表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
18/52

薔薇の唯一



「お姉さま、ごきげんよう。」


ローズベルが、挨拶をすると、いつもリコリスは視線を少しだけそらして、それから微笑んで挨拶を返してくれる。


「ごきげんよう、ローズベル。」


こんな風に、柔らかく微笑まれるのが昔は好きだった。姉にローズベルと呼ばれることが何よりも好きだった。誰かでも、何かの代わりでもなく、ただローズベルを呼んでくれるのはリコリスだけだったから。

それでも、その言葉の裏側に、気後れを感じているリコリスの姿が見え隠れする。


「お姉さま、今日は、存分に語らいましょう?」


お茶会を開いて、リコリスを呼んだ。お茶会を開くことは日常的にしている。

友人と呼べる人々を招いたり、誰かを祝福したり、そんなお茶会はいくらでもしているのに、姉とのお茶会なんて、随分開いていない。

リコリスが公務を積極的にこなすようになってから、ローズベルとリコリスの間には大きな隔たりができた。

見えない壁が、ローズベルをリコリスから遠ざけた。

家族の中で、唯一、ローズベルをローズベル自身として愛してくれるリコリスが、遠くなってから、自分が次第におかしくなっていく感覚が恐ろしかった。

ローズベルとリコリスの間には埋まらない溝があった。

ローズベルの気づかない間に、それは渓谷へと姿を変えた。


「ローズベルは笑っているだけでいいのよ。笑っているだけで、あなたはみんなを幸せに出来るわ。だから、笑って。」


かつて、リコリスはそう言った。両親の愛情を一身に受けているはずなのに、孤独でしょうがなかったローズベルのそばにはリコリスがいてくれた。

ローズベルはリコリスを真実慕っていた。

だから、リコリスが、ローズベルに道化になることを望むなら、演じてもいいと思った。それなのに、いくらローズベルがリコリスに言われた通り道化を演じても、リコリスは離れていった。

渓谷は渡ることはできず、堕ちるしかなくなった。


「お姉さま、婚約者とはどう?」

「……どう、と言われても。あなたこそ、どうなの?初恋の方とは。」

「とても、幸せ。本当に、そう思うの。お姉さまのことは、本当に申し訳ないと思っているの。でも、でも、幸せなの。」


ローズベルは真実、幸せだと思った。姉から奪い取ってしまった殿方との未来を描いていること自体が、浅ましいことだと思う。

きっと、いつか、罰が下るのではないかと思った。でも、幸せなのだ。

誰かの代わりではなく、自分を愛してもらえることが。

何かの代わりではなく、自分を求めてもらえることが。

リコリスは、少し困ったような顔をした。その表情の意味を、言葉なしに理解できるほど、ローズベルはリコリスを知らない。


「そんなこと、言わないで。あなたと殿下の恋路を邪魔してしまったこと、とても後悔しているのよ。」

「そんな!私こそ、お姉さまが本来座るはずだったところにいるのだもの。私は、公務もしたことがないし、女王に相応しい教育を受けていたとは言えないわ。国民だって、お姉さまが女王の方が、幸せなはずだって、何度も思うの。」


ローズベルが俯くと、その手に優しく姉の手が触れた。姉が自ら、ローズベルに触れることなど、ここ何年もなかった。そして、こんな風に女王ではなく姉として微笑んでくれることも。


「あなたは、ちゃんと女王に相応しいわ。あなたは、私よりもずっと、優しい女王になれる。ローズベルはそれにふさわしい殿方をちゃんと選べたのよ。」

「お姉さま、」

「あなたは、自分の唯一をちゃんと手に入れられた。」


リコリスの周りには誰もいなかった。孤独で孤高の華のような人に近づくことを、ローズベルだけが許されていた。それが、嬉しくてたまらなかった。

リコリスは孤独だ。それが、彼女の望みなのか、周囲の望みなのか、幼いローズベルにはわからなかった。今だって、どちらが先だったのか、問われたら、答えることができない。

でも、結局は、リコリスは孤独であることを望んだのだ。自分とは違って。

ローズベルはいつも、孤独だった。

誰かがそばにいつもいて、誰もがローズベルをほめたたえ、愛していると囁くのに、独りぼっちだと感じる。

母は、ローズベルと呼び、愛していると言い、抱きしめてくれたけれど、その瞳の先にちらつく影は、ローズベルとは違う形をしていた。

父は、ローズベルと呼び、愛していると言い、抱きしめてくれたけれど、それが姉に向けることのできない愛情の裏返しだと知っていた。

使用人は誰もが、ローズベルを美しいと言い、天使のようだと言って傅いたけれど、ローズベルの容姿しか見ていない。

友人は誰もが、ローズベルをうらやみ、好きだと言ってくれたけれど、その瞳の中に妬みがあることに気づいていた。

ローズベルに与えられた騎士は、出会った時には既に、唯一を決めていた。その男は、狂おしいほどに唯一を求めていた。

それが許されないと知っていて、それでもなお、求めていた。

そのさまが、うらやましかった。

姉だけを求め続ける騎士。

騎士には終ぞ教えてやらなかったけれど、リコリスが騎士だけを求めていることは知っていた。

ずっとローズベルはリコリスだけを見ていたのだから。


「お姉さまも、そうよ?」

「私は、……そうね。そうかもしれない。でも、あの人の唯一は、私ではないから。」


悲しそうに微笑むリコリスは、とても美しかった。自分よりもずっと。

リコリスは本物だった。中身の伴った天使だ。

自分のような張りぼての天使とは違う。

リコリスだけは、ローズベルを、ローズベルとして愛してくれた。その瞳の内側に何があろうとも真実、ローズベルを愛してくれた。

でも、リコリスには、リコリスの唯一がいる。

その事実に、ローズベルは耐えられなかったのだ。

両親に愛されているとはいえ、それが、誰かの代替であることを、リコリスは知らない。

それが、どれほどの孤独か、リコリスは知らない。

リコリスにはただ一人がいる。手に入らないと思っている騎士は、もうすでに、リコリスのものだ。

孤独が過ぎた姉には気付けない。もしかしたら、一生。


「私には、そうは思えないわ。」

「そう?……だと、良いのだけれど。でも、幸せには、なれると思うの。愛が無くとも、心を尽くしてはくれる。私も、誠心誠意、お応えできたらと思うの。」

「お姉さまは、愛はいらないの?」

「愛を求めるのは、過ぎたことよ。」

「私も?」


ローズベルにはリコリスがいると思っていた。

でも、姉の心はローズベルだけのものには決してならない。だから、ローズベルはニコライを選んだのだ。

一人の自分を埋めてくれる、ニコライを。


「いいえ。あなたには、殿下の愛が、ちゃんとその手にあるわ。だから、怖がらなくていいのよ?」


怖がる?リコリスの言葉に、自分が初めて震えていることに気づいた。

愛がないことがこれほど怖いとは思わなかった。ニコライの愛がこれほど、自分を満たしているのだと、その時、初めてちゃんと理解できた。

お開きになるまで、リコリスは、ローズベルの手を握りしめ続けてくれた。

二人の間が埋まることはきっと、一生ない。

それでも、ローズベルは狂おしいほど、この温もりが愛おしかった。


「お姉さまの手にも、ちゃんとあるのよ。」


去っていく姉の背中に小さくつぶやく。その言葉が姉に届くことはない。

その言葉を告げてしまえば、その渓谷が崖になってしまうことを知っていたからだ。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