---キリトリ
「君の絵は素晴らしい。」
そんな言葉はいらなかった。ただ父さんや母さんが褒めてくれるだけで良かったんだ。
「コンクールにでも出してみたらどうかね?」
そんな気遣いはいらなかった。僕はただ絵を描くのが好きなだけなんだ。
その人の勧めに父さんや母さんも乗り気になり、僕の絵は何かのコンクールに応募され、そして賞を受賞したらしい。小学生での受賞は初めてで、天才小学生なんかと言ってテレビの取材が来たりした。
最初は嬉しかった。父さんも母さんも喜んでいたし、病気がちで休みが多くなかなか学校になじめなかった僕をクラスメイトが取り囲んでくれたりしたから。
でもしばらくして僕の周囲は変わってしまった。
父さんは僕に絵を描くように、もっと絵の勉強をするようにとうるさく言うようになってしまった。母さんは庇ってくれたけれどそれでも心のどこかで僕が絵を描くことを望んでいるのに気づいてしまった。
そして何より悲しかったのが自分の好きなものを好きなように描けなくなってしまったことだ。僕に絵を描いてほしいと言う人の望む絵を描かなくちゃあいけない。
好きだった絵が嫌いになりそうだった。
ある日、僕の個展を開くことになりその会場で挨拶をするために早めの時間に入った。挨拶なんて嫌だったし、大人に囲まれて息が詰まりそうだったのでこっそりと抜け出してまだ人のいない会場を当てもなく歩いていた。
そこには自分の描いた絵がこれでもかと飾られていた。小さいころに描いた落書きのようなものから幼稚園で描いたお母さんの絵、そしてコンクールに出品する直前の絵を見てなぜか涙が溢れてきた。
楽しく描いていた時の絵だ。人のことを気にせず、自分の好きに描けていた絵だ。幼い日の楽しい日々がそこに溶け込んでいた。
その先はただの空白だ。絵の技術は上がった。だけど僕の絵だけど僕の絵じゃない。まるで・・・
「写真のようだ。」
自分の思っていた言葉と重なり、慌ててそちらの方を向く。その言葉を呟いたのは警備服を着た男性だった。その人は僕など気にも留めずに歩いて去って行ってしまった。
彼にとってはその程度の言葉だったのだろう。しかし僕の心にはその言葉が重く突き刺さった。
違う、僕の絵は写真なんかじゃない!
そう否定したい思いがあると同時に、その言葉はすんなりと僕の心に住み着いた。
僕の絵は空っぽだ。どんなにきれいでも、どんなに技術があってもそこに僕はいない。だったらこの絵は誰の絵なんだろう。
絵を描く意味を見いだせないまま、それでもなお絵を描き続きた。中学校も県外の有名な美術の先生がいる学校を勧められたが、体調を理由に断った。
逆に少し田舎の普通の公立中学へと入った。空気も水も美味しいせいか体調不良になる回数は減った。それだけは良かったのかもしれない。
中学校でも美術部に入ったが、当然僕を教えられるような教師はいないので、自由にしていいと言われた。描くものを探して校庭をさまよい、めったに人が来ない場所でただ空虚な絵を描き続けるそんな毎日だった。
真白先輩に声をかけられたのはそんな時だ。
「えっと、あの・・・こんにちは。」
振り向くと真っ黒に日焼けしたジャージ姿の真白先輩が立っていた。ボールでも飛んできたのかなと思ったが、じっと僕の方を見ていたのでどうもそうでもないらしいと理解した。
でも理由がわからなかった。とりあえずジャージの色から2年生だと言うことが分かったので失礼のないように挨拶を返す。
「・・・こんにちは。」
「うーんと、その、絵、描いてるんだよね?」
「・・・はい。」
「えっと描いているところ見せてもらっていい?あっ、私、桐谷真白って言って写真部の・・・」
「・・・邪魔しないなら、いいです。」
「えーっと、はい。静かに見ています。」
僕はちょっと警戒していた。
テレビに出ていたころから、僕の絵が見たいと言って近づいてくる女子がいた。でも絵に興味があるなんて嘘だった。しばらくして僕のことが好きだと告白してきた。僕と近づくために絵に興味があるって言っただけだった。
僕は怒って拒絶した。絵を馬鹿にされたと感じた。僕の絵には価値がないと言われたような気がしたんだ。
その子は離れていった。そして僕の悪口を言うようになった。それはクラスへと伝播し、僕は1人になった。いじめられこそしなかったが、集団の中で僕はいつも1人だった。
先輩もそうなんじゃないかって思ったんだ。
だから邪魔しないという条件で見ていいことにした。そのくらいしか思いつかなかった。
キーンコーンカーンコーン。
