煙突から、他二編
『螺旋泥土』
散々危ないと言われていたのに泥沼に足を取られてしまった。取られた足を取り返そうと沼に掛け合ってみたが、沼は応じてくれなかった。仕方がないので力づくで取り返すために足踏みをすると、事態はますます悪化して、沼はぼくの足首を取り、すねを取り、ひざを取り、太ももを取り、ついには腰まで取ってしまった。半身を沼に取られたぼくは、神頼みでもするかのように天を仰ぎ、そこに神様らしき姿がないので諦めて沼へと視線を戻した。存在しないものに期待を抱いてしまった間に、沼はぼくの胸まで取っていた。身体で動作可能な部位は腕と頭、それだけでぼくはいったい何ができるだろう。ぼくは周辺の泥を手でかき集め、両手のひらを椀状にしてそこに泥だまりをつくる。それを天にささげるかのように掲げているうちに、沼はぼくの首を取り、あごを取り、ついには顔まで取ってしまった。沼に取られていないのは、空へと精いっぱい突き出した両手、そのなかの泥土。ここに神様が落ちてきてくれたら、ぼくはどんなに嬉しいことか。きっと笑ってしまう。大笑いだ。けらけらと、狂ったように、もう笑っている。
『春雷光』
白絹かなうか 窓すさび
吹き入る雨風 春香り
天上渦巻く 白雲に
潜みし災禍の報を待ち
息を止め 身構えれば
瞬転、来迎、春雷光
一瞥にして天に根を張り
雨粒求めて数珠つなぐ
嘶きは雨雲を裂帛して轟き
閃いて瞑目のうちに立ち消える
雲海に息吹く雷光の春
瞬過の盛衰に目を瞠る
『煙突から』
父の仕事についていくのが好きだった。父は煙突掃除を生業としていた。この街には煙突が二本あり、その一つを担当しているのが父だった。父が担当していた煙突は多摩川沿いの蘆原に建っていた。地面から突き出した巨大なそれは、一周回るのに五分ばかり要した。ぼくはよくその周りを駈け、はるか頭上にある煙突の先端から顔をのぞかせる父を見上げては大きく手を振った。父はぼくに手を振りかえし、煤の雨をばさばさと落とした。ぼくはそれを避けながら日が暮れるまで煙突の周りをぐるぐると回っていた。父が掃除をした後の煙突からは様々な色の煙が出た。今日は青色を出してやるぞ、と息巻いて父が言うとその通りの青色が出たが、その日は快晴だったので、せっかくの青色は空の色と混じってよく分からなかった。父は笑いながら明日は黄緑だからよく分かるぞ、と言った。毎日変わる色をぼくは楽しみにしていた。
父が担当する煙突は遠方からでもその存在をはっきりと主張していたが、もう一つある煙突は、すぐそばまで行っても気付かないほど希薄な煙突だった。それに加えてよく動くので、その掃除を担当する父の同僚はよく困っていた。ある日ぼくがいつも通り父の煙突の周りを駈けていると、落ちていた何かに躓いて転倒した。それがもう一つの煙突だった。もう一つの煙突は、黒く濁った有毒そうな煙をぽっふと噴き出し、どこかへと移動していった。しばらくして父の同僚がやってきて、おれの煙突を見たかと訊いたので、さっきまでそこにいましたと答えた。父の同僚は、また逃がした、もう半年も掃除できてないと愚痴り、今日はもう辞めだと言って父の煙突を見上げた。煙突の先からは鮮やかな桃色の煙が濛々と吐き出されていた。それを羨ましそうに見つめていた父の同僚は、お前の父さんはいいよな、毎日掃除ができて、と呟いて歩き去っていった。
街に三本目の煙突が建つことになったとき、その掃除をだれが担当するかで父と父の同僚はもめ合いになった。父はおれの方が慣れているからおれがやると頑なに言い張り、父の同僚も一歩も譲らず、おれはもう半年も掃除ができていないんだ、そろそろ我慢の限界だ、おれに掃除をさせろ、掃除をさせろ、と血眼になって言い募った。三本目の煙突が完成しても決着はつかなかったので、新たな清掃員を選ぶことになった。それがぼくだった。
