砕ける精霊
海底神殿は荒れ果てていた。思っていた以上に荒廃している。
壁は崩れ、天井は崩落し柱は欠け床にはクレーターが出来ている。
「リヴァイアサンが住んでる場所とは思えないくらい、ぼろぼろだね」
「傷跡が真新しい……誰かに破壊されたようですね」
欠けた壁材を調べているハムちゃんが気になることを言い出してきた。
誰かとは、誰だろう。この崩壊具合が、戦いによる傷跡でないことくらいはボクにでもわかる。
武器や魔法による傷跡が見られないのが一番の理由だ。
そもそもリヴァイアサンは海を――水を司る、青の属性を象徴する精霊だ。知名度でいうならせるちゃんよりも有名なくらいだ。
その脅威がどれほどのものかは御伽話に伝わるほどで、海竜の怒りを買えば街が沈む、と言われているくらいだ。
だからそんなリヴァイアサンに挑もうとする精霊や魔物なんていないくらいで、ましてや普通の魔法使いが挑むわけもないし。
じゃあ、誰が?
「違うね。これ、リヴァイアサンが暴れた跡だよ」
「クルル?」
傷跡をなぞるクルルが悲しそうにぽつりと呟いた。それは誰を思っての感情なのか。
でも、悲しいって気持ちはなんとなくわかる。
これほど神秘に溢れた空間が、ぼろぼろに破壊されている。今まで人の手が入ってこなかった場所が侵された。
その破壊を行ったのが、他ならぬリヴァイアサンであるならば。
リヴァイアサンを歪めてしまった人を、許してはいけない。
精霊は大自然そのものだ。侵すことも歪めることもしてはならない。それは世界すらもねじ曲げてしまう、この世界に住む者としてしてはならないことだ。
「……うん、僅かにだけど黒の力も感じる。バラヌスを歪めていたのと同じだ」
「わかるんだ」
「私だからねっ!」
まあクルルは黒の力の象徴とも自分で言うくらいだし、偽物か本物かを見分けることくらい造作もないのだろう。
「ついでに誰が偽物の黒を使ったとかわからないの?」
「わかれば苦労しないんだけどねー。まあ十中八九、バラヌスが語った片翼の人間じゃないの?」
「心当たりなんてまったくないんだけど……」
少なくともこの大陸にある四つの国には、片翼の人間なんて種族は存在しない。
魔物に近い種族である獣人とか、エルフやドワーフなどの亜人、吸血鬼とかはいるらしいんだけど。
天使とか悪魔ならまだしも、片翼のヒトガタなんて聞いたことも見たこともない。
他の遠い大陸に住んでいるとして、目的はなんなのだろう。
「目的はわかりませんが、ひとまずは目の前の事態を解決することにしましょう」
「うん。まずはリヴァイアサンを正気に戻さないとね」
感じているリヴァイアサンの魔力は徐々に濃くなっていく。リヴァイアサンに近づいている証拠だ。
この通路を抜けた先に空間が広がっているから、そこにいるのだろう。
……疑問に思うのは、やっぱり他の精霊も生物も見当たらないこと。
リヴァイアサンが食べちゃった? まさかね。
「とりあえず先手必勝で私が凍らせればいいわよね? ハムも怪我してるしリフルは今回役立たずだし」
「ひ、否定できないのがむかつくのじゃ……!」
やる気全開のせるちゃんがいればとりあえず問題ないだろう。前回のイフリートと違って今回のリヴァイアサンはせるちゃんにとって相性が非常にいい。周囲ごと凍らせて拘束するくらい、今のせるちゃんなら容易だろう。
でも、静かすぎる。リヴァイアサンの魔力は感じるから広場にいるのは確かなんだけど……なんというか、歪んで凶暴になっている、というより衰弱してる感じがする。
「ねえハムちゃん、静かすぎない?」
「……そうですね。本来のリヴァイアサンであれば、今頃は私たちに気付いて大暴れしていると思いますが」
リヴァイアサンの脅威はもう十分に痛感した。高度を上げたハムちゃんに食らいつき、一旦振り払ってもなお執拗にボクたちを狙って攻撃してきた。
せるちゃんのおかげで事なきを得たけど、あの時せるちゃんが間に合わなかったと思うとゾッとする。
「つい、た?」
通路を抜けて一際明るい広場に出ると、そこには確かにリヴァイアサンがいた。
