薔薇の唯一
「お姉さま、ごきげんよう。」
ローズベルが、挨拶をすると、いつもリコリスは視線を少しだけそらして、それから微笑んで挨拶を返してくれる。
「ごきげんよう、ローズベル。」
こんな風に、柔らかく微笑まれるのが昔は好きだった。姉にローズベルと呼ばれることが何よりも好きだった。誰かでも、何かの代わりでもなく、ただローズベルを呼んでくれるのはリコリスだけだったから。
それでも、その言葉の裏側に、気後れを感じているリコリスの姿が見え隠れする。
「お姉さま、今日は、存分に語らいましょう?」
お茶会を開いて、リコリスを呼んだ。お茶会を開くことは日常的にしている。
友人と呼べる人々を招いたり、誰かを祝福したり、そんなお茶会はいくらでもしているのに、姉とのお茶会なんて、随分開いていない。
リコリスが公務を積極的にこなすようになってから、ローズベルとリコリスの間には大きな隔たりができた。
見えない壁が、ローズベルをリコリスから遠ざけた。
家族の中で、唯一、ローズベルをローズベル自身として愛してくれるリコリスが、遠くなってから、自分が次第におかしくなっていく感覚が恐ろしかった。
ローズベルとリコリスの間には埋まらない溝があった。
ローズベルの気づかない間に、それは渓谷へと姿を変えた。
「ローズベルは笑っているだけでいいのよ。笑っているだけで、あなたはみんなを幸せに出来るわ。だから、笑って。」
かつて、リコリスはそう言った。両親の愛情を一身に受けているはずなのに、孤独でしょうがなかったローズベルのそばにはリコリスがいてくれた。
ローズベルはリコリスを真実慕っていた。
だから、リコリスが、ローズベルに道化になることを望むなら、演じてもいいと思った。それなのに、いくらローズベルがリコリスに言われた通り道化を演じても、リコリスは離れていった。
渓谷は渡ることはできず、堕ちるしかなくなった。
「お姉さま、婚約者とはどう?」
「……どう、と言われても。あなたこそ、どうなの?初恋の方とは。」
「とても、幸せ。本当に、そう思うの。お姉さまのことは、本当に申し訳ないと思っているの。でも、でも、幸せなの。」
ローズベルは真実、幸せだと思った。姉から奪い取ってしまった殿方との未来を描いていること自体が、浅ましいことだと思う。
きっと、いつか、罰が下るのではないかと思った。でも、幸せなのだ。
誰かの代わりではなく、自分を愛してもらえることが。
何かの代わりではなく、自分を求めてもらえることが。
リコリスは、少し困ったような顔をした。その表情の意味を、言葉なしに理解できるほど、ローズベルはリコリスを知らない。
「そんなこと、言わないで。あなたと殿下の恋路を邪魔してしまったこと、とても後悔しているのよ。」
「そんな!私こそ、お姉さまが本来座るはずだったところにいるのだもの。私は、公務もしたことがないし、女王に相応しい教育を受けていたとは言えないわ。国民だって、お姉さまが女王の方が、幸せなはずだって、何度も思うの。」
ローズベルが俯くと、その手に優しく姉の手が触れた。姉が自ら、ローズベルに触れることなど、ここ何年もなかった。そして、こんな風に女王ではなく姉として微笑んでくれることも。
「あなたは、ちゃんと女王に相応しいわ。あなたは、私よりもずっと、優しい女王になれる。ローズベルはそれにふさわしい殿方をちゃんと選べたのよ。」
「お姉さま、」
「あなたは、自分の唯一をちゃんと手に入れられた。」
リコリスの周りには誰もいなかった。孤独で孤高の華のような人に近づくことを、ローズベルだけが許されていた。それが、嬉しくてたまらなかった。
リコリスは孤独だ。それが、彼女の望みなのか、周囲の望みなのか、幼いローズベルにはわからなかった。今だって、どちらが先だったのか、問われたら、答えることができない。
でも、結局は、リコリスは孤独であることを望んだのだ。自分とは違って。
ローズベルはいつも、孤独だった。
誰かがそばにいつもいて、誰もがローズベルをほめたたえ、愛していると囁くのに、独りぼっちだと感じる。
母は、ローズベルと呼び、愛していると言い、抱きしめてくれたけれど、その瞳の先にちらつく影は、ローズベルとは違う形をしていた。
父は、ローズベルと呼び、愛していると言い、抱きしめてくれたけれど、それが姉に向けることのできない愛情の裏返しだと知っていた。
使用人は誰もが、ローズベルを美しいと言い、天使のようだと言って傅いたけれど、ローズベルの容姿しか見ていない。
友人は誰もが、ローズベルをうらやみ、好きだと言ってくれたけれど、その瞳の中に妬みがあることに気づいていた。
ローズベルに与えられた騎士は、出会った時には既に、唯一を決めていた。その男は、狂おしいほどに唯一を求めていた。
それが許されないと知っていて、それでもなお、求めていた。
そのさまが、うらやましかった。
姉だけを求め続ける騎士。
騎士には終ぞ教えてやらなかったけれど、リコリスが騎士だけを求めていることは知っていた。
ずっとローズベルはリコリスだけを見ていたのだから。
「お姉さまも、そうよ?」
「私は、……そうね。そうかもしれない。でも、あの人の唯一は、私ではないから。」
悲しそうに微笑むリコリスは、とても美しかった。自分よりもずっと。
リコリスは本物だった。中身の伴った天使だ。
自分のような張りぼての天使とは違う。
リコリスだけは、ローズベルを、ローズベルとして愛してくれた。その瞳の内側に何があろうとも真実、ローズベルを愛してくれた。
でも、リコリスには、リコリスの唯一がいる。
その事実に、ローズベルは耐えられなかったのだ。
両親に愛されているとはいえ、それが、誰かの代替であることを、リコリスは知らない。
それが、どれほどの孤独か、リコリスは知らない。
リコリスにはただ一人がいる。手に入らないと思っている騎士は、もうすでに、リコリスのものだ。
孤独が過ぎた姉には気付けない。もしかしたら、一生。
「私には、そうは思えないわ。」
「そう?……だと、良いのだけれど。でも、幸せには、なれると思うの。愛が無くとも、心を尽くしてはくれる。私も、誠心誠意、お応えできたらと思うの。」
「お姉さまは、愛はいらないの?」
「愛を求めるのは、過ぎたことよ。」
「私も?」
ローズベルにはリコリスがいると思っていた。
でも、姉の心はローズベルだけのものには決してならない。だから、ローズベルはニコライを選んだのだ。
一人の自分を埋めてくれる、ニコライを。
「いいえ。あなたには、殿下の愛が、ちゃんとその手にあるわ。だから、怖がらなくていいのよ?」
怖がる?リコリスの言葉に、自分が初めて震えていることに気づいた。
愛がないことがこれほど怖いとは思わなかった。ニコライの愛がこれほど、自分を満たしているのだと、その時、初めてちゃんと理解できた。
お開きになるまで、リコリスは、ローズベルの手を握りしめ続けてくれた。
二人の間が埋まることはきっと、一生ない。
それでも、ローズベルは狂おしいほど、この温もりが愛おしかった。
「お姉さまの手にも、ちゃんとあるのよ。」
去っていく姉の背中に小さくつぶやく。その言葉が姉に届くことはない。
その言葉を告げてしまえば、その渓谷が崖になってしまうことを知っていたからだ。