
長年、ウェイリントンが支配してきたため、地域とウェイリントンはかたい絆で繋がっている。王都や王家に対する忠誠心はどこまでも低い。
国境を守り、過酷な自然と向き合ってきたというだけのプライドが、その地域性を生んでいるのはわかった。
「私の義弟も妹も良き統治者になります。必ず伯のもとにもご挨拶に来るでしょう。女王として、立派にこの国を統治致します。その助力を伯にしていただきたいのです。」
「あなたを女王の座から引きずり下ろしたものを信用しろというのですか。色恋沙汰で今までのあなたの行いを無視したよそ者と、ただ国民の税で着飾る美しいだけの人形を敬愛しろとでも?」
辛辣な物言いだが、王都から遠く妹の姿を見たこともないウェイリントンにとって、妹の価値というのはその程度に過ぎないらしい。
「あの子は、私よりもずっと女王の座に相応しゅうございます。きっと、よりよき統治者になることでしょう。」
「あなたに、尻拭いさせているのに?」
「これは、私の不手際ですわ。」
リコリスは、出されたカップに唇を寄せる。毒を盛られていないことに安堵した。諸侯のうちで、リコリスに毒を盛らない男は奇特だ。
「私、あなたのことが好きでしたの。」
「そんなことで、懐柔されるとでも思ったか。舐められたものだ。」
「まあ、ひどい。契約うんぬんの話はもう、いいです。ただ、本当にあなたのぶれないところが好きだったという若造の告白です。」
カップを置き、男を見つめてふっと息を吐いてわらう。男は、つまらなそうに舌打ちをした。
「あなたは、私に毒を盛らない珍しい諸侯の一人でしたもの。政略結婚を自分で選ぶことができたなら、あなたのところにしようと思っていたのよ。」
「王女を後妻になど降嫁させるはずないだろう。」
「まあ、あなただってよくご存知でしょう?私は軽んじられている王女ですもの。」
あなたを軽んじるなど愚かな行いだ。
そう男に言われると、リコリスは嬉しくなった。ウェイリントンは決して嘘をつかない。優しい嘘も醜い嘘も絶対につかない。生きづらいとも言える生き方だったが、リコリスはこの男のまっすぐな正直さが気に入っていた。時に人を傷つけるであろう不器用なまでの真っ直ぐさは、リコリスのことも同様に傷つけたが、王都で付けられる膿むような傷とは違った。清々しく美しい一太刀は、リコリスの傷跡の中で最も美しいものだった。
「後妻か、お前が望んだら、私も受け入れただろう。」
もし、リコリスが今、望んだらどうなるだろう。あの時、父親の言葉より先に、彼のもとへ行きたいと言えたら、どうなっていただろう。
こんな苦しい思いしなくても済んだのだろうか。この人の手をとり、幸せと言えるものを手に入れて、引き裂かれるような痛みに耐え、いつ終わるのだろうと恐れる必要はなくなるのだろうか。
「だが、あなたの婚約者に殺されそうだな。」
「え?」
「あなたの婚約者は、会った直後から俺を射殺さんばかりだった。こうして二人で話をするのだって大層渋っただろう。」
「いえ、そのようなことは、」
「あなたに嫌われたくないと。なんと健気なことだ。」
違う。
アルフォンソは、そんなこと考えていない。リコリスにアルフォンソが示すものはそんなものじゃない。そうでなければならないのだ。アルフォンソは、リコリスではなくローズベルが一番で、ローズベルとの婚姻の代わりだったのだから。
「信じられないか。孤独な女王ならいざ知らず、ただの公爵夫人に成り下がったくせに、他人を信じることすらできないのか。」
「……あなたは、人を信じる強さがありますもの。」
わかるはずないでしょう。リコリスはうっすらと笑った。
「悲劇のヒロインぶるのはやめろ。あなたが俺を望んだのは俺といれば傷つかずに済むと思ったからだろう。あなたはヒロインぶるにはしたたかすぎる。」
「私は、知っているだけですのよ。」
自分に価値がないと、知っている。確信している。
妹は愛されて、自分が愛されない理由を価値がないことにすり替えなければ、生きていけなかったのだ。リコリスにとって、それが唯一、自分を納得させて、愛をこい縋り付く愚かな自分にならないための方法だった。
「愚かだな。」
切り裂く刃の鋭さを思い出した。この人の言葉は、とても鋭い。えぐられるというよりも突き刺される。その感覚は忘れられるものじゃないのに、引き裂かれた心の痛みで忘れていたようだ。
「あなたも、あなたの騎士も。」
「人生とはままならないものです。私も、私の婚約者も、巻き込まれてどうしようもなく身動きがとれなくなっただけですわ。」
騎士という言葉は、あえて使わなかった。
彼は、ローズベルの婚約者という地位から引き摺り下ろされた。だが、せめて、彼の矜持のために、ローズベルの騎士という地位を奪いたくはない。
リコリスもアルフォンソも王命という運命に巻き込まれて、どうしようもなくなって、この場にいるだけなのだ。
望んだわけではない。
流されたくないと望んでいたのに、ずっと、リコリスは流され続けていた。今も。
「宿命のせいだと逃げているだけだ。いつでも、つかみ取れる。あなたなら。」
紳士淑女の距離を守っていた辺境伯は、テーブルの向こう側から長い手を伸ばし、細く美しい指先をリコリスの頬に滑らせた。
「あなたが望むのなら今からでも、私のもとへとおいでなさい。あなたの言うままならない場所から抜け出せばいい。あなたが本当にそれを望むのならば。」
望む。本当に。夫という運命から逃げ出して、辺境伯のところへ逃げることを。
「俺も男だ。あなたにそれなりのことは要求するがね。」
指先が触れ合う。男女の触れ合いではなく、ウェイリントンの暇つぶしのような、単純な指先だ。
「あなたがそれを望むことはないだろう。」
リコリスは触れ合っていた指先を引いた。
「たとえ、あなたが望んでも、あなたの騎士はそれを許しはしないだろう。」
ウェイリントンの言葉に嘘というものは存在しない。リコリスはきっと、ウェイリントンの手を取ることを望まない。アルフォンソは、それを許しはしない。彼の立場からしたら、それを許すことはできない。
「治水の件は、承諾しない。あなたの義弟も妹も私には、なんの価値もない。」
そんな人間のいうことを聞くはずなかろう?ウェイリントンは彼らしからぬ所作で小首をかしげた。