『だ、れだ』
響いてくる声は間違いなくリヴァイアサンのものだろう。広場の中央に横たわっているリヴァイアサンは身体を動かすこともなくボクたちに声をかけた。
明らかに様子がおかしい。先ほどまでの異常なまでの獰猛さはどこに消えたのか。
ひとまずせるちゃんに手でサインをして、凍らせるのはやめてもらう。
いまなら話を聞いてもらえそうだし。
「水の精霊リヴァイアサン。あなたを助けに来ました」
『たすけ、だと? ……はは。手遅れよ』
手遅れ、というのはどうしてだろう。体表全体に浮かんだ黒のラインは確かに黒の力だけど、それはボクがかき消すことが出来る。だから今すぐにでもリヴァイアサンを解放することはできる。
だというのにリヴァイアサンは言葉にすることなくうめき声を上げるだけだ。
「と、とりあえず黒の力を消さないと!」
リヴァイアサンの真意はわからないけれど、今苦しんでいるのは間違いない。
駆け寄って、体表に浮かぶ黒いラインに手を重ねて黒の魔力を以てかき消す――はずだった。
「エルル様っ!」
「エルル!」
「危ないのじゃ!」
咄嗟にボクの身体は引き戻され、ハムちゃんの胸の中に収まる。何が起きたかもわからないままにボクが立っていた場所に目を向けると、そこには全身を紫色で統一した片翼の女性が立っていた。
「あら残念。そのまま集中してればさっくり殺してあげたのに」
「―――ッ!」
ズキンズキンと、あの人を見た瞬間ボクの頭に鋭い痛みが走る。
誰かはわからない。わからないけど――あの人は、ボクを知っている、ようだ。
だめだ。頭が痛い。痛くて痛くて痛くてうずくまる。
「エルル様、大丈夫ですか!?」
「あら……?」
「……シン。シン、なの?」
ぽろりと口から零れた言葉。
シン? ボクは誰のことを指しているのだろう。
ハムちゃんもせるちゃんもリフルちゃんも、当然クルルもその言葉が何を意味しているかはわからない。
でもその女性だけは、ボクの言葉を聞いて妖艶な笑みを浮かべた。
「いいえ。シンは私たちの祖先。私はイヌンダーティオー・ルクスリア。以後、お見知りおきを」
そういってルクスリアさんは胸元から一枚のカードを取り出した。
真っ黒な、カードを。全体に鎖のような絵柄が掘られたカードを。
「天人が宣言する。大海を支配する精霊よ、その身に刻みし我らが主の力に従い、その身体を棄てなさい!」
『ぐぉ、おおおおおおおお!?』
カードを掲げ女性が宣言する。瞬く間にリヴァイアサンの体表が崩壊していく。ぼろぼろと、ガラス片のように砕けていく。苦痛を訴えるリヴァイアサンの悲鳴が海底神殿に響く。
「駄目っ! せるちゃん、止めて!」
「だめ、間に合わない――」
『が――ッ』
消えてしまうほど小さな悲鳴が聞こえて。リヴァイアサンは、崩壊した。
「知っていて? 精霊とは高密度の魔力が属性を帯びて形となった高次元生命体。永久に近い寿命を持つ支配者たる精霊は、その中に恐ろしいほどまでの魔力を蓄えているの」
砕け散ったリヴァイアサンの中から浮かび上がる青く光る球体がルクスリアさんの手元へと移動する。
距離を取っていても感じるほどの圧倒的なエネルギー。魔力の集合体は、中から僅かにだけどリヴァイアサンの魔力を感じる。
「このコアを入手することこそ、我ら天人が使命」
頭痛が激しくなる。ボクの中からなにかがこみ上げてくるような違和感が胸を穿つ。
痛い。頭が。痛い。胸が。
「だ、め。返して。それは、リヴァイアサンの――命なんだよ!?」
精霊を壊したルクスリアさん――許せない。
許せない。許しちゃいけない。認めちゃいけない。
理由はいらない。精霊を侵す者はいてはならない。
だって精霊は、世界に暮らす者たちにとって家族であるのだから。
だから、だから、だから!
「集え魔力よ――我は黒に誓いを立てしゼロの位階を持ちし者なり! 破動せよ――」
「だめエルルっ! その力は――」
「アブソリュート・カオスエレメントっ!」
ボクは初めて、人へ対して黒の力を行使する。