「えっ?」
先輩の驚いた声がチャイムと共に聞こえた。
僕も内心驚いた。まだいるなんて思わなかったんだ。一言も話さなかったから諦めてどっかに言ってしまっているものだとばかり思っていた。
動揺を隠すためにそそくさと片づけをはじめ、折り畳みの椅子を手に持ってそのまま帰ろうとした。ずっと無視して絵を描いて、先輩になんて言われるかが怖かった。
「あの、明日も見に来ていい?」
「・・・」
思いもよらない言葉だった。ただ僕が絵を描くところなんてつまらないはずだ。こんな空虚な絵、見る価値なんて無い。そんな絵しか僕は描けないんだけど。
「・・・邪魔しないなら、いいです。」
それだけ言ってくるりと向きを変えると校舎に向かって歩き出した。先輩の視線を感じたけど振り返らなかった。
でも約束を守って邪魔しないように僕の絵を見続けてくれた先輩がちょっと気になった。
それから毎日先輩は部活の時間になると僕のところへやってきて絵を見るようになった。
絵を描く邪魔になると思っているのか、僕が絵を描いているときには本当に一言も発せずに、休憩時間にだけ話しかけてくる。
その会話も押しつけがましくなくて、ちょっとした気分転換になった。
ただ1人絵を描く空虚な時間が少しだけ色づいた気がした。だからちょっと休憩時間を増やしたりして1週間が経過した。
水性絵の具をパレットで混ぜては、自分の満足のいく色を探して絵を完成させていく。
下書きの絵はうまく描けるのに色を塗ると下手になってしまうのはこの色探しや陰影、そして描いた時の色の混ざり具合がうまくいっていないせいだ。だからここで妥協することは無い。
知識はあるんだ。技術もある。パッと見は良く描けていると自分でも思う。でも何かが足らないのだ。それが自分の心を冷たくする。
大雑把な下地が描けたところでいったん休憩にする。すると少し先輩が真剣な表情で僕を見ていた。
「ねえ、香取君。絵を描くってどういうこと?」
「意味が分かりません。」
正直に答えた。
だって意味が分からないし。絵を描くってどういうことって言われても、対象を下書きし、色を付け完成させるとしか言いようがない。
でもそれが先輩の聞きたいことじゃないってのはその表情から読み取れた。
「写真もさ、風景を切り取るっていう意味じゃあ絵を描くのと同じでしょ。どんな感じなのかなって思って。」
写真と同じ。
そのフレーズが僕の心の中に怒りの炎をつけた。ここで先輩に怒るのは理不尽だと分かっている。それでもその言葉は僕の古傷をえぐる言葉だった。
先輩へと声がかけられない。今、口を開いてしまえば僕は絶対にひどいことを先輩に言ってしまうだろう。なんとなくそれは嫌だった。絶対に避けなければって思ったんだ。
仕方なく休憩を終え、再びスケッチブックへと筆を下ろしていった。でもイライラした心に反応するようにその筆は絵を汚く汚していく役割しか果たしていなかった。
「えっと、なんかごめん。」
「・・・」
「何が悪かったのか、いまいちわかんないけどこのとーり!」
あまりの潔い平謝りっぷりにちょっと笑いそうになったが、なんとかため息を吐いて誤魔化す。
そして筆をスケッチブックからゆっくりと離すと水で洗い、そしてパレットの絵の具を新たに混ぜていく。荒れたスケッチブックの絵はもう元には戻らない。
しかしどちらにしても空虚であることに変わりはない。それが悲しかった。
「絵は写真とは違います。ただ風景を映す写真と違って・・・絵の具に作者の思いが溶け出して、その一筆一筆にこもっていくんです。写真なんかとは・・・違う。」
先輩に言っているようで自分に言い聞かせていた。どこかで納得してしまいそうな自分を必死になって否定していた。
違う、僕の絵には、僕の筆には僕の心があるはずなんだ。
パレットの絵の具をつけようと動かした僕の腕は思い通りにはならなかった。ギリギリと強い力で握りしめているのは先輩の小さな手だった。
顔を上げるとそこにはほほ笑みながらも底冷えするような威圧感を放っている先輩がいた。
その場からすぐに逃げたくなった。
「香取君、ちょっと来なさい。」
「・・・やだ。」
「いいから、さっさと来る!!」
抵抗したが無理だった。
「桐谷先輩、臭いです。」
「ちょーっとその言い方はやめてほしいかな。私が臭うみたいじゃない。」
先輩に引きずられて連れ込まれたのは薄暗い酸っぱい匂いがする部屋だった。ちらし寿司とかを作っているときの匂いに似ている。
正直に臭いと言ったらなぜか注意されてしまった。何でだろう?