ぼくの煙突は父のものほど大きくなく、父の同僚のように動き回ることもない普通の煙突だった。そのことにほっとしつつ、ぼくは毎日、煙突掃除に励んだ。煙突の内部に入り、命綱のロープを腰に巻きつけ、詩を編み込んだ雑巾で内壁を拭きながら下から上へと登っていく。煤は幾重もの強固な層となってこびり付き、雑巾でひと拭きするだけでは決して落ちない。そのため、同じ個所を何度も拭くことになる。一度に拭ける範囲は限られているので、本当に少しずつ、少しずつ登っていく。初日は半分もいかずに一日が経過し、途中で体力の限度がおとずれて完遂できなかった。翌日煙突のなかに入ると、昨日拭いたばかりだというのに内部は煤まみれになっており、二日目も地上からの出発だった。それでもぼくは煙突掃除が楽しくて仕方なく、時間も忘れて黙々と作業にふけった。夢中で掃除をしていると、いつの間にか傷んだ雑巾から糸くずがほつれ、それは煤と絡まり合いながらぼわぼわと辺りを浮遊していた。糸くずのなかの詩と一体化した煤は、肥大して毬藻ほどの大きさとなり、呼吸の際に口のなかに入り込んだ。口のなかに入ったいくつかの煤は、さらなる詩を求めて体内に進もうとしたので、ぼくは慌てて吐き出し、なるべく浅くすばやく息をするように工夫して煤の侵入を拒んだ。詩を得られなくなった煤は、浮遊することができなくなり、やがて重力に引かれてゆるゆると下降していった。雑巾がボロボロになり使い物にならなくなると、ぼくはそれをくちびるに押しつけ、新たな詩を詠んで修繕した。裂けた箇所は鋭く短い核心をつく詩を、穴の空いた箇所には大きく広がる雄大な詩を詠んだ。詩を詠むとぼくの心も落ち着いた。まるでぼく自身が修復されているかのようだった。
ぼくは煙突を掃除し、雑巾を直した。直した雑巾で煙突を掃除してぼくを直した。直したぼくが煙突を掃除し、煙突は着実に綺麗になっていった。そのようにして少しずつ登っていくと、下から仰ぎ見たときには、小さな点のようだった上空の明かりが、今では満月ほどの円にまで成長していた。ぼくはその外郭に手を掛け、ひと息に頂上まで登って煙突の縁に腰を掛ける。ゆっくりと呼吸を整え、鼻をくすぐる煤をくしゃみで追い払って辺りの景色に目を凝らした。
外界は夕暮れにむけて動き出していた。日中に疲れ果てた陽球は真っ赤に火照りながら山々の寝具にうずもれようと傾斜し、雲間から飛び出した雁の群れが、残された陽光を嘴で拾い上げ、空の後片付けをしながら西を目指す。逆光にそびえる電波塔が夕風に軋んで帰宅を促す電波を飛ばすと、街を行く人々は足を速める。帰宅者たちを迎える家屋から夕食の匂いが漂って、飢餓を抱えた夜行のものたちをけし掛ける。トラックの下で寝ていた黒猫が目を覚まし、目前を横切った夜気に向かってにゃあと小鳴く。鳴き声は樹幹に止まる蝶を驚かせ、その翅にまとわれていた鱗粉を剥がし落とす。奥から不気味な目玉模様がぎょろりとのぞき、夜が来る街中を厳重に監視する。生物・非生物問わず軽率な行動を自制し、夜の規律の円環沿いに整列して流暢に敬語を話した。電線から指令を受けた街灯は、日没とともに一糸乱れず点灯して夜を華やかに照らした。照らされた夜の美しさを矢継ぎ早に賛美するカラス、ゴミ箱と空き缶は夜露を杯としてなみなみと湛え、遮断機はお手本のような敬礼で忠誠を誓った。数々の生物・非生物が夜に迎合するなか、無数に繁った河原の蘆だけは、持て余した余熱をいさめることのできない炎のように揺れつづける。しばらくの間、その熱は地中にとどまっていたが、何か大きな力に吸い寄せられるようにして動き出す。熱は自らの進路にある水分をことごとく蒸発させながら進んだ。のん気に移動していたミミズを通過してカラカラの干物にし、行く手を遮る木々の根は焦がして道を開けさせた。そうして邪魔者を排除しながら煙突の真下までくると、急激に力が膨れ上がり、地中にとどまることが難しくなったので、勢いのまま地上へと放散した。そこは煙突の最下層、そこら中に散らばっている煤を巻き込み、熱は煙突のなかを急上昇する。内壁と擦れることで生じた摩擦で焼かれた。焼かれたのは巻き込んだ煤だった。いや、煤のなかにいる詩であり、詩のなかにいる言葉だった。言葉は燃え尽きる前に自らのなかにいるいくつかの想念を燃やす。それを見せつけるようにて煙突の先端から噴き上がったとき、上空にひろがる夜を燃やした。媚びてすり寄っていた雲を燃やした。お為ごかしばかり言う星が焼け落ち、月は燃えかすになって砕けた。燃え尽きた夜空は崩れ落ち、瓦解したその裏側から明るい空が現れた。それを翌日と呼ぶのなら、ぼくはまた煤だらけになった煙突を掃除しなければならないので、ボロボロになった雑巾を取り出し、それに新たな詩を吹き込んで、今日も煙突を掃除する。
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