与えられたウーベルチュール
与えられた1年という婚約期間を、どう過ごすか。リコリスは、困惑していた。
一人で立っていたいとテオドールに望んでから、リコリスは公務に追われ寝る間を惜しむ生活をずっと続けていた。
それらの仕事を、自ら手放し、ニコライに引き継いでしまったリコリスには何もすることが無かったのだ。
まるで空っぽの、瓶のよう。
自分には公務以外、何もなかったのだと痛感した。
国民のためだと、仕事をし、手に入らないものを忘れるために没頭したに過ぎないそれしか、自分の中にはなかったのだ。
妹のように友人もいなければ、楽しみにしている観劇も、刺繍も、お茶会も舞踏会もない。社交場は煩わしいものでしかなく、屈辱を味わうためだけのもので、それならば会議に出ていた方が何倍もましだった。
陛下に許された仕事に没頭している間は、すべてを忘れられた。
自分が、なぜ、こんなにも孤独だと感じるのかも。なぜ、そうまでしてここにしがみついていたいと望むのかも。
全て、忘れることができた。
でも、それを手放してしまってから、リコリスは何をすればいいのか分からなくなった。
時間が空いてしまえば、妹を避ける言い訳も、彼女の騎士を避ける言い訳もなくしてしまった。
「リコリス王女殿下、お茶を、用意いたしました。」
ローズベルと違って、リコリスには専属の侍女はいない。リコリスにつけられる侍女は最低限で、それは、くるくる回る回転木馬のように、入れ替わり立ち代っていくものだった。
誰かと親しくなることはない。それが、リコリス自身のせいなのか、この仕事の割り振り方のせいなのかは分からなかった。
「ありがとう。」
静かに窓の外を眺めていたリコリスは、侍女が引いた椅子に座り、紅茶の香りを静かに楽しむ。
諸侯にとって目の上のたんこぶのような存在だった自覚があるリコリスは、次期女王である間は終始、気を張っていた。口に入るものは全て、毒だと思った。贈り物は、賂か、リコリスを貶めるもののどちらかでしかなかった。
リコリスが後継者から転がり落ちれば、毒を盛られることはなくなり、贈り物はめっきり来なくなった。リコリスには、次期女王としての価値しかないことを痛感する羽目になった。
いや、贈り物がめっきり来なくなったというのは嘘だ。たった一人、リコリスに、いまだに贈り物をする人がいた。
その贈り物は、賂でも、リコリスを貶めるものでもないが、そこに心も存在しない。
「リコリス王女殿下、アルフォンソ・クルツバッハ公爵が、いらっしゃいました。いかがなさいますか。」
リコリスは、目線を上げた。そこに立っていたのは、ローズベルの専属の侍女だった。どうして、彼女がここに居るのだろう。リコリスは一瞬だけ、眉を寄せて、考えるのをやめた。
ローズベルの専属侍女だって、たまには、この業務に回されることもあるだろう。
「通してちょうだい。」
リコリスは一度、微笑んで告げる。アルフォンソに会う前は、いつだって、こうする必要があった。笑顔の練習をしなければ、微笑むことは難しい気がする。
ローズベルの侍女が、扉に向かうのを眺めながら、リコリスは何度も何度も、微笑みの練習をする。不自然ではないように。そして、女王ではなく、王女として微笑むように。
何年も次なる施政者として背筋を伸ばして生きてきたリコリスは、ただの王女としてふるまうことには慣れていない。
「姫、ご機嫌麗しゅう。」
「アルフォンソ殿、ごきげんよう。」
何度も練習した柔らかく淡い微笑みを浮かべる。妹の微笑みを想像しながら、したのが悪かったのか、それとも出来が単に悪かったのか、少しだけアルフォンソの顔が曇って見えた。
どちらにしろ、微笑みの練習は意味がなかったのだと悟った。
今更、表情を変えることもできず、リコリスは失敗だった微笑みを浮かべたまま、アルフォンソに席を勧める。
「少し、お痩せになられました?とても、お疲れのようにお見受けいたしますわ。」