そういえば先輩はちょっと甘い良い匂いがするはずだ。外で絵を描いている時にたまに風に乗って流れてきたんだ。気になって先輩の首筋へと顔を近づけた。やっぱり甘い良い匂いだ。
「桐谷先輩は良い匂いがする。」
僕はこの匂い好きだな。
先輩はしばらくプルプルとしていたけれどちょっと怒ったように僕を見た。いきなり匂いを嗅いだのは失礼だったかもしれない。
「わ、私の匂いのことはいいから!ちょっとそこで座って待ってなさい。危ないからむやみに動かないでよ。」
「・・・わかった。」
確かに真っ暗で見えないと言ったことは無いが薄暗く、物も多いのでむやみに動くと邪魔になりそうだと椅子に座った。
先輩が作業に入る。その目は真剣で僕のことなんかまったく目に入っていないみたいだった。いや、実際入っていないだろう。
先輩は目の前の写真に全身全霊をかけて作業しているんだ。その姿がとてもまぶしくて、とても羨ましくて、そしてとても綺麗に見えた。
僕の左手が思わずスケッチブックを開いていた。今、この瞬間を切り取りたい。強くそう思った。僕はただ鉛筆を走らせた。
ふぅ、と言う先輩の声が暗室に響く。洗濯バサミに挟まれた3枚の写真を満足げに眺める先輩はとても輝いて見えた。
「えっとゴメン。完全に放置しちゃった。」
「んっ・・・大丈夫です。」
先輩に見とれていたらいきなり声をかけられて心臓が飛び出そうになる。でもなんとか冷静を装って返事が出来た。
先輩に手招きされて先輩の横に立つ。さっきの良い匂いがするような気がして僕の鼓動が跳ねる。離れたい、でも近づきたいそんな矛盾する心に戸惑いを覚える。
僕はどうしちゃったんだろう。
こっそりと深呼吸をして心を落ち着かせながら先輩が現像した写真を見る。
「僕・・・ですね。」
「うん。分かりやすいかなって思って。えっと暗くってごめんね。まだ乾燥中なんだ。」
3枚の写真はすべて同じ構図だ。写真の右下で僕が椅子に座りながらスケッチブックへと鉛筆を走らせていた。そんな僕の前を一匹の猫が通り過ぎていく、そんな写真だ。
「これが普通にプリントしたもので、こっちは香取君を主にしたもの、でこっちは猫ちゃんを主にしたものだね。」
1枚1枚を指さしながら先輩が説明していく。通常のプリントと違い、僕や猫を主にしたものはそれ以外がどこかピンボケしたように映っておりそこへと目が惹きつけられる写真だった。
同じ写真なのにそれだけで印象がすごく変わっていた。先輩が切り取りたいものがはっきりと感じられた。写真なんかじゃない。
「現像だけでもこれだけ違いが出るし、私はシャッターを切る一瞬に自分のすべての思いを込めているつもりだよ。だから写真なんか、なんて言ってほしくないかな。」
照れたように笑う先輩を見て、僕は自分が先輩に恋をしたことに気づいた。恋でなければ頭から湯気が出そうなほど顔が熱くなるはずはない。
そして同時に後悔した。僕はそんな先輩の好きな写真を馬鹿にしたことを言ってしまったのだ。先輩の写真に比べれば、僕の絵なんてただの駄作だ。
「・・・ごめんなさい。」
「う、ううん。いいから、いいから。というか私もちょっと強引に連れ込んじゃったし。」
頭を下げるしか出来なかった。
僕は気づいたのだ。写真に心が宿ることを。絵だけが特別と考えていた自分の傲慢さを。どこかで写真を一段低く考えていた自分の愚かさを。
チャイムが鳴った。僕は何も言えなかったし、先輩も何も言わなかった。沈黙が辛くて僕は部屋から逃げた。それだけしか出来なかった。
翌日から僕は美術室にこもって絵を描いていた。先輩の絵だ。
下書きはしたがどうしても記憶が新しいうちに絵に残してしまいたかった。記憶の中の先輩を思い出しながら色をつけていく。思い通りの色にならない。
違う、違う。もっと先輩は真剣だった。自分のすべてを掛けていた。こんなもんじゃない。
それにもっと綺麗だった。
顔が赤くなる。記憶の中の照れるように笑った先輩の顔が浮かんできてどうしても顔がにやけてしまう。
でも今はそんな場合じゃない。頭を振って雑念を振り払う。
もっと、もっと描きたい。先輩の絵を、先輩の姿を、先輩の気持ちを、そして先輩を好きだと言う僕の気持ちを。
結局満足のいく絵は描けなかった。それでも今までの絵よりはよっぽど良い絵になったと思う。もっと日にちを掛ければもっと良い絵になるのかもしれない。
