青いピッツィカート
森の中は静かだが、木々のさざめき、淡く入り込む太陽の光はリコリスの奥底まで照らし出すようだ。踏みしめた土の上で枝が折れて、ぱきりと音がなる。
リコリスの足元を守るのは乗馬用のブーツだった。新品同様のそれは、リコリスが今まで乗馬を嗜まなかった証のようだ。
昔は妹に付き合って、乗馬をしていたけれど、長らく、やろうとは思わなかった。移動と言えば、馬車だったし、困ったことなど一度もなかった。
今日、アルフォンソに誘われて、ピクニックに出かけるまでは。
「いかがですか?」
「ええ、とても素敵な場所ですわ。」
アルフォンソに案内されたのは、王宮の端にある森で、不案内な者が入ればたちまち迷ってしまいそうな場所だった。そこは、端とは言え、整備はきちんとされていて、自然の造りをいかした森はとても心地よかった。
「よかったです。少しでも、息抜きになればと思っていましたので。」
アルフォンソは優しく微笑んで、馬を手近な木につなげた。彼の手には、この後、ともに摂るための昼食とブランケットがあった。
アルフォンソは自然な流れで、リコリスの手を取った。その武骨で温かい手に、驚きながらその手を振り払うことはしない。
自分の細い手とは違う。慰問の際に握る子供の手とも、老人の手とも違う、男性の手。
リコリスがかつて、心が擦り切れるほど望んだ手を、ぎゅっと握る。アルフォンソは、その所作に気取られることもなく、目的の場所へ歩いて行った。
「……まあ、」
感情を露わにしてはいけない。女王としての自分が、目の前に広がった光景すら否定しそうになって、唇が震えた。目の前に広がった湖は、人の手が入ったことがないとでも主張するように透き通っていた。湖の底まで覗き込める透明な水だが、光の加減で、美しい水色にも見えた。
まるで、ローズベルの瞳の色のよう。
リコリスはあまりの美しさに手を強く握る。
「お気に召されましたか?」
「ええ。とても、きれい。」
しゃがみ込み、静かに手を濡らすアルフォンソに、促されてリコリスは静かに座った。こんな行動は、女王の振る舞いにふさわしくないと考えてから、やめた。
アルフォンソに倣って、今度は自分から手を水に浸す。
春と言える陽気なのに、この水はとても冷たくて、体の芯が冷えていきそうだ。
「まだ、冷たいですね。」
「そうね。とても、冷たいわ。」
夏になると泳ぎたくなるような場所なんですよ。そう笑ったアルフォンソの中に、リコリスとは共有できない思い出があるように思えて目をそらした。
「ここへは、ローズベルと?」
「いいえ。いつも私一人で。ここは、私にとっても特別な場所ですから。」
「……特別?私に教えてしまっても良かったの?」
「もちろんです。特別な場所ですから、特別な女性と共有したいと思うのはおかしくないでしょ?」
特別、その言葉に、リコリスの心臓は変に跳ねた。侍女に整えられた髪に触ると、出かけに渡されたマーガレットの花に触れた。そばに居た侍女はなぜか、頬を染めて、わざわざマーガレットをリコリスの髪に結いこんだ。その技術は、女のリコリスから見ても、とても高等なものに思えた。
「私が?」
「妻にと、望んだ方です。」
目線を合わせると、存外にリコリスとアルフォンソの距離は、近かった。離れようと腰を上げようとするリコリスの動きは、アルフォンソに手を引かれて封じられてしまう。体が、傾いで、アルフォンソの腕の中に抱き留められてしまった。
その自然な動きをリコリスは、まるで他人事のように思う。さすがに鍛えられた騎士は違うと、感心してしまった。
リコリスの背中に回る大きな手。リコリスにとって、誰かに抱きしめられるなんて経験は、覚えている限り初めてのことだ。驚いて、息が詰まりそうになって、他人のぬくもりに対する恐怖と同時に安心感を覚える。
誰かの腕の中は、これほど心地いいことを、知らなかった。そして、知りたくなどなかった。
「アルフォンソ殿、」
「すみません。しばらく、このままでもいいですか?」
彼はこの行為に何を見出しているのだろうか。リコリスが、何も見いだせないこの行為に。
リコリスは小さく頷いた。
勝手に心臓が跳ねる感覚だけは、リコリスの中に不快感をもたらしたけれど、リコリスの心臓だけでなくアルフォンソのそれも聞こえる気がする。自分のそれよりもゆっくりで、それでいて力強い心臓の音。リコリスはそれがもっと聞きたくて、近づくためにアルフォンソの背中に手をまわして隙間を埋める。
目を閉じると、木々のさざめきも鳥の声も聞こえない。ただ、アルフォンソの心臓の音が聞こえて、その心地よさがリコリスの足りない何かを埋めている気さえしてくる。
「すみませんでした。思わず……」
離れたアルフォンソは、少しだけ編み込まれたマーガレットに触れた。その手が、名残惜しいと言っている気がして、自分の浅ましい想像にリコリスは悲しくなった。
なぜ、この人は、リコリスのものに、なってくれないのだろう。
なぜ、この人は、ローズベルのものなのだろう。
「昼食にしましょう。」
アルフォンソは手際よくランチョンマットを広げて、リコリスをエスコートする。
用意されたサンドウィッチを手にし、二人で会話もなく湖を眺めながら、昼食にする。この無言の隙間を、きっとローズベルなら楽しい時間へと変えていけるのだろう。
むなしい想像をしながら、ローズベルの瞳の色をした湖を眺め続けた。
この間、会った時にあった小さな諍いなどなかったかのように、二人の間は穏やかだった。
「嫌なことがあったり、悔しいことがあると、いつもここに来るんです。ここは静かで穏やかだから。」
一つサンドウィッチを食べ終えたリコリスは、アルフォンソの言葉に瞬きを返した。ここは、美しくて、心が洗われる。
「とても、美しいですわ。」
「透明なのに、光が当たると不思議と水色に見えるでしょ?それが、好きなんです。」
「ええ。まるで、ローズベルの瞳の色みたい。」
だから、とても美しいのね。そういうと、アルフォンソは推し量ることのできない表情をした。
「いいえ。私は、ここに居る時、いつも姫を想像していました。」
「……姫?」
「姫、あなたを。」
いつの間にか、姫と呼ばれるようになっていたことに、リコリスは気付いてはいた。特別な王族に対する呼称を、なぜ今までローズベルに使わなかったのかは知らない。そして、どうして、リコリスにそれを使うのか。
アルフォンソのその呼び方にはいまだに慣れない。
「私を?」
「ええ。静かな湖を見ていると、あなたを思い出せる。美しいここに居れば、あなたをそばに感じられる。だから、ここに居る時はいつも、姫を思い浮かべていました。」
なぜか、問いかけてはいけない気がして、リコリスは俯いた。どうして、リコリスを想像するというのだろうか。このどこまでもローズベルのように美しい場所にいて。
聞いてはいけない。リコリスはそう思った。そんなリコリスに、アルフォンソは苦笑する。
「まだ、姫の心の準備ができておられない。だから、今日はここまでにします。」
何も答えないリコリスの手を引いて、アルフォンソは、片づけを終えてしまう。
行きと同じように、リコリスを自分の馬に乗せ、二人乗りする。その近すぎる距離が行きよりも、胸を苦しめた。
アルフォンソの言葉の意味を知りたくなどない。
リコリスは小さく首を振って、あの湖のブルーを妹の瞳の色に重ねた。