リコリスはアルフォンソの少しやつれて、クマをつくっている顔を、思わず指摘してしまった。
彼は、婚約期間の1年で、公爵家を継がねばならない。それが、リコリスを降嫁させるための必要条件だった。
どこまでもローズベルの騎士である彼は、残り物のリコリスを処理するためだけに、父親から仕事を引き継ぎ、爵位を得た。
ローズベルの近衛騎士という立場を手放して、新たな職にも就いた。そのどちらもこなしながら、こうしてリコリスに会いに来る。その律義さに、リコリスは感心すると同時に、心が痛んだ。
残り物の私のために会いに来ることなどない。
それが、たとえローズベルのためだとしても。
ローズベルの初恋を守るために、リコリスを伴侶に迎えることを決めたアルフォンソが気の毒で堪らなかった。
「ご無理、していらっしゃるのでしょ?少し、休まれた方が良いわ。私の所に、ご機嫌伺いになんて来なくていいのよ?」
「……心配してくださるのですか?」
アルフォンソは少し目を見開いて、そして、心底嬉しそうに言った。そんな様子に心はついていけなかった。
どうして、そんな風に嬉しそうにして見せるの。そう尋ねることなど出来はしない。
リコリスにとって、この婚約は転がり落ちてきた幸運と言っても良かった。国のために、結婚することを決められていたリコリスにとって、初恋の人と結婚できるなんて夢にも描いたことはなかった。
だから、これは幸運で、幸福なことで間違いはなかった。
でも、アルフォンソにとっては違う。アルフォンソは女神の夫となるはずだったのだ。それを手放して、廃材の手を取らなければならなくなったアルフォンソにとって、これは不幸ともいえる婚約だった。
「心配、致しますわ。そのように、お顔の色まで悪くされては。体を、壊してしまいます。」
ふわりと微笑んだアルフォンソの目を見ることができずに俯く。
「私も、いつも思っていました。……姫が、顔色を悪くしてまで公務に打ち込むたびに、お体が心配で、心配で堪らなかった。」
「……え?」
「あなたは、あまりに遠くて、お声をおかけすることは叶いませんでしたが。」
アルフォンソの言葉に、鼓動が早くなるのが分かる。何を、期待しているのだろうか。
優しいアルフォンソが、気を回してくれたにすぎない言葉に、自分は何を期待しているのだろうか。
一人で強く立っていたいと望んだ自分は、孤独を選んだはずだった。孤独を選んだのか、選ばされたのかは分からなかったけれど。
そんな自分を心配する人間などいやしない。そう思っていたのに、アルフォンソの優しい言葉に胸は締め付けられたように痛くなった。
これが、純粋な心配りであったなら、まだ救われる。たとえ、そんな事実がなくとも。
気まずいだけだと思っていたアルフォンソの訪問が、初めて、とても贅沢で甘美な時間に思えた。
絶対に、自分には与えられないと思っていた未来が、目の前にあるのだ。
「心配していただけるのは嬉しいです。ですが、どうか、私がこうして、姫に会いに来るのを拒まないでいただけませんか。」
「私とお過ごしになるよりも、……休んでいただきたいわ。」
先ほどは淀みなく言えたはずの言葉が、詰まってしまった。
「いいえ。今の私の支えは、姫にお会いできることなのです。ですから、どうか、私から褒美を取り上げないでください。」
リコリスは今度こそ、答えを返すことができなくなった。
リコリスの機嫌を取るためだけの言葉だ。リコリスと結婚しなければ、ローズベルの初恋を守ってやれない。どこまでも主人思いのアルフォンソの言葉など、真に受けてはいけない。
そう思うのに、心は地に足がつかないかのように、鼓動を躍らせて見せた。
そんな言葉を言わないで。
ローズベルのためなのだと、そう言って。
そう言ってくれたのなら、こんな風に無様に心を躍らせることなどないのに。
リコリスは、この甘く切ない時間を終わらせたいと思い、そして、いつまでも終わらなければいいと思った。