哀れな娘
リコリスとローズベルの間に流れる川は昔はもっと緩やかなものだったと思う。隔てているものはたくさんあったけど、それでももっと柔らかだった。劇的に変わったのは、リコリスの愚かさ故だった。寂しさ故だった。誰のせいでもなく、リコリスただ一人が変わったのだ。あれは、秋の日の夕暮れだった。妹に騎士がついて、リコリスにはつかなかった。ローズベルにはやまといる使用人がリコリスには当たり前のようにほとんどいない。誰も守ってくれないし、誰もそばにいてはくれない。
寂しい。でも、それが当たり前。
だから、リコリスはローズベルと一緒にいる時間が多かった。だからこそ、勘違いしてしまったのかもしれない。
騎士は、ローズベルの騎士。
だけど、リコリスのことも守ってくれる、なんて。
一人で庭園を歩いていたリコリスはたまたまアルフォンソを見つけた。本当にたまたまだった。そして、たまたま彼は、その日非番だった。ほとんどない非番の日に彼を見つけたのはリコリスには幸運だったけど、彼には不幸だったのかもしれない。
「アル!」
「リコリス王女殿下。お一人ですか。」
「ローズベルは?」
「今日は、私は非番でして。いつもでしたら、ローズベル様はお部屋に。」
「そうだったのね。」
「リコリス王女殿下は?」
「これからね、東屋に行くの。みんながあまり行かない東屋なのだけど、私のお気に入りで。」
風が少しないでいた。
「そうだ!アルも来ない?とても綺麗な場所なのよ。」
そう言って、リコリスはアルフォンソの手を取った。愚かな小娘だった。あの日あの時に行くことができたら、今すぐにでもやめさせる。この言葉も行動も何もかも。そうしたら、リコリスとアルフォンソの間にあるものも、リコリスとローズベルの間にあるものも今とは変わっていただろう。
「手を、お離し下さい。」
「でも、アル、すぐそこなのよ。」
「王女殿下!」
「……アル?」
少し強い言葉にリコリスは手を離した。
「見られたらあなたの立場が悪くなります。」
「ごめんなさい、私、」
「それに、私はあくまでローズベル様の騎士でございます。あなたの騎士ではありません。」
あなたの騎士ではない。
その言葉はわかりきっていたことなのに、リコリスの胸に深く突き刺さった。そう、リコリスには騎士はいない。廃材に騎士はいらない。だから、リコリスには騎士がいない。ゴミの塊に騎士はいらない。そうだった。
リコリスとローズベルは何もかも違う。
だから、自分を守るために知識と品格を身につけなければならない。そう昨日も家庭教師に言われたのに。なんで、気づけなかったのだろうか。リコリスは、分別のある賢い子でなければならない。他人のものに触れてはならない。心を閉ざし、感情を置き去りにして笑わなければならない。そんな存在だったのに。何を勘違いしているのだろうか。
リコリスは黙った。驚いて力をなくしていた手を優雅に組んで、リコリスは心を空っぽにした。
「ごめんなさい、アル。あなたに無理強いをするつもりはなかったのよ。それに、あなたはローズベルの騎士だわ。わかっている。でも、ごめんなさい。少しその線を踏み違えてしまったみたいね。私は、これから東屋に行く。でも、あなたは来なくていい。みんな私が東屋にいることは知っているから、そのままにしてくれてもいいし、気になるのであれば警備のものに声をかけて寄越してくれればいいわ。」
一息に話して軽く膝をおる。それじゃあと、背を向けてから、ふっと振り返る。
「ありがとう、アルフォンソ殿。」
もうきっと、こんなに話すことも、目を合わせることも笑顔を見せることもない。でも妹と彼と三人でいるときは確かにリコリスは笑っていられた。だから、感謝した。少しでも無邪気な時間を共有してくれたことと、もうそうしてはいられないと教えてくれたことに感謝した。
「……様、姫様。」
東屋に座っていたリコリスはふと意識を戻した。足元に跪くのは老騎士と言っても嘘ではない年齢の男だ。ロマンスグレーの髭も髪も夕暮れの光に染められている。
「テオドール、どうしたの。」
「どうしたのとは、姫。あんまりでございます。」
拗ねたような口調とは裏腹にテオドールは笑っていた。
「……ああ、アルフォンソ殿ね。律儀なこと。」
「アルフォンソ殿、ですか。」
敬称を付けるのはなぜか、揶揄されていることはわかる。テオドールは小さな頃から知っている。父の騎士。リコリスの騎士ではない。
「あの人は、あの子の騎士だから。私のものではないわ。線引きを間違えてはいけないと思ったの。」
「そうでしたか。」
ええ、そうよ。そう答えながら、リコリスは夕日をぼーっと眺めた。空はオレンジ色から赤色に変わっていっている。
「どこか、遠くに行きたいわ。」
小さく呟いた。老体とは言えテオドールにも聞こえただろうその言葉をあえて彼は無視してくれた。その優しさは身にしみる。だれもが、リコリスの言葉を無視するけれど、彼は優しさから無視してくれる奇特な人だ。
「寒くなってまいりました。お部屋にお戻りを。」
「そうね。」
リコリスは立ち上がる。テオドールが手を貸してくれた。リコリスに手を貸す人など奇特だ。
「リコリス様、たまにはこの爺と遊んでくださいませ。」
リコリスが手を取ると、テオドールが笑った。にやりと歯を見せた貴族では見ない笑い方。テオドールのこの笑い方がリコリスは好きだった。だれも見向きもしない自分に、テオドールは隠れたこんな一面を時折見せてくれる。
「テオドールこそ、たまには遊んでちょうだいね。」
そんなことしてくれるはずもない。だれもリコリスを訪ねないし、ローズベルのようなご学友もいないリコリスはいつも一人だ。でもテオドールのような人もたまにいる。アルフォンソもそんな人の一人だと、リコリスは見誤った。とんだ間違いだったけど。
「テオドール、私は、価値が欲しいわ。私だけの価値が。」
流されることなく自分の足で立つために、知識と品格だけじゃない確固たる何かが欲しかった。しがみついていなくてもここにいてもいいと言ってもらえる何かが。
「誠ですか。」
「ええ。ここに自分の足で立っている証が欲しい。」
「ご覚悟は。」
「もちろんあるわ。私には騎士もいない、親しい友人も、父母の愛も、支えてくれるものも、愛らしい顔立ちも、武器にできるようなものは何もない。でも、私は武器が欲しい。生きていくための武器が。」
「なれば、この爺がその武器を差し上げましょう。それが、あなた様を守るか、ご自身を貫くかは、あなた様次第でございますが。」
リコリスは静かにテオドールの瞳を見つめた。そのままテオドールの手を握っていた手に力を込める。
「命じます。私に武器を与えなさい。」
その日、リコリスとアルフォンソ、ローズベルの間に流れる川は広くなり、流れは急になった。絶対に渡れなくなったそこに、リコリスは橋をかけなかった。その日から、リコリスは変わった。与えられないことを、ただ嘆くのはやめた。己の手で掴み取れないものを欲するのはやめた。