でもそれよりも先輩に会いたかった。4日も経ってしまっているから普通ならいないと思う。でも、先輩ならいるんじゃないか、そんな不思議な確信があった。
椅子やスケッチブックを持って校庭へ出るといつもの場所に小豆色のジャージが見えた。僕は小走りで近づく。
「やーめたっ。」
「・・・何がですか?」
「うわっ!!」
カメラを構えながら驚く先輩はやっぱり可愛かった。もっと先輩を描きたい、もっと先輩のことを知りたい、一緒に過ごしたいって思った。
先輩がカメラを定位置に戻してこちらを見る。
「香取君、ここで描くのをやめたんじゃないの?」
「何でですか?」
「だってこの4日くらい来てなかったし。」
「先に書きたいものが出来たので美術室で描いていました。」
「えっと・・・あー、そっか。」
もしかして心配をさせちゃったんだろうか。
でもどうしても先輩の絵が描きたかったんだ。僕の心に焼き付けるためにも。
ちょっとがっくりしている先輩が心配ではあるんだけど、大丈夫と言われてしまったので仕方なく椅子を組み立てて座りスケッチブックをめくる。
そして先輩の絵のページで手が止まった。
本当の僕の絵だ。先輩に見せたら気持ち悪いって言われるかな。勝手に書いて嫌われたりしないかな。嫌な想像ばかりが頭をよぎる。
でも、それでもこの絵に込めた僕の想いを先輩に知ってほしい。
「真白先輩。」
「えっ、うん。何?」
「これを見てほしい。」
先輩が差し出されたスケッチブックを見る。
思い切って桐谷先輩じゃなくって真白先輩って言ってみたんだけど気づかれてないみたいだ。ほっとするとともにちょっと残念だなんてなんか不思議だ。
「私だ・・・。」
真白先輩が僕の絵を見ていた。
冷静に考えれば今までも見ていたんだけど、今は自分の心を覗かれているようでちょっと恥ずかしい。でもそれが誇らしくもあった。
「あの時の私だね。スケッチしてたんだ。」
「うん。あの時の真白先輩を見て描きたいって思った。」
「暗室でよく描けたわね。」
真白先輩から返してもらったスケッチブックを見る。このままなあなあにしてしまっても何も問題ない。先輩と後輩の関係で終わるだけだ。
でもそれは嫌だった。僕は先輩の最高の一瞬を絵に描きたい。それは一生のうちで最高の瞬間のものだ。だから僕がずっと先輩の一番間近にいたいんだ。
「真白先輩。先輩の絵が描きたい。」
「えっ、なんで?」
「先輩の写真は先輩でいっぱいだった。僕の絵には僕はいなかった。でもさっきの先輩の絵を描いたとき初めて絵の中に僕が入れた。だから・・・」
「うん・・・」
「僕に先輩を切り取らせてほしい。」
先輩の顔が赤くなる。
僕のことを好きなんじゃないかとちょっと勘違いしそうだ。でもまだ僕は先輩にふさわしい男じゃない。僕はまだまだ未熟でそして子供だ。
先輩に釣り合う訳がない。でも・・・
「モデルなんて出来るかわからないけど、いいよ。でも香取君。さっきの言葉はちょっと照れるよ。なんか告白されたみたいで。」
「彩斗。」
「んっ?」
「彩斗って呼んでほしい。」
「了解。じゃあ彩斗君、私は何をすればいいの?あっ、もちろんヌードとかはNGね。」
「そんなのはいらない。」
「そんなのって・・・」
真白先輩に名前で呼ばれた。それだけのことなのにこんなに心が軽くなるなんて。
ヌードなんて言われたけど、そんなことをしたら僕の心臓が止まって死んでしまうと思う。真白先輩のヌードデッサンなんてそんなの、想像しただけでも無理だ。
ちょっと落ち込んでいる真白先輩も綺麗だ。
真白先輩約束します。いつか、きっといつか・・・
「好きって気持ちが伝わるまで描き続けるから。」
「んっ、何か言った?」
「なんでもない。」
誤魔化すように椅子に座ってスケッチブックを広げる。その後ろから真白先輩が僕の絵を覗き込んだ。真白先輩のちょっと甘い匂いが風に運ばれていく。
このいい匂いを描けないことが残念だと思った。
最後までお読みいただきありがとうございました。
実はいきなりクライマックスという面白い言葉に触発されて突発的に書きあげたもので、同じ話を視線を替えて書いてみたらどうなるかを試してみた作品でもあります。
キリトリ--- 三人称視点
---キリトリ--- 真白視点
---キリトリ 彩斗視点
話の内容はほぼ同じですが、下記にリンクを貼っていますのでよろしければ読んでいただければと思います。
読まれない方もここまでお付き合いいただきありがとうございました。